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<   2008年 02月 ( 9 )   > この月の画像一覧

「柴四朗という生き方  その二

 それまでの四朗は、多くの会津藩士と同様に「賊軍」として、社会からは虐待され、抹殺されていく中からいかに抜け出すか、もがき続けていた。彼は西南戦争に出征することで、復讐を遂げるという、暗い欲望を満たすということも含めて、文字通り「敗者」という境遇から抜け出す機会を得る。
ひとつは、彼のその後の、新聞「日本」での記者活動も含めた文筆家へと、つながる道筋ができたこと。
もうひとつは、貪欲に勉学の道を求め続けていた彼に、「留学」と言う、願ってもいない機会が切り開かれたこと。これによって、彼の思想形成には、決定的な影響が与えられることとなる。
 この転機のいちばん決定的な動因となったのは、このときの熊本鎮台司令長官であった谷干城との出会いである。
ただ、この機会が有効に活かされるには、ともに出征した縁ということ以上に上司である山川浩の果たした役割が大きい。
山川浩と谷干城の出会いは戊辰戦争にまで遡る。
このとき西軍だった谷は、戊辰戦争の日光口における戦闘で、会津藩の山川浩の勇躍たる指揮ぶりをみて、その名を記憶に止めた。のみならず、余程感銘を受けたのか、会津藩士が賊軍として、戦後もなお、まるごと血祭りに挙げられている中で、山川を陸軍裁判大主理として採用する。高官とはいえなかったが、会津藩士に手を差し伸べるものなど誰もいないという最中であった。山川は、虐待され続ける会津藩士達に、官途につく道を切り開いてくために、敢えてこの低い身分の職を受けるところからスタートを切る。ことほど左様に、薩長出身者たちの官に対する執着と既得意識は強く、私物化されていた。
戊辰戦争では最後は鶴ヶ城に籠城した山川は、このたびは別働隊を率いて、立場変わって熊本城で籠城戦を強いられていた谷救援の一番乗りを果たすこととなる。実を言えば、ここに至る前に籠城という作戦が決まった折にも、谷は山川にアドバイスを求めていたという経緯もあった。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-02-28 22:04 | 研究 | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南---正岡子規について語る その六

問  それで子規は新聞社に入る事になったんですか。
陸  「いえもう少し経ってからです。
彼は下宿したのでその家賃の支払いが必要になり、大学を辞めると給費生のお金も入ってこなくなります。そこで、私はうちの新聞に記事を書いてもらって、原稿料を払ってやろうと思ったんです。今で言うアルバイトですね。
彼には書き溜めた物が沢山有った様で、直ぐに原稿を持ってきました。その原稿を社内の人間に読ませると、中々面白いと言うんですね。
そこで明治二十五年五月にうちの新聞に『かけはしの記』を掲載しました。これは前年、彼が木曽路を旅したときの俳句入りの紀行文でした。
読者の評判も良く、これなら何処の新聞社でもやっていけると思いました、そこで、就職の世話をしたんです。
と言うのは、うちの新聞社だと予算などの関係があつて給料はあまり出せないので、よその新聞社に紹介しようとしたんです。すると彼は、幾ら呉れても他の新聞社には行きたくないと言うんですよ。
そこで明治七十五年十二月一日から、うちの新聞社に採用する事にしたんです。
   次に、田舎から親御さんと妹を呼び寄せたらどうかと提案しました。彼の体の事もあったし、精神的にも安心したところで思う存分原稿を書かせてみたいと思いましてね」
問  その時ですね、子規が母親と妹を連れて、上京したとき、家に着いたら夕食の仕度がしてあったと…。あれは陸さんが指示したんですか。
陸  家内からは何時帰ってくるのかと、何度も訊かれました。前日に着くと思っていたのでナが、途中の静岡で下車し一泊したので、一日遅れましたが概ね予定通りだったと思います。
   私も家内も、地方の出身なので、初めての上京の時の心細さは、よくしってるものですから、家内も正岡さんの人達を勇気付けたいと思ったんじやないでしょうか。それは誰が話したんですか。
問  河東碧梧桐が妹の律さんにインタヴューした『子規を語る』に書いて有りました。
陸  そうですか、後年まで律さんの心に残っていたとは…。嬉しいですね。
問  正岡家とは、陸さんが亡くなった後も行き来があったようですね。
   そのようですね。私は正岡君の五年後に死んだんですが、我家は、太平洋戦争の空襲で焼けるまで、ずっと隣同士でしたからね。
   四女の巴は正岡君の繋がりで森鴎外さんのお嬢さんの茉莉さんの家庭教師をさせていただいたりしていたようです。
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by kuga-katsunan | 2008-02-23 23:11 | その他 | Comments(0)

