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<   2007年 12月 ( 11 )   > この月の画像一覧

三つの従軍願 アジア歴史資料センター

 新聞日本と外交との関係を調べたい部分があって、外務省の先輩に相談した。
<外交史料館のHPがあるよ>というアドバイスで、そのHPに入ってみた。

「外交活動にともなう在外公館との往復電報・公信類をはじめとする貴重な史料が、外務省創立以来第2次大戦終結までの約80年にわたり、約4万を越えるファイルに整理・編さんされています。
 このうち明治・大正期の記録は、1門(政治)、2門(条約)、3門(通商)など8門に、また昭和戦前期の記録は、第2次大戦終戦関係も含み、A門(政治・外交)、B門(条約)、E門(経済)など16門にそれぞれ分類されています。
 外交史料館ではこれら戦前期「外務省記録」を、原則として原本で閲覧することができます。

 また、アジア歴史資料センターのホームページでは、同ファイルをインターネットで閲覧することができます。」

 多分何もあがってこないだろうな、と思いつつもダメもとで、日本新聞社、という検索をかけてみた。
 この検索は、外交史料館のみならず、国立公文書館、防衛研究所にも繋がっている。
明治28年 「第3新聞記者従軍書類 共3冊 庶」の中に、他の新聞社の記者の願とともに
「東京日本新聞社員正岡常規の履歴書等の件」というファイルがあった。
東京日本新聞社員正岡常規、即ち正岡子規のことである。

 明治28年3月6日に出された子規の履歴書は
「履歴書 慶應三年九月十七日出生 明治十二年愛媛県松山勝山小学校卒業 同年松山中学校ニ入学十六年同校第一級ヲ修学中退学ス同年出京十七年東京大学予備門ニ入学二十三年第一高等中学校(東京大学予備門改称)卒業」

となっていた。

 この従軍願は、まさに羯南が書いたもので、この日清戦争の従軍記者がきっかけで、子規は病いにおかされていく。

 他にも二人の日本新聞社記者の従軍願が保管されていた。

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2007-12-31 07:43 | トピックス | Comments(0)

幻の新聞「日本」第2号見つかる 弘前編

 新聞「日本」第2号については、1期のたけざわ先輩と弘前へお持ちした。

東奥日報さんが下記の様に報じて頂いている。

  「これまで現物が発見されず、幻とされてきた、一八八九(明治二十二)年二月十二日発行の新聞「日本」第二号を、東京の陸羯南研究会が入手した。研究会は一日、弘前市を訪れ、「『日本』の主筆兼社主である陸羯南の古里・弘前市で、有効に活用してもらえれば」と、市立郷土文学館に持参した。

 新聞「日本」は、大日本帝国憲法が発布された日と同じ、一八八九年二月十一日に創刊した。

 創刊号は複数の図書館が所蔵しているが、二、三号だけは見つかっていなかった。復刻版でも欠号扱いで、社説のみが陸羯南全集に収録されている。

 その幻の第二号を所有していたのは、東京都の天田晴彦さん。天田さんは、羯南と親交が深く、「日本」にも出稿していた禅僧・歌人の天田愚庵の兄の子孫に当たる。

 仕事を持ちながら個々の切り口で研究に取り組んでいる陸羯南研究会のメンバーは十月、天田さんを訪ねて愚庵と羯南のかかわりを調査。後日、天田さんから「研究に役立ててほしい」と寄贈された資料の中に、第二号が含まれていた。

 第二号は四面立てで、憲法発布当日の各地方の祝宴の模様を掲載してあり、青森では八十歳以上に祝い金が配られたことも紹介。当時既に、全国各地に情報のネットワークを築いていたことをうかがわせる。」

  (東奥日報  2007年12月2日

http://www.toonippo.co.jp/tokushuu/kugakatsunan/index.html)

 
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by kuga-katsunan | 2007-12-30 07:40 | ニュース | Comments(1)

