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<羯南と古島一雄>(2) 『古島一雄』(鷲尾義直著)より

 古島一雄の世間の一般的な評価は、ジャーナリストとしての活躍ぶりというより、政治家としてのそれの方が大きいようである。
 鷲尾義直著『古島一雄』(日本経済研究会、昭和24年(1949年))では、諸家の古島観として、当時の書籍・雑誌・新聞から三宅雪嶺、犬養木堂(毅)、杉浦天台(重剛)、頭山立雲(満)の人物評8編があげられている。昭和23年(1948年)発行、朝日新聞政治経済部同人著の『日本を動かす三百人』では、“木堂の志を継ぐ政界の指南役”として紹介されている。
 それらをまとめると以下のようになるだろう。

 古島は、新聞「日本」の記者から『日本及び日本人』『萬朝報』と移って政界に志し、明治44年(1911年)に衆議院に初当選、犬養の片腕として活躍した。犬養を表に立てて、護憲運動に尽力し、軍閥打破に動いた。軍部に忌まれ憲兵にあげられたこともある。昭和7年(1932年)に貴族院に勅選され、昭和22年(1947年)その廃止まで当職にあった。
 戦後、幣原喜重郎が組閣の際、副総理として入閣を要請されたが固辞。また、昭和21年(1946年)日本自由党総裁の鳩山一郎が公職追放後、総裁を頼まれたときでも、あっさり断り、吉田茂を推薦した。第一次吉田内閣に入閣を懇請されたがこれも受けず、以後、吉田内閣の指南役と目された。
   
 しかし、古島の真骨頂は犬養の人物評に表わされている。犬養は、親しい友人の批評ほどやっかいなものはないといいながら次のように語っている。

 「彼の長所は、参謀向きである。知恵もある、眼も見える、ソレであるから出シャバル事をしない。馬鹿げた事を口に出さぬ。多くは陰の仕事をして居る。ソコで、世間には虚名が出ない、名士帳に名が顕れぬ。現代大流行の自家広告の極めて下手な男である。ソレに、言語がゾンザイで、風采もエラクない。…(中略)…。
 彼の政党に於ける技量は、各党を通じて屈指のものである。各党の名士と呼ばれ、演説のシンウチを務める連中には、彼ほどの材幹、知略を持って居るものはあるまい。それから政界が実力競争の世となったら、彼は必ず、嚢中より穎脱する一人であろう。故に彼の前途は、極めて有望であるが奈何せん選挙などには損な男である。出シャバル事が嫌い、お世辞が嫌い、演説が嫌い、オマケに金が無いのであるから、俗人は彼の真価を見ることが難しい。それが彼の損である。」

 古島の生きる姿勢には一貫として、権力に媚びない、清貧さがある。
 しかし、これでよく生きてこれたものである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-04-30 21:25 | 研究 | Comments(0)

日本画報  復刻版  発刊

 先般からご紹介してきた日本画報の復刻版が発刊されました。

以下、発行したゆまに書房のパンフレットからご紹介します。 

 「新聞『日本』(陸羯南主筆・明治22年~大正3年)の付録として発行されたタブロイド版の『日本画報』全42号(明治37年6月~明治39年10月、月2回発行、各号8頁または12頁)を復刻。

 従来、幻の新聞資料とされてきたが、平成15年に富山県で発見されたもの。」

併せて、日本画報の前身の<日露戦時旬報>も収録しました。 

有山先生に監修の言葉を頂き、解題を書かさせて頂きました。

まだまだわからない部分が多いのですが、御高覧の上、御講評頂ければ有難いと思っております。
たかぎ

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by kuga-katsunan | 2008-04-27 21:13 | トピックス | Comments(0)

陸羯南・四女・巴さんを囲んで  その三

今西 子規さんの本を見ますと「トモちゃん、トモちゃん」と出ていまして、いちど巴さんにお会い    したくて出て釆ました。
細川 今西くんは子規のこといろいろ調べていて、正岡忠三郎さんの奥さんになんどかお会い    しているようです。
今西 大阪にいる友人がおまえ子規のこと調ペているのなら正岡あや子さんに会えるようにしよ    う、ということで一晩お会いしました。

