カテゴリ
全体
研究
紀行
ニュース
トピックス
その他
未分類
以前の記事
2017年 06月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 08月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
フォロー中のブログ


<   2008年 06月 ( 6 )   > この月の画像一覧

<羯南と古島一雄>(4) 明治中期の新聞の力

 前回、新聞「日本」創刊当日の“椿事”ということで、森有礼文部大臣の暗殺事件に触れた。今回は、その背景としての当時の新聞の影響力について取り上げよう。
                     
西野文太郎が暗殺を企てた理由は、森が伊勢神宮において、ステッキで神前の御簾を上げる不敬の行為を働いたことに対してであった。しかし、そのことを言いふらしたのは伊勢の神官であったという。実は、伊勢神宮には、森を恨む動機があった。彼らは「伊勢の暦」を発行しており、その収益は大きく、それにより生計を立てていた。しかし、森は、「伊勢の暦」を廃止して、大学教授たちの専門知識を集め、科学的に暦を作り直そうとしていた。そこで伊勢の神官たちは、森を失脚させようと意図し、風聞を流したのであったというのである。
確かに、彼らは大廟を守る者として、森に事前に注意を与えるくらいの配慮は必要であり、ましてや不敬の行為が洩れることは、むしろ彼らに落ち度があったということになるだろう。

そのうわさが流布されるのに当時の新聞が大きくかかわった。明治19年ごろから、新聞は部数を拡大し、情報の流量を増やしていった。新聞も部数の増大・維持のため、刺激的・商品的な情報、今の社会面や週刊誌のような記事を、流すようになっていった。いわゆる「大新聞」の「中新聞」化である。そして、それにより批判や行動を新聞に規定される人々が登場した。

この時、森の人間像は、新聞により実際とは違ったかたちで形成された。森は、伝統を破壊する欧化主義者であり、神道を軽んずるクリスチャンというマイナスのイメージに結びつけられた。具体的には、現在でも奇異な、友人の立会いのもと契約書を交わして結婚式をあげたという「婚姻契約」を紹介する記事が東京日日新聞に掲載され、また、前回、古島の回想に出てくるように東京電報新聞では、森の伊勢での不敬行為が報道された。
しかし、森の実像は、違ったようだ。彼の周辺人物から彼に対する評価を聞くと、正義感が強く、「人を恵みで使うことは易いが、徳によって人を使うのはむつかしいですね」と妻にそれとなく反省を促すように、いたってヒューマニストであったようである。
森は、新聞により悪の虚像として煽られ、暗殺という結果を引き起こすことになったのである。まさに新聞が森を殺したのである。

当時、新聞は黎明期であった。明治15年(1882年)に全国での普及率は、100戸あたり2戸にすぎず、新聞が浸透している東京でも、明治16年(1883年)では10戸に3戸しか購読していなかった。それでも新聞の影響力は大きかった。明治21~23年(1888~1890年)には、各新聞が大隈重信の条約改正交渉に対する反対運動の論陣を張り、また、憲法発布・議会開設といった政治・外交の大事件があり、新聞の普及を促進した。
古島は、当時の新聞「日本」の影響力について、政論新聞として、特に陸の社説が「非常に書生の間に愛読されたもので、神田の下宿屋で『日本』の這入らぬ家は肩身が狭いくらいだった」と語っている。
新聞は、明治中期には、すでにひとつの権力となっていたといえるであろう。

(参考文献)古島一雄『一老政治家の回想』中央公論社、島本久恵『明治の女性たち』みすず書房、佐々木隆『日本の近代<14>メディアと権力』中央公論新社

いしがみ
[PR]
by kuga-katsunan | 2008-06-29 19:59 | その他 | Comments(0)

