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<   2007年 11月 ( 18 )   > この月の画像一覧

羯南と野間清治 その二

 明治初期、青雲の志を抱いた若者は、全国の至る所にいた。薩長で代表される維新の志士たちだけでなく。
 このブログを閲覧する方には自明の羯南の略歴だが、彼はいくつもの学校に入りながら、なぜか卒業を全うしていない。明治7年に宮城師範学校に入っている。が、卒業を前にして、同級生3人と学校を飛び出し、そのまま東京に出ている。明治9年に入学した司法省学校も12年に退学している。最初の職を得たのは、故郷の戻ったあとのことだ。青森新聞を経て北海道紋別の製糖工場に渡っている。学資の工面に難渋する日々が続いた。

 翻って、野間清治も出版を志し雑誌「雄弁」を出すまでの来歴は複雑だ。明治11年に現在の群馬県桐生市に生まれ、高等小学校までは行くが、15歳でいったん東京に出るが、ここで次の進学に挫折する。明治29年に群馬県立尋常師範学校に入学し、代用教員をした後、東京帝国大学文科大学で中学教員養成のための臨時教員養成所の開設を知り、入学。明治37年の卒業と同時に得た就職先は沖縄県立中学校だ。これも、就職先で一番の給料を出すことだけで選んだといわれている。

 さて、両者の20代はこうして始まっている。後の偉業はうかがい知れるところはない。少なくとも、順調な、そしてストレートな学歴を経ているとは思えない。奇しくも北と南という日本の両端で職を得たことが二人の意に沿うものだったわけではない。
 そろって挫折を経験している理由は何か。直接それに答える明快な回答はないが、興味深い資料がある。教育学が専門で慶応大学教授の村井実著『現代日本の教育』(日本放送出版協会・1972年)の一節にこうある。
「学校はあるが教育は貧しいという事実を鋭く感じ取った人々は……決して少なくなかった……(石川)啄木の『雲は天才である』(明治39年)……夏目漱石の『坊ちゃん』(同)、島崎藤村の『破戒』(同)、田山花袋の『田舎教師』(明治42年)、国木田独歩の『酒中日記』(明治35年)等は、すべて日本の学校の硬直化と陳腐さとを描き、そこに生きる教師の苦悩と反抗と脱出の経過を描いている」
 羯南の放校に至る心情、野間清治が沖縄に赴きながら、ほんの数年で東京帝国大書記の仕事に転じたのも、村井の指摘が当たっていると考えられないか。

 それ故だろう、羯南は才ある若者への援助は新聞「日本」時代に顕著になる。書くまでもないが正岡子規への終生変わらない物心両面での厚情。同郷のまだ17歳であった佐藤紅緑の身元引受人になったのも、こうした羯南自身の若き時代の鬱屈があったことが一因ではないか。
 野間清治にもかたちは違うが公教育に対抗するようなことをしている。雑誌経営が軌道に乗りだした大正時代、自ら小学校卒の優秀な少年を雇い私家教育を施す少年社員という制度を始めた。また、自らの子である野間恒も学校へやることなく育てている。

 さて、弘前から羯南を頼って上京した佐藤紅緑である。子に詩人サトウハチロー、作家佐藤愛子がいる。紅緑にとっての羯南と新聞「日本」の人々。子規との交友。俳人から劇作家、少年小説へと転身し、講談社および「少年倶楽部」の看板作家となっていくあたりは、次の考察ということで。

                                                     すずき
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by kuga-katsunan | 2007-11-30 07:36 | Comments(0)

青木先生からの電話  ブログ開設一周年

 御蔭様でこのブログも開設から一年になり、ここで一度初心に戻って、私事にわたる部分もありますが、このブログの入口に立ち返ってみたい。

今考えてみると、やはりあの青木先生からの電話が始まりだったように思う。

 香港支店の5年の勤務から帰ってきて、国内の勤務にもだいぶ慣れたころ、中学生以来、長年の愛読作家の一人であった司馬遼太郎が亡くなった。
 たしか日曜の夜にテレビを見ていると速報のテロップが流れた。