巴  あなたは、松山の方ですか。

今西 いえ育ちは名古屋の方です。

巴  私もまえにあや子さんと、たびたび、あちらの家へ (伊丹市)も参りました。忠三郎さんは中学になったかならないころに正岡家の墓守りにということで」お墓(田端大竜寺)の前での写真、そのときの三人(子規の母八重、妹律)でとったのごらんになりましたか、子規のお母さんと妹さんが忠さんを狭んで真申にした写真、忠ちゃんが十二、三ぐらいのときの。

今西 ええ、子規の全集の中に入っていて知っています。

巴   忠ちゃんは加藤(拓川)さんの息子さんで、子規のお母さんと加藤は姉弟で、加藤さんとは私の父(陸汚南)が司法省の法律学校で会って、おつき合いが始まったのです。
私はね八十になったら死ぬと思ってね、遺言というもを書いておきました。それをね、三年、書き直して、文面はそのままで今も認印を押して公証人にわたしているのです。それから十二、三年、葉山の家も夏冬にすこしは繕いもしなければなりませんし、残るのは土ばかりかと思うと馬鹿馬鹿しくなります。昨年から白内障がだんだん悪くなって人さまからいただいた葉書も殊に寄せても読めません。
   このごろテレビで見ていますとね、簡単な眼の手術が出来るようになっていて、みんなが手術をしていらっしやいというので病院へ行きましてね、両方手術をするというのを片一方でいい、いつ死ぬかもわからぬ年でしょう。レンズも片一方十万円もするというので、決心して一つだけしてもらいました。おかげで一つの方は見えすぎるくらいになりました。九十三で手術をするなんてあるでしょうか。(笑)
  本が読めるので嬉しいのですよ。このごろ本が出来ますとね、送って下さる方があって、この間も講談社でしたか「日本をうごかす人」(注1)というような本で、一冊に十人入っていて第四巻に羯南が入っていて、それを書いて下さったのは東大の教授の方で送ってね下さった。
   「陸羯南と三宅雪嶺」なんてのもありましてね、故郷の方で、弘前で羯南は弘前の出だからというのでいろいろ書いて送って下さる、そういうような人が手紙をくれたり(注2)、羯南のことを聞いてくるんです。そういう方にはご返事を出さないわけにはいきません。そういうことはもうおしまいにしたのですが、そういうわけにもいかないようで、いま羯南とか三宅雪嶺のことなどその時代のものが書くと売れるんだそうですね。
  いま生きております姉妹では私が一番上になりまして、ことに正岡子規と会いまして、朝鮮服など着ましてね、書かれているものですから、ことに姉妹の中ではいたずらで。
(注1)言論は日本を動かす 講談社 1985年
(注2)川村欽吾氏のことか。
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by kuga-katsunan | 2008-04-26 05:13 | トピックス | Comments(0)

日本青年会のこと

  日本青年会、という組織があった。

もちろん、日本の青年の会であるが、新聞日本を愛読している青年たちの会ということである。

有山先生の書かれた評伝にも出てくる。

「一つの例であるが、「日本」愛読青年を中心とする団体として日本青年会というのがあった。

これは、明治32年12月30日<寄書>欄に山本滝之助が沼隈生という筆名で「日本青年会設立の議」を投書したことがきっかけで、
最初は「日本」の「週報」に投書を掲載しあう、仮想の青年会であったが」

(有山輝雄 陸羯南  吉川弘文館 2007年 P259-260)

 これにちなめば、さしづめこのブログは、陸羯南のことを書き合う、仮想の中年会、ということになる。

 「明治34年9月15日に「日本」青年会大会を開催し、実際の組織となった。
さらに同年12月、雑誌「日本青年」を発行するまでに発展した。」

(同 P260)

 この雑誌の50号を陸羯南のご子孫の方の御宅で拝見したことがある。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-04-24 04:47 | 研究 | Comments(0)

中国服の羯南

  羯南の写真というと、一番有名なのは和服に威儀を正し、口鬚をたくわえた中年の写真になると思う。
 その眼光はするどく、彼の新聞人としての迫力を感じさせる一枚である。