湖畔に眠る<日露戦時旬報>  諏訪市中央図書館

  こなか君に富山の駅まで送ってもらい新潟方面の特急に乗った。

前夜、ながい先生に富山から諏訪にはどう行けば良いか、と聞いたところ、考えたこともない、という返事で<やっぱり一度東京に戻るのかな>、と。

  おり良く車掌さんが通りかかったので聞いてみると、糸魚川と直江津の二つルートがあるという。どちらが早いか見てもらい結論は、糸魚川から大糸線で南小谷へ抜け、そこから特急あずさに乗ってが早いですよ、それでも4時間はかかるという。

 たしかに東京へ帰るより遠い。

 途中の糸魚川から上諏訪への沿線は大雪の銀世界であった。しかし太陽は輝き、一種夢幻の世界であった。
 
 諏訪は吹雪かと思ったが、駅につくと快晴、嘘のような上天気である。諏訪湖は陽光を浴びて輝いていた。

 新聞日本のオリジナルがどこに所蔵されているかは、国会図書館のDBでわかる。おそらく各図書館の申告制なのだろう、附録、号外の所蔵を含めて非常に細かく記載しているところもある
諏訪には何故か明治37年1月から羯南が日本新聞社を売却した明治39年6月までの新聞が所蔵されていることになっている。
 では同時期に附録として掲載されていた<日露戦時旬報>、<日本画報>も一緒に所蔵されているのだろうか。電話で問い合わせたのだが不明だったので足を運んだ。

 地下の所蔵庫から取り出されてきたのは、4ケ月ごとに原寸大の紙箱に納められたオリジナルの新聞日本であった。

 最初の箱、明治37年1月ー4月、を開けると、メモが入っていた。そこには几帳面な字体で<日本週報>、<日露戦時旬報>の所蔵が書かれていた。
 内容を確認してみると、<日露戦時旬報>は、明治37年2月11日の日露戦争開戦の日の第一号から<日本画報>に移行する第十一号までがリスト化されていた。

 <日露戦時旬報>は、復刻版には掲載されておらず、神奈川県近代文学館、静岡県立図書館に第二号から第十一号までの所蔵は確認されていたが、何故かどちらにも<第一号>は幻となっていた。

  慌てて、コヨリで綴じられている新聞をくると確かに<第一号>はあった。しかもペ-ジの下の部分が切り開かれていない、さらの状態であった。図書館の方にお願いしてコヨリを解いて頂き<第一号>を取り出した。
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たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-12-29 08:41 | 紀行 | Comments(0)

新聞『日本』幻の第2号発見 親友の子孫らにより“故郷”弘前へ

  以下、先日、当会の活動の一部を描いた<東京新聞>さんの記事を紹介させていただきます。

<明治を代表するジャーナリスト、陸羯南(くがかつなん)(1857-1907年)が創刊した新聞「日本」で幻とされていた第2号が見つかった。発見者は羯南の親友で歌僧の天田愚庵(あまだぐあん)(1854-1904年)の子孫で1日、第2号が羯南の出身地、青森県弘前市の市立郷土文学館に手渡された。

 羯南は弘前藩士の家に生まれ、東奥義塾などで学ぶ。司法省法学校本科に入学し退学処分となり、青森新聞社に勤務。再び上京し太政官文書局の官吏となり、その後、新聞「東京電報」に入社し、翌1889(明治22)年に「日本」を創刊した。

 羯南が社長・主筆を務めた「日本」は、長谷川如是閑、福本日南、三宅雪嶺ら明治を代表するジャーナリストを輩出。当時、政府が進めた欧化政策に反発し「国民主義」を論調とする硬派の新聞として読者の支持を得た。97年の新聞紙条例改正まで発行停止処分が30回(計230日)にも及んだ。

 九八年、短歌革命を起こした正岡子規の「歌よみに与ふる書」を掲載するなど、子規の文学活動の舞台にも。「日本」は羯南が1906年に病のため譲渡し、14(大正3)年12月31日付が最終号(第9194号)となった。

 復刻・縮刷版は88年から91年にかけて発行されたが、第2号と第3号は欠落して存在が確認されず、新聞研究史上の空白になっていた。

 「幻の第2号」を見つけたのは、東京都江東区の郵便局長、天田晴彦さん(62)。天田愚庵の兄真武(まさたけ)から5代目の子孫だ。愚庵は子規の短歌に多大な影響を与えたほか、清水次郎長を世に知らしめた伝記「東海遊侠(ゆうきょう)伝」の著者としても知られている。

