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<羯南と古島一雄>(1) 『斬人斬馬剣』より

今年の「菜の花忌」のおり、高木主筆と夕刻に弁当を食べながらよもやま話をしていると、陸羯南研究の話題に移り、「そういえば、石神は関西に住んでいるのだったね。羯南の右腕として活躍した古島一雄の出身地が近い。古島を調べてみると面白いよ」と、さっそくその夜帰阪する際には、小島直記著『斬人斬馬剣~古島一雄の青春』(中公文庫)を持たされた。そこへ数日を待たずして、乾さんからも古島の資料が送られてきた。

こうしてなすがまま陸羯南研究の末席を汚すことになりましたが、本人はいたって光栄に感じています。

さて、今回は、その『斬人斬馬剣』を紹介さていただく。
                
本書は、古島の若き新聞記者時代を中心に、上京直後を経て『東京電報』への入社のきっかけから新聞『日本』と『九州日報』での活躍までの様子が、陸羯南、正岡子規、杉浦重剛等との交流を織り交ぜながら描かれている。

その後、古島は、『日本及び日本人』に「雲間寸観」を連載し、「人触れれば人を斬り、馬触れれば馬を斬る」必殺の筆剣で恐れられた。さらに“傲骨の一政客”として明治・大正を経て戦後の昭和まで生きることになるわけであるが、その彼の原点をたどることができる。

また、ちょうど新聞『日本』の発刊にまつわる経緯も詳しく紹介されており、陸についても、その生い立ちから、業績や人となり、臨終に至るまで紙幅を割いている。つい先日の《黄泉還り対談》に子規の記者時代の話が出ていたが、著者の小島は、陸の意外な一面として、“病む男”である、入社わずか1年ばかりの彼に、新聞『小日本』の編集という大役を任せる場面で、次のように記述している。

「『古島君も、君を推薦したのだ。しっかり頼む』
羯南はその端正な顔になんともいえぬやさしい笑みを浮かべてそういった。論敵にたいしては、必殺の論陣を張って叩き伏せてしまう、鬼のように強い彼に、このような優しい一面もある。」

陸は、ふところの深い、器量のある人物であった。
主筆お勧めの一冊である。

それにしても新聞『日本』に集まった人間には、学校教育のはみ出し者が多い。古島も、子規も、佐藤紅禄も同様であり、ましてや陸その人自身がそうだった。
つくづく“教育とは何か”を考えさせられる。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-03-31 23:22 | 研究 | Comments(0)

菊池九郎(5)~農業(殊にリンゴ)の振興~

 菊池九郎が、東奥義塾に招聘した外国人教師にジョン・イング牧師がいる。彼は、教師としての功績も大きかったが、彼の新知識を応用し産業界に革新を与えたのは、菊池九郎であったと、長谷川虎次郎編輯・「菊池九郎先生小傳」(昭和10年2月発行)は伝えている。

 以下、拾い読みしてみると

「・・・農産物に対するイングの趣味と造詣とは極めて深く、・・・(菊池)先生はイングの方法を採用し更に之を拡充するに努め、桑畑、果樹園、養蚕等の新方式を輸入し、範を地方産業の上に示した。

ケヤベジ、アイオン、アスパラガス、トマト、グーズベリー、林檎等の栽培は此時より行はれた。

殊に林檎を津軽地方に輸入した開祖で、今日のインド種と称するものはインデアナの略称でインデアナ州より来れるイングの齎したものである。

・・・其の内の一つを貰って来て菊池先生が植えたものがインド種である。間もなく林檎苗十数本輸入して、先生を初め本多庸一、芹川得一、工藤儀助等に数本宛配分し、・・・これが即ち林檎輸入の当初で今日斯業の盛大は先生等に負う所が多い。

其後先生は同士と共に南郡藤崎爼淵に広大なる林檎園を経営したこともあった。」

 この林檎園は、啓業社といい、イング宅の基督降誕祭(明治8年12月)に招かれていた藤崎の青年=佐藤勝三郎と菊池九郎の弟三郎が指揮を採って、大成功を収めた。

 明治18年東奥義塾が火災で類焼してしまう。その後の経費を賄ったのが、5年間義塾で教頭をして、日本郵船の社長であった吉川泰次郎であった。

 吉川は、自ら林檎園を経営、その収益を寄付して義塾の経常費としたのであった(秋本芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」より)。    しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-03-31 01:22 | その他 | Comments(0)

