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<羯南と古島一雄>(3) 新聞「日本」創刊当日の“椿事”

 新聞「日本」創刊当日の“椿事”については、すでに当ブログの中でも触れられているが、もう少し詳細にその顛末を紹介しよう。

 周知のように新聞「日本」が創刊されたのは、明治22年(1889年)2月11日の紀元節、大日本帝国憲法発布の日であった。その当日朝、森有礼文部大臣が、大臣官邸内で面会に来た内務省雇員、西野文太郎に刺殺された。西野は国粋主義者であり、暗殺の理由について彼の斬奸状では、森が伊勢神宮の外宮へ参拝に行った際、ステッキで神前の御簾を上げるなどの不敬の行為を行ったことにあるとしている。

 西野はその情報を東京電報新聞(新聞「日本」の前身)から知り、自ら伊勢に出向いてその事実を確かめたうえに犯行に及んだのであるが、実は、その記事を書いたのが古島であった。彼自身が『一老政治家の回想』のなかで告白している。しかも、古島は事件当日、その現場を取材で訪れ、背に一刀浴びせられた西野の死体を目の当たりにした。

 さらにこの時古島は、新聞「日本」の出資者の一人、三浦観樹から直接「死骸は俺が引取るから、そっちで片付けて置け」という電報を受け取っていたのである。西野は、三浦観樹の元書生であった。古島は当時23歳、東京電報新聞に入社して1年にも満たないときの出来事であり、彼自身「当時、非常にショックを受けた」と述懐している。

 小島直記が『斬人斬馬剣』のなかで古島に「一管の筆、よく大臣をも斬り得るのか…」と語らしめているように、当時新聞の存在感が民衆のなかで大きくなっており、確かに古島は、新聞報道の影響力に驚愕したのだろう。しかし、この“椿事”はいろいろな意味で象徴的な出来事でもあったと考えられるのではないか。それを次回以降で紹介できればと思う。
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by kuga-katsunan | 2008-05-31 20:59 | その他 | Comments(0)

「日本画報を復刻」

5月28日付のN紙文化欄(44ページ)に、主筆ならびに本研究会のことが掲載されておりますので、お知らせします。By konaka.
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by kuga-katsunan | 2008-05-28 06:44 | ニュース | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その五

 谷干城は、新聞「日本」のパトロンとして、長きにわたり、その資金的援助を行い、活動を支えたが、主筆の羯南とは、やがて少しずつ溝が生まれ始めている。谷は、新聞「日本」を自分の理念を実現するための言論機関と捉えていた節があり、たとえ資金難になろうとも簡単に自説を曲げない羯南とは必然的に袂を分かっていった。
 その後の極めて政治的な行動をみると、四郎自身も、羯南のこだわった言論の世界よりは、谷に近いところにいたのかもしれない。とはいえ、生き方のスタイルが異なりながらも、軟弱な欧化主義に走る政府に異を唱え、国民主義を謳うところからスタートした彼らは、思想的には近いところにはいたはずだ。本稿は、柴四郎の生き方を通して、新聞「日本」の存在や羯南を、別の側面から理解できないか、というのが狙いである。
 柴四郎の「国民主義」ということでいえば、純度の高い武士道を全うした会津藩士としての彼の目に、征服者たちの立居振舞いをはじめ、維新の表舞台に立つ人々が、どのように写ったかを推し量ることが必要だろう。また、「国民主義」という言葉は、列強の侵略に対する、恐怖と危機意識を前提に理解しないといけないが、この思想形成に至る上で、四郎の場合には、会津という、いわば被侵略者の辛酸の体験が大きく寄与しているであろう。さらに、被征服者でもあり病身でもあった四郎の生き方が、本来は「敗者」という視線を持って、世界の被抑圧民族と精神的な連帯感を持っていたはずなのに、最後は「閔妃暗殺」という、列強の侵略と同じともいえる行動に至った理由は何であろうか。

 こうした問題意識を持ちつつ四郎の生き方を辿ることが、羯南をより鮮明に理解する一助となればと思う。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-05-25 21:19 | 研究 | Comments(0)

高浜虚子と正岡子規(2)~道灌山の出来事~

虚子のお孫さんから伺ったお話をランダムに記載してみたい。

 「明治28年、子規は、日清戦争の従軍記者としての業務を終えて、帰国後、神戸病院、須磨保養院を経て、根岸の庵にて療養していた。

 その時、道灌山(現在の荒川区西日暮里4丁目)で、子規は虚子に対し、『河東碧梧桐と一緒ではいけない』といって、自分の後継になるよう勧めたが、虚子はこれを断っている。虚子は東京専門学校(現早稲田大学)で、坪内逍遥からシェクスピアを学ぶ等して、子規の枠にとらわれることなく、小説家になりたかったようだ。」と語られた。

 高浜虚子著の「回想 子規・漱石~子規居士と余~」の中にもこれを裏付ける記述がある。要旨は、以下の通り。

 虚子は、陸羯南からの電報により、子規を神戸病院に見舞っている。また須磨の保養院への転地後も熱心に見舞っている。そして須磨の夕飯の時、子規が虚子に対し、

 「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。・・・今後何年生きる命かそれは自分にも判らん・・・後継者ということを常に考えて居る。・・・自分はお前を後継者と心に極めて居る。・・・(碧梧桐とは)別居をして、静かに学問するよう工夫をおし。・・・」といったとある。