 第2号(2月12日発行、4面)の1面を見ると、「国民的の観念」の論文が掲載。「今日の国家は『国民』と言える一大観念の上に安置せらるるものにして此(こ)の観念に依るにあらざれば以(もっ)て一国の一国たる元気を発揮するに足らざるなり」(原文は旧字)などと、国民の独立の観点から急激な西欧化の危惧(きぐ)を訴えている。

 憲法発布に絡んでは、「故西郷隆盛 特旨を以て正三位を被贈」と、隆盛の死後12年を経て特赦が出されたことを報じる短信もある。

 晴彦さんは以前、愚庵の出身地、福島県いわき市の古書店「平読書クラブ」で第2号などが売られているのを知り購入。今年10月、都内の社会人研究グループ「陸羯南研究会」に委ね、日本新聞博物館(横浜市)や国立国会図書館に問い合わせて、欠落の号と判明した。晴彦さんが同会と相談し、同会の手で弘前市立郷土文学館に渡された。

 同館では「今後、どう活用するか、検討したい」としているが、晴彦さんは期待を込めてこう話す。

 「羯南生誕150年、没後100年の節目の年に、親友愚庵の血縁の私を通じ貴重な資料と分かったのも何かの縁。今後の研究に役立ててほしい」>
ひろかわ
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by kuga-katsunan | 2007-12-27 05:44 | ニュース | Comments(0)

内山邸

全国を駆け回る高木主筆が23日午前、富山市の豪農の館、内山邸を訪れました。
同邸に保存されている、新聞日本の付録「日本画報」の現物調査が目的です。
日本画報は明治37年6月から同39年6月にかけ、隔週ペースで出たタブロイド判の写真集で6から12ページで構成。全42号のうち、同邸では36号分がそろっています。状態もよく、日露戦争の報道写真のほか、国内の花見の様子、大学スポーツの風景、相撲取りなども掲載されており、明治時代の政治、経済、社会、国際にわたる世相や風俗がよくわかります。
キャプションなどは日本語と英語の両方で表記されています。有力企業の工場の様子なども報じられており、高木主筆は「当時、日本の国債を諸外国に売るための宣伝媒体という性格もあったのではないか」と推測しています。
前日夕には、金沢で加賀料理で一献。四方山話に花を咲かせました。こなか。
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by kuga-katsunan | 2007-12-24 08:08 | 研究 | Comments(0)

旅路の果て 大連から前橋へ 遼東日報のこと

 日本新聞の関係者の多くが、台湾の台湾日日新聞で再び活躍をしたことは前に紹介したが
もう一人、大陸に雄飛したのが末永純一郎である。
 彼の実弟末永節(みさお)のことについては、福岡のおおうち君が末永節の晩年に接していた方にインタビューしてくれているのでご紹介できるチャンスがあると思うが、兄の純一郎のことである。

  http://katsunan.exblog.jp/5708889/

 彼は大連に居を移し、<遼東日報>という新聞を出しはじめた。
私自身、中国には10年以上住んだ経験があるので、まるで旧知の人間に会うかのような親しみを覚える。

 彼の作っていた<遼東日報>を何とか見られないかと思っていたのだが、東大の明治新聞雑誌文庫の司書の方がデータを見つけて頂いた。

 何故か、この東大でもなく、国会図書館でもなく、群馬文書館にあるという。
この文書館は、前橋にある。
  
 前橋は高崎から在来線に乗り換えてたどり着く、県庁所在地としては交通が便利とは言い難い。駅前の交番のお巡りさんも<群馬県立文書館?>という反応だったので、諦めてTAXIのお世話になった。

 文書館の方も、最初この<遼東日報>を発見できず不安になったが、あちこちと探して頂くうちに、ひょんなところに格納されていることがわかった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-12-22 06:23 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその八

 翌明治32年に入ってからは、1月24日に<東亜同文会会計の事に付>面会、その後2月2日幹事会で寄付金の議論、3月5日に同じく幹事会で国からの予算の件も議論されている。
  羯南は、3月7日に篤麿あてに書簡を出している。

