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<   2007年 10月 ( 13 )   > この月の画像一覧

金州の句碑 従軍記者 子規

 金州とは、遼東半島にある中国の旧城の街である。
同じ読みで錦州という地名もありよく間違えるのだが、今は大連市内に併合されている。

 そこに昭和15年、住んでいた日本人篤志家が子規の句碑をたてた。
愛媛県のメールマガジンにその事情が紹介されていた。

<今から100年以上前の明治28(1895)年、新聞「日本」の記者だった正岡子規は、日清戦争の従軍記者として遼東(りょうとう)半島に赴いた。その子規がどんなところに行き、何を見聞きしたのか、彼の日記などをもとに現地を訪れ、その足跡を丹念に調べたのが「子規・遼東半島の33日」の著者池内央(いけうち・ひろし)さん。20歳まで大連で過ごし、帰国後、愛媛の民放で活躍した人である。池内さんは、子規全集を読むまで、子規が遼東半島に行ったことを知らなかったというが、子規の陣中日記に、中学時代、遠足で行った懐かしい金州(きんしゅう)の地名や山の名があるのを発見し、子規を身近に感じて、その足跡をたどることを考えたという。
 「それまで私は、定年退職したらもう一度大連を訪れてみたいと漠然と考えていたんですが、これこそ私の仕事だと思いましたね」
 その思いを実行に移したのは平成7年4月。池内さんにとっては48年ぶりの大連再訪だった。100年という時の流れは現地での調査を困難にしたが、幸い日本語が上手な現地の人を紹介され、日本人中学の同窓会会報にも池内さんの取材活動が掲載されたことから、多くの人が資料を送ってくれた。

 その1つから、昭和15年、天后宮(てんこうぐう)の境内に子規の句碑があったことが分かり、池内さんは、もしそれが出てくれば、この調査をまとめる本の象徴になると感じた。しかし句碑の行方は分からず、2年にわたる執筆を終えた池内さんは、その探索を諦めて平成9年末に出版した。
  ところが翌年、埋められていた子規の句碑が建設工事現場で発見されたという知らせが入り、池内さんはこの句碑の再建に向けて奔走することになった。だが、子規が従軍記者であったことや、

「行く春の酒をたまはる陣屋哉」

という句が中国の人に理解されなかったことから、なかなか許可が下りなかった。
 「この句は、従軍記者とはいえ、食事や宿舎も満足なものを与えられなかった子規が、旧松山藩主久松定謨(ひさまつ・さだこと)から宴に招かれ、感激して詠んだ句で、陣屋というのも金州城内という意味なんです。日記を読んでも、子規が中国人に向けたまなざしは大変優しく、帰国後も新聞に清国文化を紹介して、日中文化の橋渡し役を果たしています」
 池内さんの説得と、加戸愛媛県知事による大連市金州区政府への公式な申し入れによって、平成13年、ようやく新博物館の庭に句碑が再建されることになり、式典には知事や中村松山市長ら300人が出席し、碑は日中友好の絆となった。>

(愛媛県Ehimail  2004年秋)

 上海に駐在しているときに、月に一度は大連に出張する時期があった。大連の駐在員の方にこの子規の句碑の話を聞いたことがあったが、それがついに再建されたことを知り、感慨深かった。

 子規はこの従軍中に鴎外、中村不折に会い、特派員としての職務も果たしたが、病も得て、帰国とともに入院することになる。この中国行が、子規の運命の旅であった。従軍願に署名した羯南の思いはいかばかりであったろう。
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文化愛媛49号

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-10-30 23:10 | トピックス | Comments(0)

陸羯南の書①

陸羯南の書について述べたいと思う。

当時、毎日筆を持って字を書くというのは、生活の一部であり、特に陸羯南にとっては、他の人達よりも格段に筆を持つ時間が多かったと思う。

原稿をはじめ、手紙、それに漢詩に至るまで、たくさんの羯南書になるものが残っている。
今回、弘前を訪れ、9月の1日から2日にわたり、生誕百五十年没後五十年の記念イベントに参加して、またさまざまな展示物を見て、いかにも書は人を著すものである。との感が深まった。