陸羯南・四女・巴さんを囲んで  その四

細川 そう、子規さんの日記の中に書かれていられますね。オシマさんていうのは何番日の方ですか。

巴 私のつぎの妹で、妹はいろいろ手紙が来ましても知らん顔していて、返事は私が書くのですから。

細川 おいくつちがいですか。

巴 四ッちがいです。

首藤 おばあちゃまからいただいた子規の絵というのがあるでしょう、子規の絵はいいですね、巴さんとオシマさんとを書いた―。

巴 はっきりおぼえていませんが父が朝鮮へ行ったとき、近衛さんのおともで、シキシソノウといいましたか、そこのお邸へ行って、およばれして、近衛さんのところにも私とちょうど同い年のお嬢さんがありまして、服をね、着せてちゃんと写真をとって送ってくれということになったらしく、帰って妹に着せてみたら大きすぎるので、それで私に着せられまして、それでちょうどいいというんです。でも私は朝鮮服なんていやだからというたのですが、それで写真屋へつれてゆかれましてね。
 写真屋の帰りに、着たのだから、それで見せてやれと病人は退屈しているからというのです。
行きましたらね、そばに寄るだのなんてものじゃないんです。さわって生地に、母もそばにいたのですが断るわけにもいかず―。
[PR]
by kuga-katsunan | 2008-06-26 22:04 | トピックス | Comments(0)

「サルスデ-」島と赤石定蔵

 <「サルスデ-」島及「ダルヴヰン」港視察報告>と題される書物が国会図書館に残っている。

  「サルスデ-」島、即ち木曜島である。

木曜島(Thursday Island)は、ニューギニア島とオーストラリアとの間にあるオーストラリア領の島である。

 1789年に映画にもなり有名なバウンティ号の反乱で追放されたブライ艦長らが、漂流中に近くの水曜島、金曜島とともに命名したとの説がある。


 赤石は、メルボルン領事館員時代にこの報告を書いたようだ。

出版は、外務省通商局第二課で、明治26年の11月である。
赤石は、明治23年の暮れに日本をたち24年1月から26年夏までメルボルン領事館に勤務していたのでこの出版はその帰国後ということになる。

 <西濠太利亜はメルボルン領事館の管外に属するも在留の日本人にして屢々領事館を煩はしたるあり>(赤石定蔵、「サルスデ-」島及「ダルヴヰン」港視察報告、明治26年11月)

  当時、この小島に数多くの日本人が在留し、何かと領事館に相談がくるケースが多かったようだ。

  <日本人の同地に出稼ぎするものまた五百人余あり>
(同報告)

 この出稼ぎの日本人を取り上げた作家がいた。

たかぎ
[PR]
by kuga-katsunan | 2008-06-21 05:34 | トピックス | Comments(0)

27歳 正岡子規編集長 奮闘記 その3

二人が、大学予備門に入学したのは、明治17年。
夏目漱石も、秋山、子規とともに、この年に大学予備門に入学している。
参考までにではあるが。大学予備門とは、後の旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部)。念のために記せば、「予備門」という名称から、今日でいう代々木ゼミナールや河合塾のような予備校と間違える方もいるが、当時においては、エリート中のエリートのみが通うことをゆるされた「高級官僚」育成機関ともいえる超難関校である。

話を先のエピソードに戻そう。
大正6年。秋山真之は、海軍少将。3人のうちで一番長生きしたが、50歳で没する前年にあたる。功なり名を遂げた海軍の中将は、五十路を迎えるにあたって、明治35年に35歳であたら命を散らした正岡子規の業績について、どう思っていたのか? かつては文学を志していたこともあったとはいえ、帝国海軍の軍人として、そんな若き日の感傷は、忘却の彼方にあったのか。
あるいは、東京帝国大学英文科の講師から、朝日新聞嘱託に転じ、富国強兵政策への揶揄もまじえた小説『吾輩は猫である』(明治38年)など、社会風刺に富んだ小説・論文・講演録を残した夏目漱石(大正5年没)の健筆ぶりを、どんな思いを抱いてみていたのか。

下世話な表現をお許しいただくとして、50歳を前にした秋山真之は、

「ああ、のぼるくん(子規の本名)も金之助(漱石の本名)も、あんな俳句だの新聞だの、小説やら文学とやらに身をささげて。いったい、どんな価値があったのか」
と毅然と思ったのか。
あるいは、

「私は軍人という道を歩んだが、自分の興味のままに邁進し、あれだけの業績を残したのは、同窓の身として、立派だった。そして羨ましい」
と思ったのか。
 どうにも、興味をそそられるのである。

こんどう
[PR]
by kuga-katsunan | 2008-06-16 22:01 | トピックス | Comments(0)