27歳 正岡子規編集長 奮闘記 その2

明治元年に、四国・伊予(現在の愛媛県)にて生を受ける。上京して、海軍兵学校に入学。日露戦争では、連合艦隊指令長官の作戦参謀として参戦。日本海会戦において、世界屈強といわれた帝政ロシアのバルチック艦隊を壊滅せしめた。司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』の主人公として、今なお、その偉業を知ることができる。

 秋山真之である。

 こんなエピソードを掲げたのは、何も「明治・大正期には、ジャーナリズムへの寛容度が低かった」だの「軍人は唯我独尊で、批判を許さない」などといった論を展開するためではない。
理由は、ただひとつ。
秋山真之には、正岡子規や夏目漱石がどう映っていたか?
それが気になって仕方ないのである。

秋山真之、正岡子規、夏目漱石の縁(えにし)について、少々、触れよう。
秋山真之は、明治元年(1868)、四国は松山城下に生れた。
正岡子規は、慶應3年(1867)、松山の生まれ。
夏目漱石も、慶應3年に、東京で生まれている。
秋山と正岡は、同じ城下で育った幼なじみである。幼少期から知己を得、ほぼ同時期に身を立てるために、上京。ともに大学予備門で学ぶが、秋山は、陸軍士官学校に進んだ兄・秋山好古の影響もあって、予備門を退学して、海軍兵学校に進路変更する。一方の子規は、予備門をへて、東京帝国大学に進学。生涯の友人と認め合いつつ、かたや海軍参謀へ、かたや俳句・新聞へと道をたがえた。

こんどう
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by kuga-katsunan | 2008-03-30 06:46 | 研究 | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る

新聞記者正岡子規

問   新聞記者としての子規について。
陸   「私の日本新聞は言論新聞ですから、政治の動きを見てそれは間違っているとか、こうあるべきだと言う論評が中心の新聞です。
事件記者的な取材はあまりございません。でも校閲、整理、販売と言う裏方の仕事もあります。
最初のうちは古島一雄(一念)君に任せて仕事をしてもらっていました。
私から直接指示を出すと、家も近いし、本人も、会社のほかの人間もやりにくいだろうから・・・。
後で古島君に聞いたら、正岡君に時事俳句を作らせてみたところ,とっても機転の利いた面白いものを作ったと言って感心しておりました。彼には俳句と言う武器がありました。新聞に文章を書かせると紀行文などが凄くうまいのです。そこで、彼には文藝欄を担当させました。
それまでの日本新聞の文藝欄は短歌・和歌だったのですが、俳句でも目先が変わって面白いのではないかと、これは、古島君が積極的に薦めてくれました。
私は、彼がどう言う形であれ、社内の人間に受け入れてもらえたのが一番うれしかったんです。
    
 その頃、うちの新聞は政府攻撃の記事が多く、讒謗律違反に問われ、発行停止処分を受けることが度々で、何日も新聞を発行できなくなってしまいまして、購読者には不便をかけて居りました。そんな時でも別の新聞を届けておけば少しでも読者の不満も薄められるだろうと、文藝中心の新聞『小日本』を創刊することにしたのです。
その編集主任に正岡君を充てることにしたのですが、これを薦めたのも古島君でした。正岡君は積極的にこの仕事に取り組みました。
創刊第一号を見て、社内からは、こじんまりしているが中々いいものが出来たと高い評価を受けました。
    
 正岡君はここで自分が以前書いた小説を何作か掲載したようです。例の幸田露伴に見てもらった『月の都』もこの新聞で発表したんじゃなかったかな。
 この新聞は全面的に正岡君に任せておきました。私は、困ったことがあったら相談に来なさいと言っただけで口出ししませんでした。
 それが二ヶ月ばかりたった時に、挿絵を書いてくれる人を採用したいと言う話があって,私は、洋画家の浅井忠君に相談しなさいと言ったことがあります。
浅井君は中村不折君を紹介してくれました。中村不折君は、この後彼の俳句における写生論に重大な影響を与える事になるのです。
 何れにしろ、正岡君はここで新聞全般に就いて勉強したんじゃないかと思います。
この小日本には,本社からも何人か手伝いにやっていたのですが、明治二十七年夏日清戦争が始まり、本社の人手が少なくなり、派遣していた人を引き上げることになったのです。それでこの小日本は続けられなくなってしまいました。
 たった半年だったが、正岡君は精力的に新聞発行に突き進みました。元々丈夫な人ではないのにこの時に、だいぶ無理をしたようです」
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by kuga-katsunan | 2008-03-26 20:22 | トピックス | Comments(0)