ここで断っておくが、書の概念については、私個人の観点であるということを述べておきたいと思う。

羯南は、ジャーナリストであり書家ではない。言葉による表現は、どこまでも、言葉自身によって表現を貫くものであるが、饒舌家ではなかった羯南にとって書とは、言葉を紙に記す事により、より忠実に伝達するためのものであったと思う。どの書幅や手紙文を見ても、羯南の書く文字からは、実直であり、力強さを感じさせる。

下の写真をごらんいただきたい。羯南が竹間の友である、伊東重の家で、請われて書いた漢詩である。書法からいうと、少しうねうねとうねる和様書法で、固めの筆で書かれたことが伺える。

名山出名士 此語久相伝 試問厳城下 誰人天下賢
(名山 名士ヲ出ダス/此語 久シク相伝フ/試ミニ問フ厳城ノ下/誰カ人天下ノ賢ナルゾ)
意味としては、「名山の見える土地は素晴らしい士を出すという。このことばが世に行われて久しいが、しかし試みに問うに岩木山の秀峰を見るこの弘前城下から一体どんな天下の賢がでたろう。」(司馬遼太郎「北のまほろば」)

書体は行書で、全体に筆圧が強く、親友に頼まれ一気呵成に書かれたことがよくわかる。
書き出しの「名」「伝」「人」の三文字が大きくなっており、気持ちを強く込めて書かれている。
いかにも、豪放磊落で威厳のある筆運びである。また、他の作品と比べると、羯南の文字が大きく、落款もないことから、親友の勧めに、快く応えて清々しく書いたことが伺える。人を愛し、慈しんで生きていた羯南ならではの作品と言える。

現在は、岩木山が望め、弘前の街並みを見下ろす、狼森鷲ノ巣に、羯南を敬慕した故鳴海康仲氏が、この碑を建立し、天下の賢人の輩出を見守っている。

今後も少し間はあくだろうが、羯南の書について、思いつくまま書き綴りたいと思う。  
ささはら


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by kuga-katsunan | 2007-10-28 18:00 | Comments(0)

27歳の子規が遺したもの(その2)



正岡子規は、慶應3年生まれ。
慶應4年が明治元年にあたるから、明治とともに歳をかさね、35歳で若き命を散らした。
俳諧・新聞・エッセイなど、その業績は多岐にわたるが、巷間、その詳細が省みられていないのが、明治27年から編集主任をつとめた新聞「小日本」(しょうにほん)についてである。

「小日本」が発刊された経緯はといえば。

陸羯南の新聞「日本」は、政府に真っ向から物申す硬派の新聞。だから、たび重なる発禁処分を受け、また読者層も当時のインテリ層に限られていた。
そこで、羯南は一計を案じる。姉妹紙を発刊しよう、と。

そうすれば、「日本」が発禁処分をうけた際、姉妹紙に論説を寄稿することができる。
また姉妹紙が売れ行き順調ならば、経営の基盤も安定する。
読者層は「日本」とは対極にある、若年層や婦人を想定した。
こうして、明治27年の紀元節2月11日に、家庭的な紙面づくりを目指した新聞「小日本」が創刊された。

というのが、専門書で流布されている定説である。
しかし。
ちょっと待った! ひと言だけ、付け加えさせて欲しい。

羯南の一計は、あまりにも虫が良すぎはしないか。そりゃ、姉妹紙が成功すればいい。しかし、今日の市場経済的視点からすれば、楽観的すぎる。
よし売れ行き不振が続けば、経営安定どころか、会社自体の存続をおびやかす火ダネになるかも知れないのである。

家庭的な紙面づくりを目指す、その編集主任には、家庭的な視座を持つ仁が適任であるはずだ。
ところが。
編集主任には、妻子も持たぬ27歳の青年が任ぜられた。
                           (この項、つづく)

こんどう
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by kuga-katsunan | 2007-10-26 14:30 | トピックス | Comments(0)

福富臨淵(孝季)のこと

 「一老政治家の回想」(古島一雄著、中央公論社、1951年)の第2章「新聞日本の思い出」の中に、福富臨淵(孝季=たかすえ)のことがでている。該当部分を抜き書きしてみる。