羯南会のこと

 今年の司馬遼太郎の菜の花忌で、京都大学の山室信一先生が司馬遼太郎賞を受賞された。
山室先生は、満州帝国を描いた<キメラ>を書かれてからファンになっていたが、そのスピーチで羯南が出てきたのには驚いた。
 そういえば、前に書かれた<日露戦争の世紀>に出てきたな、と思いページを繰ってみた。

この本の冒頭で、日本が近代国際社会へ入っていく段階を、「万国公法」の世界へ、と評していらっしゃる。その国際法を羯南が、

<国際法なるものは実に欧州諸国の家法にして世界の公道にはあらず>
(「原政及国際論、1893年)

としていることを論じている。もちろ国際法を否定しようということではなく

<国際法を「欧州の家法」から真の「世界の公法」とする必要性を説いていたわけです。>
(山室信一 「日露戦争の世紀」  岩波新書 2005年)

 ネットを見ているとこの<原政及国際論>が出ていたので、つい頼んでしまった。
届いた本を見ると表紙に<羯南居士十三周忌記念>と書いてある。
羯南の十三回忌に復刻された本であった。
表紙をめくると、この本を復刻した人々の言葉が添えられていた。

「羯南先生十三回忌に際し其の遺著を再版して、江湖に頒つ。
其の意ただ追懐の資に供するのみにはあらじ。
大正8年9月
               羯南会主唱者

                                小山内大六
                                梶井  盛
                                森田義郎」

 小山内は青森出身の新聞日本で活躍した新聞人、梶井は没後出版された「羯南文集」の編集者、そして森田は愛媛出身の子規門下の歌人であり新聞日本でも短歌欄を担当した。

この三人が、十三回忌のタイミングで羯南会を主唱していたのである。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2008-02-17 09:13 | トピックス | Comments(0)

陸義猶のこと

 陸姓の縁で、試みに<陸義猶>を調べてみる。

 しぶさわ君の紹介のように、やはり大久保利通の暗殺の項が多い。

 同じ暗殺に参加した18歳の青年杉村文一について書かれているブログがある。
<はんちはんかい備忘録>という題のブログなのだが、明治のナショナリストや内藤湖南の学友畑山呂泣について部分などもあり非常に面白い。

 その中の、陸義猶の部分を紹介させて頂く。

<『日本政治裁判史録』によって事件の概要をたどってみると。

維新になって、藩政改革に出遅れた金沢藩は薩摩藩を模範とし、陸義猶(金沢藩士、のち事件に連座して「除族禁獄終身」刑)を派遣してその実を学ばせたが、陸はこのとき西郷隆盛たちの思想に大いに共鳴するところがあった。

これが石川県士族と西郷隆盛一派との連携のきっかけであった。

大久保利通暗殺の主犯格、島田一郎も陸の思想に同調したひとりだった。

島田は足軽身分の出だったが、藩の洋式兵術訓練所に学んで維新戦争に従軍、陸軍大尉に進んでいる。

藩兵解散後は東京に出ていわゆる国事に奔走した。明治七年の佐賀の乱では、江藤新平の処分に反対して左院に建白書を提出したが、無視されたことに憤激して「とても書面にては志を達することはできずこの上は腕力を用い」るしかないと考えるようになった。