羯南・健三・湖南の合宿

 この研究会の関係でも合宿をよくしているが、内藤湖南の回想を読んでいると同じような話が出てきたので、紹介させて頂く。

 この健三は、高橋健三のことである。

青森の近代文学館黒岩館長さんが、<青森県近代文学の名品>の中で高橋について紹介している。

「陸羯南(1857-1907)についていろいろ調べていくうち、その周辺の人物たちの中で、最も興味を惹かれた一人が高橋健三(1855-98)である。羯南もそうだが、高橋健三は私利私欲と無縁、志の高い明治人の典型のように思えた。惜しむらくは高橋もまた胸を病み、42歳という若さで亡くなっている。」

 高橋健三、神鞭知常、陸羯南の三人の友情を、<桃園の誓い>に例えている人がいるがそれはまたの機会に譲るとして、この三人がいずれも肺結核で亡くなっているのも、また奇妙な符合である。

「陸羯南と高橋健三がはじめて親しく接したのは、明治18年末、内閣制度が発足して、羯南が内閣官報局編輯課長、高橋がその上司として官報局次長を勤めていたときである。思想的には羯南と同じく国粋保存主義に徹していて、官にありながらも、時の政府の極端な欧化主義政策に反対の立場を貫いた。また明治22年、新聞「日本」創刊時には羯南に協力、援助している。官報局長としては、日本で初めての輪転印刷機を導入、これは明治23年パリに出張して最新式の印刷機を発注し購入したもの。ちなみにこの時日本新聞社と朝日新聞社も同じ輪転印刷機を購入した。」

(青森近代文学館HP  青森県近代文学の名品  より)
http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/meihin_top.html

 内藤湖南は、秋田・毛馬内村(けまないむら、現秋田県鹿角市)の生まれ。歴史学者。県立秋田師範学校卒業。明治20年上京後、明教新誌の記者、「三河新聞」「日本人」、「大阪朝日新聞」、「台湾日報」、「万朝報」等の編集・論説で活躍。
一時期、高橋健三の秘書的な仕事をしていたこともある。

 その湖南が<思ひ出話>という随筆を残している。
(大阪朝日新聞  昭和2年1月3,4,5,7日)

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-03-22 08:24 | トピックス | Comments(0)

菊池九郎(4)~東奥日報の創刊~

 秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」から東奥日報創刊のくだりを拾い読みしてみる。

 明治21年(1888年)11月22日、弘前、青森、八戸その他主要な地に「東奥日報発兌広告」のチラシがばらまかれた。そこには、12月6日に「第一号を刊行せんとす。・・・初号は無代価にて進呈・・・」とあり、末尾は

 「青森県東津軽郡青森柳町十二番戸
    東奥日報社
      発行人 菊池 九郎
      編輯人 源    晟(あきら)
      印刷人 小笠原宇八」
  となっている。

 東奥日報の体裁は「・・・タブロイド版よりひとまわり大きな紙面で、一面は大きく東奥日報と題字があり、五号活字の五段組であった。」先に出していた「『青森新聞』の経験を生かしたものと思われる」とある。

 当時の青森では、「北斗」「青森新聞」「青森日報」が、弾圧あるいは経営難で廃刊となっており、「陸奥新報」だけしかなかった。そして、「自由民権思想が鼓舞され大同団結運動が、燎原の火の如く燃え広がっていた時期」でもあり、「世間は拍手を送り大いなる期待を持って(東奥日報を)歓迎したのである。」とある。

 しかし、12月6日第一号の後、第2号は12月28日であり、その後また休刊。実質的には、明治22年から安定発行となったようだ。また、菊池は最初、株式会社組織にしようとしたが、思ったように資金が集まらないため、自分と榊原洋芽(弁護士のち代議士)と蒲田広(のち弘前市議長、県会副議長)の三人での結社として発足した。