「・・・福富は三十三で死んだが、谷と陸を結びつけた人で、福富と陸を結びつけたのは杉浦だ。将軍として日本新聞に出資したのは谷で、それを捉えて来たのが福富だ。

福富は六尺豊かの大男、白髪赭顔、大酒飲み、ヨーロッパから帰って学校の教授をしていたが、教場で酒を飲んでいるという変った男で、しかも非常な熱情漢であった。

そのくせ謹厳な杉浦とは仲が好い。杉浦はカンカチで芝居を見たことがない。福富は芝居好きなものだから、『君に一つ団十郎の忠臣蔵を見せてやろう、とにかく来てくれ』といって自分は一足先に出懸け、茶屋にいいつけて置いた。

杉浦は例の流儀で茶屋に行って福富に会いたいと面会を申込むと、茶屋では杉浦の様子から見て芝居を見に来たと思わない。『今幕が開いておりますから暫くお待ち下さい』ということだった。

杉浦は幕が開いているから待っていろというのが何のことかわからないが、いわれるままに待っていた。福富の方はせっかく約束しておいたのにどうして来ないと不思議に思いながら、幕が終わったから茶屋に来て見ると、杉浦が四角張って座っておる。

『君どうしたのか』『俺はさっきから待っている』『それはとんでもない行き違いだ、君に見せたい幕はもう済んでしまった』。

忠臣蔵の判官切腹の場だったか大石の城明け渡しの場だったか忘れたが、その一幕を杉浦に見せたかったらしいのだが、杉浦がかしこまって茶屋で待っている間に幕は閉じてしまった。

それっきり杉浦は一生涯芝居を見ずにしまった。杉浦と福富は開成学校時代から一緒だったのだ。

 福富は自殺したが、何の原因かわからない。当時福富は高等師範の教授であったが、造士館(鹿児島)の校長になって行くという一週間前に自殺した。

懇望されたのだろうと思うが、行くのが嫌であったのか、自殺の理由はわからない。非常な熱情漢で酒を飲んでは慷慨してワーワー泣くことがある。

谷がよくいっていた、『俺を泣かせるのは福富だ』と。『臨淵言行録』にも、陸が、世の中で誠というものを感ぜさせるのは福富だといって、

『嗚呼臨淵は至誠の人なり、才能人に優るものあるにあらず、ただ誠の一時を以て同人会社に推重せらる』 と書いている。」

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-10-21 15:42 | Comments(0)

杉浦重剛の「理想内閣表」

 小村寿太郎は、今となっては日露戦争の講和条約であるポーツマス条約の交渉者としての存在が最も歴史上に残っているが、羯南にとっても近しい存在であった。

  戦前書かれた<小村寿太郎>(黒木勇吉、1941年、図書研究社)という浩瀚な評伝がある。その中で、98章に、<友と門下の人々>という小村にとって最も親しい人々が紹介されている。実は一番最初に登場するのが、かの杉浦重剛である。

 <杉浦重剛は、安政2年生まれ、小村と同年である。明治3年、杉浦16歳、膳所藩貢進生としなって東京に来たり、大学南校に入った。その時杉浦の耳朶に最初に響いたのは、すでに上級に在った「秀才小村」という名であった。>

 大学南校は、後の東京帝国大学のこと、明治の初期、日本全国の俊秀たちが集まってきていた。十代の多感の時期に二人は出会い、その後生涯を通じての<肺腑の友>となったのである。

 前述のブログにも書いたように、新聞日本の母体となった杉浦の創設した集団である<乾坤社>の同人にも小村は名をつらねている。

 この本には杉浦がつくった「理想内閣表」というのが紹介されている。

<明治39年のころである。ある人が「理想内閣表」を作って杉浦に見せると、杉浦は即時左のとおり改めた。>

 として以下杉浦が考えた主要閣僚が並ぶのだが、新聞日本に近しい人を挙げてみると


「 総理         近衛篤磨
  ロシア大使     古荘嘉門
  法相         陸 実
  宮相         佐々木高美
  海相         千頭清臣
  外相         小村寿太郎
  逓相         高橋健三
  農相         長谷川芳之助
  台湾総督      頭山 満    」

などがあげてきている。

 どうしても身贔屓になるのは止む得ない。羯南は新聞人の側面がクローズアップされているが、考えてみれば中退したとはいえ法学校の出身であり、その後の論説も、そこで培ったフランス法を中心とする知識が大きいことを考えると、法務大臣、というシナリオもあながちはずれていなくもないと思える。