  有山先生の評伝や、青森近代文学館の昨年の展覧会のパンフレットは他にも多くの写真が掲載されている。

  見ていて印象的なのは、若き日の羯南、司法省学校時代に写したと思われる写真である。
学友の加藤拓川、国分青厓と写っている写真、またそれに福本日南がはいっている別の写真もある。

  たぶん同じ写真館で写したと思われるのだが、皆若く、生気にあふれている。
レンズをにらみつけるような眼光の鋭さは、その後の未来をうつしだしているかのようだ。

  時間がたつにつれ、身なりがよくなっていくのは皆同じなのだろうが、和服、洋服いずれも隆とした出で立ちで、明治の漢のセンスの良さも感じる。

  ところが、ひょんなところで、何と、中国服姿の羯南の写真を見てしまった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-04-19 07:28 | トピックス | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その四

 また、谷干城との縁は、彼と同郷の土佐藩出身の豊川良平との出会いにつながる。
豊川は三菱創設の岩崎弥太郎の従弟で、彼を通して、四郎は岩崎家に出入りし、三菱関係の人々と縁故関係をつくることができた。
明治12年、四郎は、三菱岩崎家の資金援助により、アメリカに留学することとなる。
このときの体験も踏まえて執筆されたのが政治小説「佳人之奇遇」で、四郎は一躍、小説家・東海散士として名声を勝ち得る。

 こうして世に出て行くきっかけを得た四郎は、明治21年には、陸羯南が社長兼主筆を務める「東京電報」の社友となるのだが、この実現にも谷干城の存在は大きかっただろう。
 四郎は、翌年2月に創刊される新聞「日本」の創刊にも東海散士の名で社友として名を連ねている。
 やがて、四郎は新聞「日本」からは距離を置き、政治活動、特に、対外的な政治工作などにも力を入れ、「閔妃暗殺」事件では、駐韓公使三浦梧楼の顧問として朝鮮に同行赴任しており、広島裁判では被告として裁かれている。
 
 ここでも、三浦に四郎を推奨した人物として、谷干城が登場してくる。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-04-17 21:21 | トピックス | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る

問   でも、子規の性分から言って、他人がもっと仕事をセーブしろと言っても駄目でしょう。その辺のことは従軍記者を希望したときにも同じことが言えると思いますが・・・。

陸   「そうなんですよね。その時も正岡君には驚かされました。なにしろあの体で清国に従軍記者として派遣してくれと言うんですよ・・・。とても無理だと言うので、社内全員で反対したんです。
 彼は小日本をやって、新聞の何たるかを知ったのでしょう。と言うより記者魂が呼び起こされたのかもしれません。
私も反対しました。すると彼は医者の処方箋を私に示しました。
『この書類を持って行くと、どこでも同じ薬を作ってくれると言うので貰ってきたのです。ですから心配要りません。清国へ派遣してください』と・・・。
その意気込みに、私は負けました。
やむを得ず彼を従軍記者として派遣する事を決めました。
    彼は、その処方箋を持って清国へ行ったのです」
問   そこで森鴎外に会うことになる訳ですね。
陸   「そう。現地に着いて、直ぐに処方箋をもって軍医局に行ったら、其処に森林太郎(鷗外)さんが居たのです。
正岡君達が清国へ行った時にはもう日清戦争は終わっていたのですが、一月ばかり清国に居ました。その間毎日のように森さんと会っていたようです。
    従軍記者の派遣先での環境は最悪で、それはきつかったと思います。何しろ戦場ですから、宿舎だって満足の行くものではなかったと思います。彼は後にそれを記事にしておりますが・・・」
問   戦地での活動が体を蝕んで行ったと言うことですか
陸   「そうですね・・・。一ヶ月ばかり清国に居て、その後帰国したんですが、神戸に着いていきなり入院してしまったのですから」
問   帰国してからのことを話して頂けますか。
陸   「わたしが一番心を痛めたのもこの頃です。
    正岡君が大連から手紙を出して寄越して、新聞社に届きました。その中に戦地からの記事もありました。その記事は新聞記者に対する軍部の取り扱いの酷さを書いたものでした。
それを翌日の新聞に掲載しようと言うことになって、割付しようとしたら電報が来ました。担ぎ込まれた神戸の病院からです。船の中で吐血して運ばれたと言う知らせでした。
私は驚いて直ぐに八重さんと律さんに知らせました」
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by kuga-katsunan | 2008-04-14 04:58 | 研究 | Comments(0)