<資料8  明治32年3月7日>
一 来状 高根義人留守宅余の漫遊に付義人に滞欧中相応の用向を命ぜられたしとの事陸実東亜同文会の事別紙の通り
(1)拝啓、陳ば同文会幹事長の義、御出立前に是非御撰定は必要と奉存候。可相成来十四日大会の前に御任定被成下候はゞ、無此上都合に御座候。杉村濬と申人は、其後猶聞合候処先づ評判は宜敷候。特に政府の文武両部に向ひても信用厚きやうに相聞へ、人物亦誠実のよしに承候。又年齢も五十以上にて経歴も有之、旁会員の多数には不信用可無之、御不在中代理位には差支可無之歟と存候。御再考奉願候。



  この中で、会の幹事長の人選につき、篤麿に相談をなし、杉村  、杉村重剛、有賀などの名前をあげている。これは篤麿が4月から外遊に出る前に会の運営の安定のために早急に決定しようとしたのだが、結果、羯南自身が幹事長を勤めることになった。(6月まで後任は、佐藤正)
  この前後、二人は、日本に亡命中であった康有為、梁啓超などとの接触、学習院に清国留学生の受入を行うなど、対清関係の動きも活発になってきていた。
注目すべきは、篤麿の日記にある次の部分である。

<資料9  明治32年3月12日>
一 午前十時出校々務処理、午後一時、東亜同文会評議員会を官舎に催ふす。谷、長岡両子爵、佐々、陸、池辺、長谷場、杉村濬、岸田、田鍋、神鞭等なり。外務機密費より同会に下附の額は八万円と内定し、余、佐々、長岡三名、外相に交渉する事に決す。夫より。


これによれば、会に対して<外務機密費>が八万円付与されることが内定しており、その意味でこの会の活動は、政府の影の組織としてその存在が認められたことになった。これも篤麿が中心となって、外務大臣に働きかけたことによるものである。在野の組織でありながらも、目的によっては政府とともに動く、これが明治新時代の官民一体の一つの形といったものであろうか。
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by kuga-katsunan | 2007-12-15 08:45 | 研究 | Comments(0)

羯南と紅緑

 佐藤紅緑は、明治7年(1874年)7月に今の弘前市に生まれた。羯南が安政4年(1857年)生まれだから、歳の差は、17である。羯南の青年期にあった明治維新期の混沌は、程なく落ち着き新しい国家の形ができつつある時に生を受けた。
 紅緑の父は、佐藤弥六。津軽藩士として山鹿流の軍学と蘭学を修め江戸に留学。維新後は慶應義塾に入り、福沢諭吉門下生となった秀才である。郷里に戻り、養蚕の導入、リンゴの品種改良など、産業の基盤改善に尽力したり、キリスト教布教の礎を築くなど、紅緑よりよほど「郷土の偉人」色の強い人物だ。福沢からのオランダ公使着任を打診されたこともあったが固辞するなど、生涯を青森の地ですごした。その性格は頑固一徹。正義感にあふれるもので、産業基盤の強化を唱えたのも困窮する士族たちの生活改善を念頭に据えたものだった。

 紅緑は、そんな開明的ではあるが一風変わった父の元で、奔放といえば言葉はいいが相当な素行不良だったらしい。小学校から明治19年に東奥義塾にはいるが長続きせず22年に青森尋常中学(現弘前高校)に転学するがそこも中退。常に教師と対立する問題生徒だった。
 私が前項の「その二」で示した明治初期教育の矛盾は、佐藤紅緑の運命を決めたといってもいいだろう。
 明治26年に上京、というより家出である。東京には兄密蔵がいて父と同じ慶應義塾で学んでいた。さすがに学生の身で弟の面倒を見ることができず同じ弘前出身の羯南に紅緑を紹介することになる。

 紅緑自身が晩年の66歳の時に羯南との初めての出会いを作家らしい筆致で書き残している。

……羯南先生の玄関に座り込んだのは、私が二十歳の時、今から四十六年前である。ある日先生は私をお呼びになった。
「君、お父さんから手紙が来たが、いったい君は何をやるつもりかね」
「法律をやります」
「うん、国のものは皆法学院へ行くが、君も法学院かね、どうかなァ、ものになるかな」
 先生は暫く黙考されてから又言った。
「まあ、やるがよかろう」……