同年、石川に「忠告社」が結成されると島田もこれに加わった。忠告社は中央に設立された「愛国社」の石川県分社だった。陸は「忠告社」の副社長となっている。>

http://rokugou.cside.com/sub32hankaihankai.html

 同じく陸は、板垣退助の自由党の運動にも顔を出してくる、とのこと。

 禁獄終身に処せられた陸義猶のその後が気になって調べていくと、日本大学の田村貞雄先生の論文にいきあたった。

 1893年(明治26)4月12日・13日・14日・16日・17日の5回、新聞『日本』は、「桐野利秋談」を5回にわたって連載した。
その中に陸が登場してくる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-02-16 07:58 | トピックス | Comments(0)

菊池九郎(3)~青森新聞と国会開設建白書運動~

 有山輝雄著「陸羯南」によれば、1879年(明治12年)2月に、羯南は、原敬らとともに司法省学校を退校になっている。そして新聞記者を志望して奔走するが果たせず、この年の夏頃帰郷、9月8日に中田姓を改め、「絶家陸家」を再興ということで陸姓を名乗るようになる。この経緯については諸説あるという*。

 *余談となるが、1878年(明治11年)5月14日大久保利通暗殺事件の首謀者6名向けに、斬奸状を執筆した者に「陸義猶」(除族のうえ禁獄終身)という人物がいる。この「陸義猶」は金沢藩士だが、羯南の「陸」家とは関係ないのだろうか?(参照 秋永芳郎著『東奥の炬火 菊池九郎伝』P175~176)

 そして、羯南は、1879年(明治12年)9月頃、青森新聞社(同年3月6日創刊)に入社、編輯長となっている。そして、必ずしも羯南の筆ではないにも拘らず、2~3件の筆禍事件に巻き込まれ、編輯長として讒謗律による処罰を受けている。その苦痛もあって、1880年(明治13年)8月頃青森新聞社を退社、北海道へ渡ることとなる。

 この青森時代は、前述の「秋永芳郎著『東奥の炬火 菊池九郎伝』」によれば、西南の役から戻った菊池九郎は、1878年(明治11年)に、教え子である伴野雄七郎の運動に共鳴、地方政治思想啓発のため共同会を組織、自由民権運動を起こしている。
 ただ、東奥義塾に影響を及ぼさないようするべく別個の組織とした(世間ではこれを東奥義塾党と称していた)。このメンバーの中に本多庸一らと共に陸羯南の名前もみられる。

 そして、県内各地区での啓蒙活動を終え、1880年(明治13年)3月27日、
「・・・県内各郡有志は青森の蓮花寺に会合、国会開設建白について協議した。出席した委員は、菊池九郎、本多庸一、笹森要蔵、今宗蔵、伴野雄七郎、陸實等21名で、協議の上今宗蔵が建白書の草案を作った。」とある。
 
 この国会開設建白書は、かなりの部分を羯南が草稿したとする説もある。
4月17日、本多庸一と中市稲太郎がこの建白書をもって上京、元老院に提出している。

 そののち、陸羯南の新聞「日本」の創刊(1889年2月11日)の2ヶ月前、1888年(明治21年)12月に、菊池九郎も東奥日報社を創設、初代社長となっている。                      しぶさわ 
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by kuga-katsunan | 2008-02-15 23:20 | Comments(0)

「柴四郎」という生き方  その一

 会津若松市にある「会津武家屋敷」の資料展示場の吹き抜けには、巨大な垂れ幕が掲げられている。そこには、会津藩出身で、陸軍少将、貴族議員も勤めた山川浩の歌が記されてある。

 明治十年西南戦争に政府軍の征西別働第二旅団の参謀として、出征する際につくられた歌である。

    薩摩人(さつまびと)みよや東(あづま)の丈夫(ますらを)が
        提げ佩く太刀の利(と)きか鈍きか

 政府軍として出征すること自体に懐疑的なものもいたようだが、多くの元会津藩士は、明治維新の屈辱的な仕打ちに対する復讐の思いを、この出征によって一挙に晴らそうとした。