  <作家司馬遼太郎氏 逝去>

 そのテロップを見て、不謹慎にも、私はあわてて近くの古本屋に駆け込み、未読の司馬作品を何冊か買い込んだ覚えがる。恥ずかしながらその時点では、青木先生と司馬さんとの縁がこんなにも深いものとは知らなかった。

 しばらくは、私も未読の司馬作品を読んだり、初期の作品をすずき君に頼んで探してもらったりと、司馬さんへの追想にひたっていた。
 そんなある日の午後、職場に青木先生から電話がかかってきた。何事かと思ってでた私に先生がいつもの調子で

 「たかぎ君、子規全集を探してくれないかな。
  すずき君に聞いたんだが、もうない、というんだ。」

 どうも、それが羯南への道の入口だったようだ。

 のちのち先生から直接お伺いしたり、<司馬遼太郎からの手紙>(朝日新聞社、この青木先生への取材も同窓のひのさんが手がけていた、というのは後から知った。)を読んだりすると、どうも先生が新聞社から大学の先生になるにあたって、新聞の先輩である司馬さんは、羯南の研究を勧めていたようだ。(このあたりの経緯は、先生の直系の愛弟子である、かざま君やいぬい君は、もっと詳しいと思うが)

 <司馬遼太郎からの手紙>には、司馬さんから青木先生への手紙がいくつか掲載されているが

 <たれか、講師をよんできて、
     <陸羯南と新聞日本の研究>
というのをやりませんか。
数人が、講師(臨時の)をやって、共同研究式にやって(多分に啓蒙的でも可)、大学の出版局から、軽装の本を出したらどうでしょう。
<陸羯南と新聞日本の人々>
でもいいです。
もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、子規を中心とした<日本>の人格群について、大風に灰をまいたような話をしてもいいです。露はらいの役です。>
(1986年12月28日 司馬遼太郎から青木彰への手紙)

と言われている。

 この手紙を読んで、青木先生も研究を始める気になり、知り合いの研究者の皆さんや、
はらだ君たち新聞の現場にいる人たちにも声をかけて準備されていた、という。

が、先生が一時期病気になられたり、協力する出版社などをめぐって頓挫してしまったようだ。

 そこへ、司馬さんの訃報である。

青木先生は改めて、<司馬さんからの宿題>、陸羯南の研究を準備され、その入口として、司馬さんが編集された<子規全集>から入ろうとされたのである。

 青木先生からの電話で、神保町、早稲田を歩いて、子規全集を探した。当時は今のようにネット古書店が発達していなかったので、居ながらにして日本中の古書店の商品の比較ができるようなことはなかったので、足で探すしかなかった。

 それから、次は、<日本の名著>の附録にあった読書案内の書籍を探し、そして明治文学全集の資料へと順番に広がっていった。

 とにかく、最終的には

<羯南文録>

<羯南文集>

が見つからなくて往生した覚えがある。

 司馬さんが青木先生に、青木先生が私たちに、羯南とともに、伝えたかったことは何だったのか、それを更に追及しよう、と、つかもと君は言う。

 時どき、はまぐち君に貰った青木先生の留守電のMDを聞いてみる。上海から電話をしたときにも聞いた、御馴染の留守電である。

 <はい、青木です
  只今留守にしております。
  恐れ入りますがピーと鳴りましたら
  お名前と御用件をお話ください
  有難うございました>

  ああ、青木先生は留守なのだと思う。

  今日も留守なのだ。

 でも、私は、今でも、突然、青木先生から、電話がかかってくるような気がしてならない。

 このブログは、皆、今は不在の青木先生に向けての手紙のつもりである。

今度お会いする時には、少しは、司馬さんと青木先生の羯南についての会話についていけるであろうか。


たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-24 07:50 | トピックス | Comments(0)