 その後発行は順調であったが、資金繰りは相変わらず厳しく、菊池九郎も有志の間を飛び回っていた。この点も新聞「日本」に良く似ている。

 明治22年2月11日の帝国憲法発布の日(新聞「日本」創刊日でもある。)に起きた「森有礼文部大臣刺殺」事件は、東奥日報のスクープとなった(同12日に森有礼大臣が死去しており、東京紙の13日付新聞は発行停止処分中。東奥日報が、青森県初の報道となった。仮に東京の新聞が青森に届くとしても当時は船便で4~五日はかかった。             しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-03-21 00:37 | その他 | Comments(0)

「柴四朗という生き方  その三

熊本城の重囲が解け、山川率いる部隊が喇叭を吹いて入城してくるとき、城内には歓声が上がったというが、このとき、頭に、致命傷となるのを五分の差で避けたという擦過傷を受けていた谷は、まさしく、手塩にかけた山川に救われることとなった。このあたりの情景は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」に生き生きと描かれている。(「翔ぶが如く」九巻)

柴四郎は、こうした二人の関係があった上で、谷干城と出会った。もっとも、正確に言うと、四郎は白虎隊として参戦するはずだった戊辰戦争において、官軍に投降した際にも谷を見てはいた。後に四郎は次のような述懐を書いている。

  自分が初めて、谷子爵の顔を見たるは、子爵が官軍の一武将として会津征伐に来られたときで、真逆東西も弁ぜぬ、少年を斬りもすまいから、進み出て救命を哀訴せよと、年長長たる人々より、勧められ、オズオズ官軍の宿営を尋ねて、彷徨し足る末、日暮方、漸く土佐藩の陣営を見つけて、投陣した時、子爵も居られた。其後、西南戦争の時、新聞記者として従軍し、熊本鎮台に於て、再び子爵の顔を見た。(「谷干城遺稿」より)

西南戦争において、四郎は、得意の文章力を活かし、この戦況を報じる書簡をしたため「東京日日新聞」「東京曙新聞」に寄稿し、記事となる。それまでにも、学資をかせぐために「東京日日新聞」に投稿などはしてはいたものの、この出征が四郎に生業としての文章家の道を大きく切り開いたといえる。戦後すぐに、文筆に長けているということで、四郎は「戦史編纂御用掛」を命じられる。
やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-03-20 21:41 | 研究 | Comments(0)

陸羯南・四女・巴さんを囲んで  その一

 羯南には、七人の娘があったが、四女の最上巴さんの談話がいくつか残っている。
 
 昭和50年4月、講談社版の子規全集の最初の巻であった11巻の月報1に、<写生のモデルになって,最上巴>との談話が掲載されている。
 また、松山の子規博物館の月報にも<陸羯南の娘として>という題のロングインタビューもある。

 先般、最上巴さんのお孫さんにあたる方から、細川謙三氏の短歌同人雑誌<楡>に、別のインタビュー記事が掲載されていることをお教え頂いた。(最上巴さん93歳)

 ここにはそれまでの発言にはない貴重なエピソ-ドも含まれていることから、この雑誌を発行されている皆様のご承諾を頂戴して、このブログに転載させて頂く。

 「子規が亡くなるころは私は八つ九つでした、いちばん悪戯ざかりでした。女ばかりの姉妹の中でもいたずらで悪かったようです。
 子規の家へは隣りですから、よく遊びに行きましたが、お医者さんからご注意があって、子規さんの病気が病気ですから両親も心配してあまりあがるんじゃないと言ってました。
 もう八十年もむかしのことですが、父のところへ珍しいものが送られて来ますと
父が正岡のところへ持っていけと、そのころ二、三人の書生が家におりましたから昼間学校へ行くものと夜学に行くものとあって、その書生がおりませんときには私が持って行くことになっていて、母が包をあけているときからもってゆくといってきかなかったのです。」
(昭和61年9月)
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by kuga-katsunan | 2008-03-15 18:19 | ニュース | Comments(0)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその九