 ところが、紅緑はここでも学校をしくじる。また羯南に呼び出される。書生として陸家に居候中のことだ。

……するとある日先生が私をお呼びになった。
「君法学院がいやなら國學院へ行きたまへ、あれを卒業すれば田舎の中学校の教師くらいにはなれる、どうせ次男だから学校教師でも何でもやって飯を食うことを考へなきゃならんよ」……

 またもというか、國學院でも上級生と衝突し、放校する。今度は羯南に自ら申し出た。

……それを告白に及ぶと先生は瞬きもせず私を見つめておられたが、聴いてにたにたとお笑いになって、
「馬鹿だなあ……まあよい」と言われた。
 先生は多分「こやつはものにならん」と思われたに違いない、ものになるとか、ものにならんとかいう言葉は先生の口癖である。……

 ここで羯南は紅緑に上野図書館の特別閲覧券を与える。束縛なく自由に本を読み、紅緑曰く、「真剣に通い、真剣に勉強した」とある。
 この時期は明治27年あたり、金玉均が暗殺され、日清間に不穏な情勢が醸し出されていく頃のこと。紅緑は「支那へ渡り馬賊にでもならうか」と考えていた。

……「君の書いた文章があるか」
「中学校の雑誌に出したのがあります」
 私は校友会雑誌を二冊ほど先生に差し出した、先生はそれをご覧になって。
「よしッ」といはれた。先生は寡言の人だから、どんな用事でもわずかばかりの言葉で決定なさる。よしッと言はれたら直ぐ退座しなければならんのだ。私が書生部屋へ下がっていると暫くして先生がお呼びになった。
「君は社の方へ手伝ひに来てくれ」
「はッ」
「今日からでも明日からでもいい、校正をやってそのほかに何か仕事があるかも知らん」
 こんなに嬉しかったことはない。馬賊が一転して新聞記者になるのだ。
「よしッ」
 そこで私は引退った。先生は多分「ものになるかなあ」と思はれたに違ひない。……(「ものになるか?」より)

 これぞ、司馬遼太郎が言う、「羯南はえらいですが、磁石としてのえらさで、その磁場に集まっていた鉄片たちが重要かと思います」に通ずるのではないか。紅緑は、新聞「日本」においては、ともに新聞を作った雪嶺、素川、子規、如是閑とは、世代的に下で、仲間と言うより、師弟関係というのがぴったりだ。
 と同時に、紅緑のこの文章から、わたし的には、感慨を禁じ得ない。紅緑の羯南を仰ぎ見る目、羯南の紅緑へのまなざし、……これは、青木師と私たちとの関係にそっくりでないか。できが悪く、事が起こり、相談に行くときはいつも悪い知らせ。慈愛の眼で話を聞いてくれ、さりげなく最善策を示してくれる。青木師の柔和な笑顔がよみがえる。

最後に紅緑がこの文章の最後に書きとめた俳句を。

  叱られし事のみ憶ふ秋のくれ

                               すずき
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by kuga-katsunan | 2007-12-10 08:26 | Comments(0)

新聞日本と囲碁⑥ 長清会

囲碁に関する記述の最後に長清会について。

雑誌「日本及び日本人」大正12年9月号に寄稿した元新聞日本社員で詩人の寒川鼠骨によれば、長清会は陸羯南が作った囲碁サロンであり、上野寛永寺の子院三十六坊の一つを会場としていた。
三十六坊は江戸時代、大名が幕府に寄進した寺の数々で、戊辰戦争でかなり壊されたもののいくつかが当時も残存していた。会場となった坊は一人の僧侶が守っていたらしいのだが、羯南に貸したまま、嵯峨天龍寺にいってしまったと書かれている。

この会の性格については「単純な清談会(談話サロン)であり直接行動を評定するようなアジトではなかった」としているが「顔ぶれが時の政界にとってかなり物騒な連中だったので、飲んだり論じたり碁を打ったりだけでなく、(天下国家について)憤慨して激論が交わされた。だから娯楽の場というだけでなく同士結束の場になった」と評している。