津軽同郷人会  羯南と赤石定蔵の出会い   

  赤石定蔵は、新聞日本の最後の金庫番として苦闘した人物である。

 彼の生涯は、弘前の川村欽吾先生が書かれた一連の<陸羯南ゆかりの人>のシリーズの中にある<赤石定蔵と陸羯南>(東奥義塾研究紀要 第7集 1974年)に詳しい。

 赤石は慶応3年(1867年)弘前の東海家の次男に生まれた。ただ母親の実家赤石家の跡目が途絶えたことにより、明治6年7歳にして赤石家を継ぐ。

 明治17年東奥義塾を卒業し、上京東京専門学校(早稲田大学)に入学、19年20歳の時に東京で開催された津軽同郷人会で陸羯南と出会う。

 明治20年卒業後、翌明治21年東京電報に入社したものとされているが、このあたりの詳細は現在は不明である。

 赤石は羯南とともに東京電報、新聞日本の創刊に奔走したものと思われる。

川村論文には、明治23年12月5日の東奥日報の記事が引用されている。

<津軽人の大懇親会

明後日例により開会のよしなれども、今年は二名の貴族院議員、四名の衆議院議員を招待し米国より帰りたる本多庸一氏の歓迎会、近き豪州に赴かるべき赤石定蔵氏の送別会をも兼ねべきつもりなりと聞けば定めて盛会なるべし。>

 赤石がなぜ新聞日本から、外務省のメルボルン領事館へ転じたかは、赤石本人にも直接取材している、この川村論文でも明らかにされていない。

 メルボルン領事館は、オーストラリア人の名誉領事のほかは赤石一人だったようで、その苦労が偲ばれる。

  国会図書館には<「サルスデ-」島及「ダルヴヰン」港視察報告>(明治26年11月 外務省通商局第二課)という赤石の報告書が残されている。
赤石の帰国が明治26年夏なので帰国後の報告書ということになる。
(赤石の帰国については、陸から原敬へあてた書簡に詳しいが、この書簡については2008年5月5日の東奥日報に詳しく紹介されている。)

たかぎ 
[PR]
by kuga-katsunan | 2008-06-14 05:27 | トピックス | Comments(0)

書道博物館への道

 上京したささはら君に誘われて青木先生のお墓にお参りした。

ひどい雨だったが、二人とも最近の様子、塾生諸氏の活躍をひとしきりご報告し、なぜか非常にすっきりした気持ちになった。

せっかく学生時代に書を専攻したささはら君なので、飛行機までの時間を書道博物館に案内した。

 書道博物館は根岸の陸羯南、正岡子規の家の向いにある。

ここは、新聞日本、小日本の挿絵画家などで活躍した中村不折の旧宅なのである。

不折は、明治27年浅井忠の紹介で子規と出会う。

「その時の有様をいへば、不折氏は先づ四、五枚の下画を示されたるを見るに水戸弘道館等の画にて二寸位の小さき物なれど筆力勁健にして凡ならざる所あり。

而してその人を見れば目つぶらにして顔おそろしく服装は普通の書生の着たるものより遙かにきたなき者を着たり、

この顔この衣にしてこの筆力ある所を思へばこの人は尋常の画家にあらずとまでは即座に判断し、その画をもらひ受けて新聞に載せる事とせり。

これ君が新聞にあらはれたる始なり。」

正岡子規「墨汁一滴」

 子規27歳、不折29歳、二人の若き天才の出会いであった。

たかぎ
[PR]
by kuga-katsunan | 2008-06-07 06:50 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
メモ帳
執筆陣
 たかぎ(主筆)
 やまだ
 しぶさわ
 はらだ
 ささはら
 つかもと(管理人)
 てらだ
 くめた
 こなか
 すずき
 いぬい
おかぽん(おかもと)
 こんどう
 きしだ
 はまぐち
 かめたに
 ひろかわ
 あまの(顧問)
 やまもと(〃)
ライフログ
検索
タグ
(101)
(28)
(27)
(13)
(13)
(12)
(11)
(10)
(9)
(9)
(9)
(9)
(8)
(8)
(8)
(8)
(7)
(7)
(7)
(7)
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