 その後、道灌山にて、虚子が子規に「私(あし)は学問する気はない。」と断った。
それに対し子規は、「・・・今まで私のようにおなりとお前を責めたのが私の誤りであった。私はお前を自分の後継者として強うることは今日限りで止める。・・・」と言った。

 その後、子規がなくなる明治35年まで、道灌山の出来事の連続であったが、虚子は断ったことが、双方にとって幸福なことであったとも考えられるといっている。

 子規は虚子のことがとても好きであったようだ。     しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-05-18 22:30 | Comments(0)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその十

明治33年に入って2月24日に、評議会が開かれている。

  <資料11  明治33年2月24日>

一 官舎に赴く。東亜同文会評議員会の為なり。清浦奎吾、佐々友房、長谷場純孝、栗原亮

一、陸実、池辺吉太郎、村松愛蔵、岸田吟香、杉村濬等なり。外に幹事数名出席す。

 協議の末、佐々、長谷場、栗原の三人より青木外相に、在清韓日本人教育費補助として来年度(三十四年)予算中に編入して大蔵省に申立しむるの談判を為す事とし、其結果を見たる上、当年度の経費に付更に協議する事として散会、帰邸三時。

  昨年来、懸案になっていた<教育費補助>については、34年度の予算への組み入れの交渉を大蔵省あてに行うことで決議され、具体的な交渉が開始される。
  3月19日には、在京の清国公使らを、東亜同文会として接待、また4月2日にはその返礼として答礼宴の招待を受けている。親日派の清国人士を増やすための工作の一部を行っている。清国側には、日本の既生勢力を利用しようとする目論見があったものと思われる。

  6月の評議会、8月の臨時大会ともに、<支那政府の改良>、<支那保全の必要>を訴えており、会の性格が明確になってきている。同じ8月の23日に開かれた会合では、北清戦争の話が<日本新聞記者桜田某>から出ている。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-05-13 23:29 | トピックス | Comments(0)

高浜虚子と正岡子規(1)

先日、たかぎ主筆と高浜虚子のお孫さんにお会いした。
申すまでもなく、高浜虚子は、松山生まれで、河東碧梧桐を介して正岡子規に師事している。

そこで、まず、有山輝雄先生著の「陸羯南」で正岡子規記述部分を抜き書きし、下勉強をしてみたい。

「明治27年2月11日、羯南は『日本』の別働隊として『小日本』を新たに発刊した。・・・絵入り振り仮名付の小新聞で・・・家庭団欒の模範的新聞・・・。(古島一雄が)編集に正岡子規を推挙した(という)。

東京帝国大学文科の学生であった子規は、明治25年、叔父加藤恒忠の縁で羯南の隣に転居し、この年の12月1日から日本新聞社員として出社・・・俳句欄や「獺祭書屋日記」を連載するなど彼の得意とする文学関係記事を担当していたが、当時27歳の青年で無論家庭を持っていたわけではない。・・・」

「・・・(明治28年)4月、従軍を熱望していた正岡子規もようやく近衛連帯付記者として金州に渡った。しかし、報道統制や拙劣な軍の待遇のため思うように取材できず、結核を悪化させて帰国した・・・」

「略年譜:・・・明治34年1月16日、『日本』正岡子規『墨汁一滴』の連載開始・・・明治35年5月5日『日本』紙上に正岡子規『病床六尺』掲載開始・・・同年9月19日正岡子規没 9月21日、『正岡子規君』連載開始・・・」

以上を押さえて、伺ったお話を記述してゆきたい。    しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-05-11 22:09 | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る

問   子規のお母さんと妹さんですね。
陸   「そうです。家の隣だったものですから、私は会社から人力車を飛ばして行ったのです。
そうしましたら、八重さんは『命に別状があるのなら行きますが、そうでないのなら私達より、清さん(高浜虚子)か秉五郎さん(河東碧梧桐)のほうが本人は喜ぶと思います』と仰るのです。私は直ぐに京都に居た高浜君に電報を打たせました」
問   随分つめたいお母さんですね。
陸   「・・・いや、そうではないのです。
お母様は私に気を使ったのだと思いますよ。
母親が息子の心配をしないわけが無い。ここで自分が騒ぐと必要以上に私に負担をかけると思ったのでしょう。努めて冷静を保って居られました。
   お母様には、何日か経って河東君と一緒に神戸に行ってもらいましたが、その時は高浜君の看病のおかげで、峠を超えて大分病状は落ち着いていたと言ってました。
   正岡君の母親は、非常に大らかな人ではありましたが、他人に対して細やかに気をお使いになる人でした」
問   子規はその後どうなったんですか。
陸   「神戸病院に入院したんですが、この病院の副院長が江馬先生と言って私の知りあいだったので特別に診てもらいました。中々食欲が無くて体力がついてこないと言ってました。
それでも看病にあたった高浜君と河東君が摘んで来たイチゴを食べるようになって食欲も出て来て、急速に回復したと言うことでした。
    その後須磨療養所に移り、八月二十日に退院し松山に戻ります。そこには夏目漱石君が松山中学校の先生をしていたんです。ここの下宿を愚陀佛庵と言ってましたが、そこで漱石君と一緒に五十四日ばかり暮らしました。
十月に東京へ戻る事になるんですが、その帰途、関西を旅行します。
途中の奈良で有名な
       柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
   の句が生れます」 
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by kuga-katsunan | 2008-05-11 06:10 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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