 羯南にとって、頼れる先輩格である杉浦の親友、小村に頼み事をするエピソードも残っている。

たかぎ


 
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by kuga-katsunan | 2007-10-21 06:55 | トピックス | Comments(0)

27歳の子規が遺したもの(その1)


こんな設定のストーリー、3年に一度は、映画やテレビ、コミックスで繰り返されていないだろうか。

主人公は、入社1年目の女性編集者。会社は硬派の老舗出版社として知られており、政府に論陣をはることで一定の人気をはくしていた。しかし新たな読者層を開拓しようと、新雑誌を創刊することになる。
ただし編集長候補は浮かんでは消え、消えてなくなり。社員食堂でたまたま隣に座った初老のおじさんに、「今度の雑誌のコンセプト、ゆるいっすよね」と口を滑らせたから、さあ大変!
「なかなか元気な娘じゃのぉ」とニコニコ顔の正体は、実は泣く子も黙るオーナー会長だった。さっそく午後の役員会で、会長は、こう宣言した。「次の編集長は、彼女で行く!」。


陸羯南について語る際、新聞「日本」がメインストリームならば、サイドストーリーあるいは明治27年の動向のひとつとしてわずかに触れられるのが、新聞「小日本」である。

先に挙げたたとえ話には、いささか曲解したところもある。だが、まずもって、新聞「小日本」が刊行された経緯、正岡子規が編集主任をまさかれた背景は、現代に置きかえればこんな状況であったことを、ざっくりと念頭に入れていただければ幸である。(この項、つづく)

こんどう
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by kuga-katsunan | 2007-10-18 13:28 | トピックス | Comments(0)

羯南と雪嶺  その故郷

名山 名士を出す
 此の語 久しく相伝ふ
 試みに問う 厳城の下
 誰人か 天下の賢なるぞ
       
          羯南
 
 「名山の見える土地はすばらしい士を出すが、弘前からどんな天下の賢者がでたろうか」。ふるさとへの愛惜の念がにじむこの詩を読むと、羯南の日々の心象風景に常に山があったことが想像できる。
   ×    ×    ×
 金沢は思いのほか山が近い。天気がよいと、白山の峰がくっきりと空に浮かぶ。白山を源流とする手取川などの水系は大地にしみわたって土地を潤し、野菜をはぐくみ、うまい酒を生む。人々は、無意識のうちに白山を意識して暮らしていることに気付く。

 金沢出身の三宅雪嶺も、その幼少時代、朝に夕に白山をのぞみながら日々をおくった。
 「日本人はたいていふるさとの山を持っている」(深田久弥)なら、羯南と雪嶺もまた、ともにふるさとの山を胸に抱いていた。

 ところで、先に、雪嶺の研究者が地元にあまりいないことを指摘した。
 その理由のひとつに、比較的若い時期に、雪嶺が金沢を離れたことが、あるいはあるかもしれない。が、雪嶺の逸話にはふるさとへの思いの強さをうかがわせるエピソードも多い。

 例えば、兼六園の冬の風物詩として知られる「雪つり」を懐かしみ、東京では雪が降らないにもかかわらず好んで家の庭に雪つりをさせていたこと、冬には必ず石川県の味覚である「かぶら寿司」を妻に作らせては賞味していたこと、どちらかというと人には会いたがらない傾向があったが、「金沢から来た」という人には、喜んであったこと、さらには、金沢を訪れると必ず生家跡を訪れ、老松の下で昔をしのんだこと、などである。

 石川県を地盤とする地元の北国新聞にも、「愛郷心と愛県心」「大金沢人と大名古屋人」「北国新聞の任務」など数多くの記事を寄稿した。また、講演もよく行い、北陸人の優秀性を褒め、県民に積極的な生き方を説いたという。

 北国新聞が1934年(昭和9年)に15000号発刊記念として金沢で開いた講演会では「北国人の再検討」と題して雄弁を振るい、地元の人を激励している。

こなか
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by kuga-katsunan | 2007-10-15 20:04 | 紀行 | Comments(0)