篤麿自身が、その後、前述したように11月末まで、欧米、アジア、中国の外遊に出たのでしばらく国内の人士との交流は途絶えてしまうが、その外遊の中で、中国の広東、上海、蘇州、南京、杭州、武昌も歴訪し、各地の中国人人士と交流をもったことは、篤麿の中国観を形成する上で、大きな役割を果たしたことと推察される。
 帰国後、12月に入ってすぐ、10日には東亜同文会の評議員会が開かれている。


<資料10  明治32年  12月10日>
一 午後一時より官舎に於て、東亜同文会評議員会を開く。余、長岡副会頭、佐藤幹事長以下幹事等、評議員には谷、清浦、佐々、神鞭、陸、池辺、柴、其他数名なり。来年度予算に付予算に付協議あり、本年度に比し四万円の増加なれば、外務省に向かひ保護の増額を要求する為、余等職員の外、評議員中より神鞭、栗原、佐々、長谷場、よりも外務に交渉する事と決す。次に清浦より発議にて、本会事業中教育に関する分は機密費より保護せしむるの要なし、寧ろ公々然と予算費目中に加へしめて可ならんとの説、衆の容るゝ処となり、如何なる名目の下に置くか、何れの省に属せしむるか等は、委員にて調査せしむべしと決し、委員は余より指名して谷、伊沢、神鞭、村松、□□(不記)の五名に依托して散会す。五時過帰邸。

 33年度の予算についての会議であり、増額部分の交渉を外務省に対して行うことを協議している。あわせて、清浦から、<教育に関する部分>は機密費ではなく、予算に加えようとの発議があり、いずれかの省に対して交渉する、ということで決議される。
たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-03-12 21:52 | 研究 | Comments(0)

27歳、正岡子規・編集長、奮闘記

第1章 ミスターX、言論を罵る

 ここに登場する人物は誰か? 推理してほしい。
便宜上、仮にミスターXと呼ぼう。

 時は、大正6年。出版社の社長が、ミスターXに、こうお伺いを立てた。
「あなたのご高説には、今日の日本にとって、とても含蓄に富む示唆が多い。ヨーロッパで第一次世界大戦も視察していらっしゃるし、着眼点も素晴らしい。あなたはかけがえのない人材です。そこで、今日の日本人のためになる書物を、1冊、執筆していただきたいのですが」。
 ミスターXは、こう答えた。
「私は、言論というものを好まない。ただ、ごくまれに、これは言わねばならぬということを公にしているだけだ。近ごろは、日本人の心は、日々腐りはじめ、言ったり書いたりすることばっかりで、志や行いは、ますます薄弱になっている。私は、書物などというものは焼き捨て、学者なぞという輩は、土中に埋めたいと思っているくらいだ。そんな私が、好んで、本意でもない書物の執筆などはできようもない」

 結局、出版社社長は、ミスターXの許諾をとりつけ、すでに公になっている講演録を編集し、1冊にまとめて上梓した。ここまでは、その書籍の序文によっている。(注1に原文)

 さて。ミスターXは、口をきわめて、「言論」を罵っている。
大正時代といえば、「大正デモクラシー」。しかるに、漠然とこんなイメージを抱いてはいないだろうか。

「明治   → 薩長の志士が近代国家を急増した変革期 → 窮屈な時代
大正   → 民権の時代 → のんびりとした、いい時代
昭和初期 → 軍閥の暴走によって日常生活が脅かされた激動期 → 暗黒の時代」

そんな時代に、「焚書坑儒」を口外しているのである。
 特に、「書物などというものは焼き捨て、学者なぞという輩は、土中に埋めたい」(原文では、「書を焚き学者を坑にするの必要を感じつゝある」)という部分に注目せられたい。ここは、「書物や学者ですら」と読めて仕方がない。ましてミスターXの思考回路には、

・新聞
・ジャーナリスト
・文筆家
・記者
・小説家

などという存在は、焚書坑儒以下、この世から抹殺しても足りないくらいの存在と映っていたのではないだろうか。

 これだけの罵詈雑言を「言論」に付しているのであるから、当然、ミスターXは、「言論」と反対の陣営に身をおく。「言論」=「理想を語る」ならば、おおよそその対極にある、徹底した現実主義者。わずか1秒の違いが生死を分かつ戦場に、自らだけではなく、幾万人もの兵士の命も賭さねばならなかった人物である。

こんどう
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by kuga-katsunan | 2008-03-02 21:13 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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