 そして、その出征から120年以上も経過した今日にあって、今なお、こうした巨大な垂れ幕が、郷土の歴史を語る資料館に掲げられているという事実に、会津人の根深いこだわりが伝わってくる。

 本稿で取り上げる柴四郎も、山川浩の編成した別働軍の一員として、この西南戦争に参戦している。このとき四郎は24歳、この参戦は彼のその後の人生を大きく変えるきっかけとなる。

 「ある明治人の記録」(石光真人編)では、四郎が出征する場面が、弟であり、北京籠城で世界的に名声を博し、陸軍大将まで勤めた柴五郎の言葉で語られている。

<三月二十七日、四郎兄の書に接す。
 
 「今日薩人に一矢を放たざれば、地下にたいし面目なしと考え、いよいよ本日征西軍に従うため出発す。凱旋の日面会すべし。学業怠るなかれ」

 病弱の四郎兄、床を蹴っての出陣なれば、まことに心痛の極みなれど、余もまた征西の志、胸中にたぎり、闘志炎となれる砌(みぎり)なれば、あえて兄の壮途を止めず、ただ無事凱旋されんことを祈るばかりなり。>

 「床を蹴って」というのは、四郎は生来病弱で、熱病に悩まされ続けてきたことを指す。
後に触れるが、この病は、至る場面で彼の運命を左右していくことになる。

 いづれにしても、柴四郎はこの西南戦争を経て、大きな転機を迎える。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2008-02-14 22:31 | 研究 | Comments(0)

二つの創刊120周年

 新聞日本は、よく知られているように、今日から119年前の、明治22年2月11日、大日本帝国憲法発布の日に創刊されている。

 前年に、株式新聞であった東京商業電報を買い取って<東京電報>として再スタートした新聞日本は、東京電報の創刊がスタートと考えると、その創刊日明治21年4月9日がもう一つの創刊日ということになり、今年の4月9日が創刊120周年ということになる。

 羯南が若き日に故郷青森で編集長を務めていたのが青森新聞である。

青森の東奥日報のホームページの<本社小史>には、その歴史が語られている。

<明治10年(1877) 3月   「北斗新聞」発刊(翌年8月100号で廃刊)>

 この北斗新聞の創刊者は、斗南藩即ち会津藩の小川渉である。小川渉の件は、やまだ君にお願いするとして、その後継として

<明治12年 3月 6日 「青森新聞」発刊>

 羯南は、明治12年の明確な日月は不明だが、後半には同社に入社し、編集長を務めた。翌年6月25日には、彼の名前が青森新聞の編集長欄から消えている。青森新聞自身もその年には廃刊となった。

<明治17年 9月 1日 「秋田青森函館新聞」発刊。翌年10月廃刊>

これらの新聞は、皆短命に終わっている。

そして
<明治21年 11月22日青森寺町61番戸に資本金6,000円で株式会社東奥日報社を設立。12月6日「東奥日報」発刊。社長兼発行人菊池九郎(弘前)印刷人小笠原宇八(青森)編集人関春茂(八戸)>
 社長、印刷人、編集人が、それぞれ弘前、青森、八戸の出身者、ということは、奇妙な符号なのであろうか。

 今年は、奇しくも、羯南の関わった新聞、東京電報と東奥日報が、創刊120周年を迎える。

 青森と東京、羯南の故地と揺籃・活躍の場の二ケ所で、創刊120年を迎える新聞のことを思う時、新聞を発刊し続けることの意義が再び迫ってくる。

たかぎ

 
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by kuga-katsunan | 2008-02-11 08:24 | トピックス | Comments(0)

菊池九郎(2)~東奥義塾~

 陸羯南が1873年(明治6年)、17歳で入学した東奥義塾は、1872年(明治5年)11月23日に設立された。その設立の中心人物が、菊池九郎である。

 秋永芳郎著「東奥の炬火 菊池九郎伝」によれば、概略は以下の通りである。

 菊池九郎は、1847年、弘前に生まれ、1858年、12歳で、東奥義塾の前身である弘前学問所・稽古館(1796年開校)に入学している。

 1869年(明治2年)、菊池九郎は、公費留学生として慶応義塾に入学。慶應義塾で学んだのは1年未満だったが、「福沢諭吉の影響が、少なからざる精神形成の一つの糧となったことであろう。」と秋永氏はいう。