三紙の商況欄比較②株式市場と先物取引

『政教社の人びと』(都築七郎著)に新聞『日本』創刊時の日本の状況が描かれている。
「当時の日本は、まだまだ貧しかった。明治聖代も二十年代にはいったというのに、フンドシひとつで市中で働く日雇い人夫や職人もあれば、酒樽のコモを着て歩いている浮浪者もかなりみられた。東京の街には流行しだした洋服や束髪、リボンなどで美しく飾った婦人もあったが、それらは中流階級以上のもので、一般庶民の生活はかなり貧弱な状態であった。」
  東京の株式市場は明治11年に開設されはしたが、一般庶民にはなんら関係のない場所だった。そもそも『株式』が何であるかを理解している人がいなかったようだ。
『日本証券史Ⅰ』(日経文庫)によると、
「明治15年末の東京株式取引所の上場会社数は銀行を中心にわずか9社に過ぎなかったが、20年には銀行、鉄道を中心に34社、30年にはさらに紡績や食品も加わって117社に増加したのである。(中略)売買の9割近くが実物取引ではなく投機的な長期清算取引だった。おまけに売買銘柄も日本郵船、鐘紡、東京株式取引所というような一部の投機株に集中していた。」とある。
 つまり、明治11年からの歴史がある株式市場だが、ほとんどが「長期清算取引=先物取引」だったわけであり、公設の博打場的なスタートを切ったようである。
(日本には享保年間に大阪堂島に帳合米市場という米の先物取引が発達していた。「株式とは何か?」という点の理解がないままに、ただ相場が動くということだけで先物取引の対象になってしまったようだ。)

 世界第二位の経済大国でありながらいまだに、株式投資を博打的なものと見る風潮はこの歴史に負っている点が大きいようだ。

 以上、羯南や新聞『日本』とは全く関係のないことながら。

きしだ
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by kuga-katsunan | 2007-11-21 08:03 | Comments(0)

池辺三山コレクション 日本近代文学館

  海外にいるはまざき君から、池辺三山の資料はないか、との御用命で、日本近代文学館に向かった。

  ここには、昭和43年、三山の長男である、池辺一郎画伯から寄贈された池辺三山コレクションが所蔵されている。(事前の予約が必要)

http://www.bungakukan.or.jp/

  そのコレクションの内容については既に目録が刊行されており、大きく
1.原稿
2.書簡 1)池辺三山書簡
      2)池辺三山宛て書簡
      3)その他
3.自筆文書
4.筆墨・絵画
5.写真
6.図書
7.その他の資料

に大別される。

 その中で特別に20点ちかく、一回で閲覧させて頂いた。(通常は一回、10点まで、とのこと)

 面白かったのは、写真のなかに、宮崎寅蔵、即ち、滔天( 明治3年(1871)~大正11年(1922))と一緒に、上海でとった写真である。
 複写不可なので、御紹介できないのが残念だが
池辺三山を中心に、左に宮崎、右に高橋晶(高知)、後列に井深仲郷(福島)、宗方小太郎(熊本)の5人でうつっている。明治25年5月28日撮影と記されていた。
 池辺、宮崎以外は勉強不足でわからなかったのだが、帰宅してから調べると、宗方については若干わかった。
 宗方は、元治元(1864) 年生まれ,中国に渡ったのが明治17 年,以後,漢口の楽善堂の活動,海軍の情報収集活動に従事。日清戦争勃発以降,逮捕の網をくぐり抜けて生きのび,以後30 年近くも中国の情報収集を継続した。彼の資料は、国立国会図書館憲政資料室とそして彼の活躍の地、上海の歴史研究所に所蔵されている。(その経緯は、<昭和14 年頃に弟子の
波多が伝記編集の作業を進めるべく,宗方の遺族から多量の資料を借り受けて当時の彼の活動拠点である上海に持ち込んだものを,敗戦後日本に引き上げる際に上海当局に没収され,その後その資料が蘇州の古本屋に並んでいたのを,歴史研究所の関係者が購入して,そこの所蔵となって今に至っている。>上海歴史研究所所蔵宗方小太郎資料について:大里浩秋、に詳しい。)

 おそらく、この五人は、今後の日清関係をいかにしていけば良いか議論したのであろう。
裏には写真館の名前、上海 福州路16、H.UYENO、長崎 Japanと印刷されていた。