要は血の気の多い面々が、碁を打つだけにとどまらず、天下国家について議論を交わす場であったようだ。

ここではだいたい午後に三々五々集い、食い物が並べられ、飲み食いしながらパチパチとやったり、本を読んだり語ったり。きわめて自由な集まりであったとのこと。

メンバーは陸羯南や正岡子規に加え、陸軍反主流派の三浦観樹(梧楼)、当時大隈内閣の閣僚だった犬飼木堂(毅)、国分青厓、三宅雪嶺、桂湖村ら漢学者、詩人など。先に書いた陸羯南の囲碁の「下手の横好き」はここで真価を発揮したということである。

当時の新聞(報知以外)を比較してみたことがあるが、囲碁欄を設けていたのは新聞日本だけであり、長清会での手合いの日々が高じて同欄に結びついていったことが想像できる。

一方「羯南居士17周忌に会して」に寄稿した羯南の盟友・稲葉君山は、「陸翁の提唱でできた長清会には、根岸時代の名士が網羅されていた。(中略)長清会を中心としての陸翁は、いつも私をしてありし翁の面影をしのばせる題材を成すのです。」と思い出を語っており、いかに陸羯南の生きざまにおいてこの会の存在が大きかったかがわかる。

(明治32年11月には、浅井忠が西洋に旅立つ送別会を大宮氷川公園で行い、その模様を陸羯南と浅井忠が「長清会大宮遊図巻」と題した絵巻物にまとめており、これは陸羯南全集第10巻の巻頭写真として掲載されている)

逆に見ると、長清会を通じて、陸羯南のもつ求心力に気づかされる。

そのような意味では、自らの志をもって「青木塾」や「土曜サロン」などをつくり、数多くの塾生や同士の求心力となった青木彰師の在りし日の姿は陸羯南に投影できるのではないだろうか。

また余談ではあるが、塾生で唯一、師と手合いした当方の見立てでは、囲碁の才能については羯南も青木彰師も五十歩百歩であり、「下手の横好き度」でも共通点が見出せそうである。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-12-10 00:04 | 研究 | Comments(0)

葉山 パッパニーニョ 陸羯南の娘たちの家

 葉山の御用邸前のバス停を左にゆるやかな坂を上がったところに<パッパニーニョ>という名前の喫茶店がある。店に入ると、壁にはサッカーの神様ペレ、そしてドイツの星、ベッケンバウアーがにこやかに写っている写真が飾られている。サッカー少年だったやまだ君が見たら腰を抜かしそうな写真ばかりである。

http://www.pappanino.com/shop.htm

 この店のHPの右側に小さく写っている昔の板塀が、実は羯南の娘たちが暮らした家だった。かって羯南の研究者たちが、その論文のあとがきで書いている<葉山の家>がここである。

 <葉山町一色の陸家に行くには、坂をのぼらなければならない。

のぼりきって左手に門があり、門柱に

  「陸四郎」

と、樸実な書体で表札がかかっている。
 陸という文字を見るだけで、遠い世の羯南が不意にあらわれるような懐かしさが感じられてしまう。>

(司馬遼太郎  「 ひとびとの跫音」  中央公論社)

 司馬さんがここを訪づれた時は、陸四郎さんも、そして羯南の娘たちも元気で、この地に暮らしていたのである。

 ご主人に教えて頂き、庭のほうにまわってみる。
 旧若狭藩主酒井家の隠居所を移築したという建物は今でもそこに明治の人々が生きているかのような佇まいである。

 縁側には、古い本棚があり、そこには戦前の改造社とアルスの子規全集が並び、その下には司馬さんが編集委員をつとめた戦後版・講談社の子規全集が並んでいた。

 そして、なによりも全10巻が完結するまで多くの時間をかけた、ここのかっての住人たちの心やさしき父である羯南の全集が娘たちを庇護するかのように並んでいる。
これらの本が出るたびにその出版の関係者が運んできたのだろうか。

 そしてその和室の奥、床の間の前には、大変古びた<碁盤>が置かれていた。

この碁盤からは、今でも羯南の碁石を置く鋭い音が聞こえてくるような幻聴が、遠い葉山の海岸の波音とないまぜになって響いてくるようであった。

たかぎ





  
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by kuga-katsunan | 2007-12-09 07:59 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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