 1870年(明治3年)、藩命により鹿児島に留学。鹿児島藩の英学校で学び、兵学校(砲術、兵制など)を研究した。帰郷中の西郷隆盛にも会い、薩摩の人々と同様、崇拝の念を抱くようになっていったようである。
 
 そして、鹿児島の留学から帰した直後の1871年(明治4年)に漢英学校の幹事(校長)に就任した。しかし、新しい学制が敷かれたため、この漢英学校の補助金も打ち切られ、廃校に追い込まれそうになる。

 そこで新しい私塾を興すべく、菊池九郎が東奔西走(鹿児島人脈も活用)、慶應義塾出身の吉川泰次郎、成田五十穂に働きかけ(彼らも猛運動を展開)、短期間で設立に漕ぎ付けた。

 藩主承昭から5千円を調達、奥州で初めて外国人教師(C・H・ウオルフやアルサス・コリンズ・マックレー)を招いた。有山輝雄著「陸羯南」では、この2人に羯南も「学んだであろう」とある。

 そして、東奥義塾の名声は日増しに高まり、県内外から俊英が集まったが、異色なのは旧斗南藩の柴四郎、藤田重俊、江南哲夫などである。

 そして、陸羯南が東奥義塾を去った後も、菊池は、青山学院の基礎を築いた本多庸一を塾長に据え(1874年、明治7年)、 翌1875年(明治8年)には、「旧藩藩札償却免除運動」の成功(ここでも鹿児島人脈を活用)を通じて、東奥義塾の経営を支えた(毎年3千円の補助金が藩主承昭からでる)。

 一方、本多を通じ、西洋林檎を初めて紹介したジョン・イング師を英語教師として採用している。

                                  しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2008-02-03 21:34 | その他 | Comments(0)

《黄泉還り対談》 陸羯南-正岡子規について語る その五

問  陸さんの隣に引越ししてきますよね。それは何時だったんですか。
陸 「大学を辞めたいと言っていた直ぐ後の十月だったと思いますが、今度は、私に家を探してくれと言ってきました。
今から考えると、さっきも言った様に、小説家になって自立しょうと考えて、それを書くために寄宿舎を出たいと思っていたんじやないかな…。
私が家内に相談して家を見つけようとしていたんですが、中々良い物件が無かったのです。そうこうしている間に、正岡君は自分で見つけた部屋に間借りしてしまいました。そこで小説の執筆を始めた様です。
彼には、喀血した経緯があり、▽人で生活しても病気が悪くなった時、誰も側に居ないと大変な事になると思い、我が家の傍に呼んだほうが良いと思って、部屋探しを急がせました、見つかったのは年がかわった時でした。それも隣の家が空いたのです。
これが根岸八十八番地で、老婦人一人で住んでいたのですが(確かな人に貸したいというので家内が仮決めして来ました。彼に連絡すると下見もしないうちに引っ越してきました。
我が家に書生が居りましたので手伝いに行かせましたが、荷物は荷車にほんの少しで殆どが本とか帳面だったと言っておりました。引越しが終わって本人が家に挨拶に来たのですが、その時『小説が書き上がって、幸田露伴に見てもらっている』
というような話をしておりました。
私も、これで彼が成功して呉れたら良いのだが、と思ったものです」
問  その小説は成功したのですか。
陸  「結局数日後、幸田露伴から断られて返されて来た様です゜
随分がっかりしていた様なので、私が知っている人に読んでもらいましょうと言って預かりました。
私が以前勤めていた官報局に長谷川辰之助ニ葉亭四迷)君がいたので、以前の上司である高橋健三さんに頼んで見てもらいました。しかし其処でもあまり良い評価はしてもらえませんでした」
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by kuga-katsunan | 2008-02-03 05:34 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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