H.UYENOはひょっとして、と思い、上野彦馬を調べてみた。
天保9年8月27日(1838年10月15日) - 明治37年(1904年)5月22日)で、幕末から明治にかけて活躍した最初の写真家と言われている。長崎の蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれた。有名な竜馬の写真も彼が撮ったと言われている。

http://www.sanno.ac.jp/hikoma/uh1.html

海外に支店(ウラジオストク、上海、香港)をもっていた、ということから、これはまさしく上野彦馬写真館の上海支店で撮られたものであろう。

 余談ばかりになったが、文学館に所蔵されている、池辺の資料は、基礎的なものであり、その日記がまず公刊されたように書簡、他も書籍になることが期待される。書簡の中には、鳥居素川との交換書簡もあり、鳥居の側の資料としても非常に重要と思われる。

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2007-11-18 21:24 | 研究 | Comments(0)

三紙の商況欄比較①日本の株式市場

 手元に明治19年9月15日の商業電報、明治21年7月4日の東京電報(付録)、明治23年5月10日の新聞『日本』のコピーがある。
 明治22年2月11日創刊された新聞『日本』の前身が東京電報であり(明治21年4月9日~22年2月9日)さらに、その前身が商業電報である。
おいおい、三紙の株式欄の比較をしたいが、今回はそもそも日本の株式市場がいつできたのか、簡単に金融の歴史を振り返る。

 明治8年  普通銀行として三井銀行が第一号に
 明治9年  国立銀行条例の改正⇒多数の国立銀行設立(明治12年末まで153行の国立銀行設立=現在の第一地銀はここからスタートする)
 明治11年 5月東京株式取引所、6月大阪株式取引所 
 明治15年 日本銀行設立
 明治18年 初めて日銀による兌換銀行券発行
 明治19年以降企業勃興
 明治21年 『東京電報』創刊
 明治22年 2月21日『新聞日本』創刊
 明治23年 日本で初めての恐慌

 上記のように、意外と知られていないことだが、明治11年に日本の株式市場は設立された。つい一昔前まで将軍様のご治世で、1年前には西南戦争をやっていたというのに、である。(蛇足ながら・・・日本の証券史がこのように歴史があることは、もっと宣伝されるべきだ!と商売柄考えてしまうのだが。)

さて司法省法学校生だった陸羯南がどの程度、株式市場設立に関心を示したかはわからないが、商業電報・東京電報・日本と変わっていく中で、当時の株式市場は企業が興り、(取引量はわずかとはいえ)着実な成長を遂げていたようである。

きしだ
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by kuga-katsunan | 2007-11-16 17:55 | Comments(0)

天台道士の<亡友追想録>

 雑誌<日本及び日本人>には、天台道士による<亡友追想録>という連載がある。天台道士とは、即ち杉浦重剛の、ペンネームである。いくつか連載が続いたあとに、<福富孝季君>という項が出てくる。

 <君曾て余が寓居に来る。偶ま余不在なり。
即ち和歌両三首を紙片に書して去る、其他余は曾て君の和歌等を見たることなし、今其一を記憶し、左に録す。

   君が住む宿のあたりを尋ぬれば
              そことも分かす梅が香ぞする>

(日本及日本人  明治40年4月号)

 のどかな平安の世のようなエピソードだが、福富の豊かな感性を感じさせる。

<君明治24年4月9日暴に没す>

松井氏の<新聞日本の人々>によれば

<一夜に七升の日本酒と二十四本のビールを飲みほしたというエピソードをもつ酒豪であった。>

という。

また
<惜しいことに、明治24年4月9日、大酒した挙句、日本刀で喉をかききり謎の自殺をとぐ>

ともある。

好漢、惜しむべし、である。

杉浦はまた

<往々日本主義及び貧乏主義を主張せり、
その寓意の存する所、頗る味ふべきものありき。>

福富が、日本主義と貧乏主義を重ねていたのかは、今となって不明だが、所謂<大日本帝国>のような夜郎自大的な発想でなかったのは、若くして英国留学をし、日本を外からの視線で見ることのできた経験の産物なのであろう。

最後に

<余會て某年一月三日、君を訪ふ、
君泥酔卒然として曰く

用事は御免、酒ならばいくらでも御相手と。>

感情と理性の器量が、とほうもなく大きな<漢>(おとこ)だったのだろうと思う。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-16 08:22 | トピックス | Comments(0)