富山  内山邸  <日本画報>のこと

 <日本画報>は、かめたに君が、青森近代文学館の部分で紹介してくれているように、新聞日本が、日露戦争旬報の発展型として、明治37年6月からほぼ月二回のペースで発刊していた附録誌である。8ページの構成で、特徴は日露戦争開戦時から実験的に新聞紙面にとりいれた写真中心のグラフ誌であることにある。羯南が新聞日本を手放すまでに40号が発刊された。附録という位置づけであったことから、新聞日本の復刻版には掲載されておらず、国会図書館にも所蔵されていない。青森で現物を拝見してから、一度全体を見てみたい、と思っていた。

 富山のながい先生から、この<日本画報>が、富山県民会館分館である<内山邸>というところに展示されている、と教えて頂き、足を運んだ。

 内山邸は、富山駅から車で10分程度、越中の豪農の館がきれいに保存されている。
<http://www.kenminkaikan.com/uchiyama/uchiyamaindex.htm>

 2003年、内山邸の蔵の整理が行われた時に、この<日本画報>がまとまって、発見された。創刊号は欠落していたが、これも偶然だが同じ富山市内の個人の方のところからも同時期にみつかったことから、創刊号から42号(経営が変った後も発行は続いていたようだ)まで、まとまって展示されていた。

 初期の号は、日露戦時旬報の延長線上にあったので、基本的には日露戦争の進捗を写真的に報道した内容が中心であった。これが、徐々に、多岐多様な方向に展開していったのである。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-10-14 22:33 | 紀行 | Comments(0)

谷干城の賢夫人 久満子氏 #2-明治大臣の夫人より-

 岩崎徂堂著「明治大臣の夫人」から「谷干城夫人」部分のエッセンスを紹介したい。

・1844年生で、父は国沢七郎という高知藩士、家庭は厳格で、女子道一切を修めた。
・谷家に嫁したのは19歳、谷が江戸遊学中に縁談が進められた。谷は最初乗り気でなかったため、夫人のアラを探そうとしたが全く見つからなかったという。

・西南戦争の際、久満子夫人は、谷熊本鎮台司令長官とともに籠城。これを聞いた6人の将軍夫人たちも籠城せざるを得なくなった。
・城内での粗食に耐え、皆を励まし、芹やよめ菜を摘んで「お浸し」とし、これを兵卒に配ったり、3000人余分の足袋を縫う、砂袋を作るなど数々の作業をこなした。

・また、戦況が悪化し、谷司令官が敵弾に倒れた際、「城内から脱出したほうが良い。」との勧めを、「夫の軍服姿を見た上でなければ帰れない。」と言って断り、54日間籠城した。
・このほか籠城中の美談は山をなす程あるという。

・また、質素倹約に努め、これを養育院など慈善事業に寄付。とりわけ素晴らしいのが、養蚕事業を手掛け、この収益を令嬢の財産としたという(・・・この資金が新聞「日本」の支援金にも廻った事になる)。
                          しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-10-14 16:14 | Comments(0)

附録の地図

 愛知の古本屋さんから地図が届いた。
おそるおそる注文したのだが、やはりこれは<新聞日本>の附録であった。

 届いたのは、<青森県管内地図>と書かれた古地図。
四十五万分の一の地図である。
 右上に、明治34年8月15日「日本」第4309号附録と印刷されており、左下には、<東京市神田雉子町34番地日本写真製版所成章堂印刷>とはいっている。この住所は、御存知のとおり新聞日本の住所であり、その中に成章堂も入っていたのである。その印刷会社で写真印刷の研究も進められていた。新聞に写真掲載を初めて導入したのは、実は新聞日本が一番早かった、といわれているが、このテーマはまた別の機会に。
 
 実は、この地図には、裏にも印刷があった。
裏は全面印刷で、<青森県管内重要統計>と表題があり、

    ・面積及町村数
    ・現在戸口
    ・官有地及民有地
    ・民有耕地反別及平均地価
    ・学齢人員
    ・公立小学校
    ・公立諸学校
    ・衆議院議員
    ・県会議員
    ・群会議員
    ・国県市町村税
    ・県収支決算
    ・主要農産物、水産物、工産物
    ・銀行会社

などが掲載されており、面白いのは<北海道出稼人員及金額>という項があることだ。やはり対岸の北海道との交流は深いようで、そこが県全体としては大きなCash Inの要素となっていたようだ。

  一連の数字データのあとに、<神社仏閣>、<名所旧跡>というコラムが続いていくがこの部分が面白い。

たかぎ

 
 
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by kuga-katsunan | 2007-10-13 10:33 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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