菊池九郎(5)~政界活動~

 秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」によれば、以下の通りである。
 菊池は明治15年(1882年)の県会議員に本多とともに立候補二人とも当選している。何故彼らが政界に進出したかは不明だが、弘前事件の影響や周囲からの押し上げがあったようだ。以下菊池九郎の政界活動をみてみる。

 明治22年(1889年)5月、菊池九郎は、市町村制実施*後初の弘前市長に当選している。

*このとき新しく誕生した31市は、東京、京都、大阪の3都を除いて港町か城下町であった。中藩(5万石~15万石)で市になったのは、弘前、山形、富山、高岡だけであったという。津軽氏の城下町ではあったが、明治に入って人口が激減3万に程度になっていた。人口が増加するのは、明治30年の第八師団が設置されてからである。

 明治23年(1890年)7月、我が国初の衆議院議員選挙が実施され、周りに者に説得されるかたちで、衆議院議員選に出馬、大差を付けて当選した(爾来連続9回連続当選)。

 明治31年(1898年)菊池九郎は憲政党内閣の際農商務省農務局長となったが、このときの上司(農商務次官)が、一時期東奥義塾で学んでいた柴四郎であった。 

 明治37年(1904年)、衆議院全院委員長になるが、これに対し、当時人物評論家の第一人者と称されていた鳥谷部春汀は次のように述べている。

 「・・・・菊池はかつて東奥の西郷と称せられ人望頗る郷党に高く、此点に於て故工藤行幹といえども、遠く彼に及ばざりしを見る。大隈伯かつて彼を評して曰く。菊池九郎は名士なり、彼は特絶したる長所をゆうせざれども、その人品の高きは滔々たる群代議士に超越すと。・・・」
 
 明治37年(1904年)からの日露戦争中の運動は不明だが、「愛国者の菊池なので、『さまざまな愛国運動に奔走していたことだろうと想像される。』とある。

 そして、陸羯南がなくなった翌年(明治41年(1908年))、62歳で政界を引退している。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-04-10 00:15 | Comments(0)

陸羯南・四女・巴さんを囲んで  その二

巴  子規はお母さんと妹さんと住んでいて、私が貰いものを持っていって入口のベルを鳴らすと妹さんが出て釆て
 「さあトモエさん、いらっしやい、まあ、あがりなさい」

といわれてさっさとあがると、私の声を隣りの部屋で寝ている子規が聞きつけて

 「トモエさん、こちらへ来なさい」

というものですから、私はいい気になって、もつて行ったものは妹さんにわたして、子規が苦しそうな顔をしていないときはそばに行くと

 「もう少しこちらへ来い」

とか

 「あっちを向け」

 とかいって写生をするのです。家へ帰って釆ても母たちにはそんなことがあったということは話しませんでした。
 
 妹さんがお風呂に入りに家に来るもんですから、そのとき妹さんが母に

  「今日はトモエさんの写生をして」

などと話すものですから、知れてしまうのです。それでも叱られるということはなくて、

  「病人が苦しいときには余りそばに行かないように」

ということがございました。みなさんがお聞きになりたいということになりますか、どうか。

細川 私たちはこれ(楡)に子規のことを勝手にいろいろ書いているのですが、これを首藤大先輩ががごらんになって、

「陸さんを、陸さんのお嬢さんを知っておるか」「まだご存命だぞ」

といわれたので」どうも巴さんだろうと思って、子規の随筆「仰臥浸録」に出ていますね、朝鮮服を着て。

巴 ええ、そうです。死んだ子規、生きていた子規と話しをした人で残っているのは私だけで―。
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by kuga-katsunan | 2008-04-07 22:40 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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