千頭清臣の谷干城回顧

 千頭清臣は土佐出身の政治家で、松井氏の新聞日本の人々のリストにも、相談役の扱いとして、杉浦重剛、古荘嘉門、高橋健三、宮崎道正らと一緒に名前を連ねている。

< 明治維新の混乱状態も治まり、社会も平成にも戻った明治18年の頃になると、江戸時代の鎖国政策の間に遅れてしまった文明を取戻す為に、だんだん教育の必要性が重要視されるようになってきた。

その要求に基づいて、明治18年6月、千頭清臣、谷田部梅吉、松下丈吉の三名が官立学校に入学する者のための予備門を設立しようとして、杉浦重剛(夫人は千頭清臣の令妹)、増島六一郎、宮崎道正などに呼びかけて、神田錦町二丁目二番地に、本学園の前身、東京英語学校を創立した。初代校長に、増島六一郎(中央大学の前身英吉利法律学校の初代校長)が就任した。杉浦重剛はすでに東京大学予備門の校長をしていたからである。

東京英語学校は東京大学予備門(現在の東京大学教養学部)の入学志望者を標準にし、そこに十分入学できるだけの能力を養成するための教育を行っていたのである。>

(日本学園中学校・高等学校 HP 日本学園の歴史)

 ここには、所謂<連判状の人々>が名前を連ねているが、千頭と杉浦が義理の兄弟であることがわかる。

 谷干城遺稿には、最後に各方面の人々の谷に対する回顧談が載せられている。
そこには、不平将軍仲間の三浦梧郎、曽我祐準、日銀総裁富田鉄之助、東海散人こと柴四朗、そして千頭清臣らが名前を連ねている。

 千頭の回顧は

<元来、谷将軍は、私の先輩であって、余程年齢が違う。一体、谷将軍は、文武館で私の父と同役であった。
 即ち谷将軍と故佐々木侯爵、馬場源馬、私の父の千頭馬喜之進とでありました。
この四人の内では、谷将軍が一番若くて、馬場は即ち故馬場辰猪の祖父である。
私は、将軍の養子乙猪や福富孝季や北村長兵衛の弟などと親友であった。>

(谷干城遺稿  明治45年4月)

  この部分を読んで、かねて気になっていたことが、腑に落ちた気がした。
羯南は、福富を新聞日本の恩人として、ずっと感謝の念を忘れなかった、という。それは、福富が羯南を谷干城に紹介したから、と言われている。
  では、福富がなぜ谷に近しかったのか、が元来不明であった。
同じ、土佐出身だったから、というのはベースでわかる。ただその距離感がよくわからなかった。
  この千頭の回想からは、谷の息子、北村長兵衛、そして福富、千頭が親友であったことがわかる。福富は谷乙猪との交友からその父、干城との関係をきづいていったのではなかろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-15 06:52 | トピックス | Comments(0)

陸羯南の書②

e0106376_2318588.jpg陸羯南の書簡について述べたいと思う。

まずは、右の書簡をご覧いただきたい。
陸羯南が、明治28年6月2日に高浜虚子に宛てた書簡である。

内容は、正岡子規が、日清戦争での従軍記者として、中国からの帰途、船中で喀血して、重体となり、神戸病院に緊急入院した際に、入院の世話を高浜虚子に依頼するもので、子規への思いやりと心遣いに満ちているものである。

子規子病気不宜候由、昨日之電報ニより同子母堂ヲ河東氏附添、
赴神為致候。数々之御介抱被成候事、乍蔭不尽堪感謝候。
私も一寸なりと御見舞致度存候へども、他故ありて不得其義。
何卒可然御看護願上候。・・・・・

陸羯南の書簡は、通常は、行書体で、起筆・送筆・終筆と流れるように書かれているが、この書簡については、少し違う。陸羯南の逸る気持ちが、書き出しの「子規」の文字に込められ一気呵成に書き出されている。そして、四行目の「介抱」の文字に、子規に対する気遣いの強い気持ちが込められている。

この後書簡は、子規の入院費のみならず、高浜虚子、河東碧梧桐ら付添い人の旅費・滞在費もすべて、面倒を見ることを書き綴っている。

書簡からも、陸羯南の優しい細やかな心遣いが出来る人間性が垣間見ることが出来る。

ささはら
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by kuga-katsunan | 2007-11-13 23:19 | 研究 | Comments(0)

天心の追悼文

  天心こと岡倉覚三は、御存知のとおり近代日本美術のプロモーターの一人である。
たまたま今年の秋は、その活動場所であった芸大の美術館で<岡倉天心展>が開かれているので覗いてみた。

  http://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2007/tenshin/tenshin_ja.htm

e0106376_23454175.jpg




 内容はその副題である<芸術教育の歩み>が示すように、教育者としての天心像が中心であったが、久し振りに天心の影響をうけた芸術家たちの作品が一堂に会した形になっており、地味ながら見応えのある展覧会となっている。

 天心は、福井藩士だった父親岡倉勘右衛門が貿易商となったことから、幼児期から英語に接しており、東京開成所(のちの官立東京開成学校、現東京大学)入所し、政治学・理財学を学んだ。実はこのときの仲の良い同級生に福富孝季がいたのである。

<ある日、天心は同学の福富孝季と一緒に、牛肉屋の二階で大いに英文学を論じていたら、たまたま、その隣りに、坪内逍遥と高田早苗がやってきて、彼らも盛んに英文学について語るのをきいて、ついに一緒になって語りあったということがあった。
それが縁で、お互いの交友もはじまっている。文字通り、天心はよく食べ、よく学び、よく吸収したというべきである。>

(池田諭  燃えるアジアと日本の原点 1974年  産報)

天心の学生時代については、他の文献に譲るとして、実は天心は、福富の死を悼んで、追悼文も書いていたのである。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-12 23:47 | トピックス | Comments(0)

鹿児島と陸羯南(くがかつなん)

 先般、小生の第二の故郷とも言える鹿児島で、大変にお世話になっ地元鹿児島の郷土雑誌「随筆 かごしま」に以下の文章を寄稿したので、ご参考までにブログにあげておきたい。

先日、青森県弘前市で開かれた「陸羯南生誕百五十年・没後百年の記念イベント」に参加してきた。陸羯南は、弘前出身、明治期の新聞「日本」の社長・ジャーナリストである。

司馬遼太郎も絶賛している(「この国のかたちⅣ「75徳」、「街道をゆく41『北のまほろば』」参照」。彼は、「西洋化万能の世に対し、日本的伝統・文化の擁護を訴え、政治的には国民統合的な立場を取り続け」た、また「秀麗な容貌をもち、情誼に厚く、更には身辺の清らかさをもって、同人たちの敬愛を得ていた」とある。

新聞「日本」には三宅雪嶺(ジャーナリスト・評論家)、志賀重昻(地理学者)、長谷川如是閑(評論家)、杉浦重剛(教育家・思想家)、福本日南〈新聞記者・史論家〉、内藤湖南(東洋史学者)、そして正岡子規も在籍し、同社は人材の巣窟のような新聞社であった、と司馬は書いている。

一見、鹿児島との結びつきはなさそうだが、彼が残した漢詩がある。
                                  がんじょう 
名山 名士ヲ出ダス/此語 久シク相伝フ/試ミニ問フ厳城ノ下/誰カ人天下ノ賢ナルゾ
(名山出名士 此語久相伝 試問厳城下 誰人天下賢)
意味は、「名山の見える土地は素晴らしい士を出すという。このことばが世に行われて久しいが、しかし試みに問うに岩木山の秀峰を見るこの弘前城下から、一体どんな天下の賢が出ているだろうか。」

これは、正に鹿児島のことだと思った。名山とは、桜島(or開門岳・霧島 等)あるいは鹿児島の風土や郷中教育等の制度かもしれない。厳城とは、城山(or鶴丸城 等)あるいは市街地あるいは土地そのもの。そして「天下の賢」については、(上記漢詩上では問い掛けとなっているが)小生が改めて申し上げるまでもなく、「鹿児島からは数多く『天下の賢』が輩出し続けている。」と十分に答えられよう。

今後とも鹿児島や日本国の発展のため、鹿児島からより多くの「天下の賢」が生まれてくることを期待してやまない。

ご参考までに、小生も多少係わっている「陸羯南(くがかつなん)研究」のブログを紹介させていただき結語に代えたい(http://katsunan.exblog.jp/)。                     しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-11-11 23:26 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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