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<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその七

  当時の中国をめぐる国際情勢は、19世紀中葉に勃発した西欧列国の中国侵略が、日清戦争の清国の敗北を契機に益々加速されていた時期にあたる。日本は目の前に中国が蚕食されていく有様を見、自国の防衛上、その蚕食に加わるか、中国を<保全>する側に立つかの議論がなされていた。

 この会は、上記の綱領、主意書にあるように、中国を<保全>する側にたった組織であり、それが日本の防衛、発展に繋がる、という立場を明確にしている。(そのために朝鮮の改善も重要事となってくる。)篤麿は、別の場所で<亜細亜のモンロー主義>という発言をしているが、このモンロー主義が果たして誰にとって利のあるモンロー主義であったのかがその後の日中関係に影をおとしていくことになった。(早期の日独及び日露開戦の提言にも発展していく。)

 この会は、結局その後の日中関係の中で、日中の和解を探る人材育成の役割と、侵略の先兵の役割というアンビバレントな性格を併せ持つ組織となっていったが、その創立時点での理想は、日本の安全保障とそれをバックグラウンドとして支えるアジア、とりわけ中国における平和確立という高度な目標をもっていた。それが北清事変、日露戦争、辛亥革命を経ることによって、満州国設立による日本の中国本土における利権の確保に展開していったことが多くの悲劇を生んでいくことになってしまった。

  その後、8日に羯南と三山は、<東亜同文会>の件で篤麿を訪問、10日・23日には再度東亜同文会の会合があり、会の将来像などにつき協議している。特に23日の会合では雑誌発行の話題も出ており、これが12月の<東亜時論>の発行に結実している。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-09-30 13:25 | 研究 | Comments(0)

羯南と雪嶺

 羯南の盟友、三宅雪嶺の故郷、金沢支部のこなか君からのコラムです。

 日本における近代ジャーナリズムの先駆者、陸羯南(くが・かつなん)生誕から今年で150年、没後100年になる。「多いというほどの研究者をその故郷に持っていない」(司馬遼太郎)とされてきたが、出身地の青森県弘前市では今月2日の命日を中心に多くの記念行事や事業が行われ関心を集めた。

 羯南は、明治22年に新聞「日本」を創刊。発行停止処分を何度も受けながら屈せず活動し、「明治時代きっての偉材の一人」(同)といわれる。また、そこに集った言論人たちが活動の場を広げ、日本のジャーナリズムの基礎を築いたという意味での評価も高い。

 金沢出身の三宅雪嶺もその中の一人だ。雪嶺は雑誌「日本人」などで日本人が世界にどう寄与すべきか訴え、「日本」でも論説などを執筆した。後には同紙を引き継ぎ、雑誌「日本及び日本人」を創刊している。金沢ふるさと偉人館を訪ねると横顔などが分かる。

 ただ、雪嶺も「地元では研究者は多くなく、研究も十分とはいえない」(関係者)という。一因は雪嶺にまつわる「ナショナリズム」の響きゆえとも聞く。

 しかし、ナショナリズムといっても当時のいわば健全なそれでもある。最近は「改めて光を当てる意義」を強調する声も強い。

 折しも偉人館は今春から「日本及び日本人」執筆者ら関係者をリスト化、人脈から雪嶺を浮き彫りにする試みをスタートさせた。

 3年後は雪嶺生誕からも150年。雪嶺研究に、地元ならではの一石を期待したい。

こなか
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by kuga-katsunan | 2007-09-26 23:25 | トピックス | Comments(0)

新聞日本と囲碁⑤ 懸賞手合いの連載と突然の休刊

新聞日本末期の明治39年5月には、前述した「奨励会」若手棋士による「5人勝ち越し懸賞手合い」の連載を開始した。

対局は“女将軍”都筑米子二段と方円社の若手ホープ木村廣造初段。

講評は中川千治。このとき六段のプロ棋士。翌年田村保寿(七段、のちの二一世本因坊秀哉)との10番碁が雑誌「日本及び日本人」に掲載されてる。

1局の連載に2週間程度をかけるこれまでにない力の入れようであり、最後の5月20日にはほぼした2段をぶち抜きで、棋譜と中川六段の解説に費やしている。

たぶん(としか言いようがないが)、自社懸賞による手合いなので回収の必要上、派手にあつかったのであろう。

結果は中盤まで優位に進めていた黒番の木村初段が最後に自らの悪手で投了となるのだが、解説は極めて丁寧で今の新聞囲碁欄に比べてもそん色がない。そして本編の記事にはふり仮名をふらないので有名な新聞日本にあって、この囲碁欄にはすべてにカナがふってあるなど、相当力が入っていたのがわかる。

ちなみに解説の後には「次回、勝者と挑戦者(伊藤キノ子初段)の女流対決を次号よりの紙上に見よ」と、かなり思わせぶりに締めている。

その女流対決は10日後の5月30日に始まり6月3日までの連載となった。結果は持碁(引き分け)となり、解説の最後には「あくまで決着をつけるべく再対局することになったが、方円社にも自社懸賞対局があるのでそちらを明日から連載する」としている。

この方円社披露会での懸賞碁はなお豪華で、四段同士の一戦を方円社社長が解説するというものであった。実はこれも持碁となったため、新聞日本側が再戦を促し、読者に「かつ目して之を待てよ」と結んでいる。

しかし6月20日、先の女流再対決を掲載し始めたところで新聞日本自体が廃刊。方円社披露会での再戦は幻の一戦となってしまった。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-23 12:48 | 研究 | Comments(0)

ウェブスターの辞書

 古島一雄は新聞日本の最大の語り部だと思うが、其の中でも<一老政治家の回想>(中央公論社、昭和26年5月)にある<「新聞日本」の思い出>はよくまとまっている。
 
 改めて読みかえしてみると、前から気になっていたウェブスターの辞書の話が出ていた。

「さて一年半で帰ってくると「日本」は左前になっている。」

 古島は、福本日南の推薦で、日清戦争後に、九州日報の主筆となって福岡に行っていた。

「それは何かというと、澤村則辰が調子にのってウェブスターの辞書を凸版で翻刻することを思いたった。」

 澤村は、谷干城の家令で、それまで杉浦重剛の友達で、札幌農学校出身の宮崎道正が経営をみていたのに交替して、担当することになった人物である。

 「酒は馬鹿に飲んでヨサコイ節なんか歌っている豪傑だ。」

 ヨサコイ節というからには、澤村も土佐人なのであろう。

「編集局の奴はこれを脅迫してみな月給の前借りだ。
澤村は豪傑だから「うむ、よし」なんて言うが、ナーニ金なんぞありっこはない。」

 新聞日本の和気藹々の雰囲気がよく出ているが、学者の次に豪傑が経営を担っているとは新聞日本も、よくよくついてない新聞だと思う。

 「これは大事業であるが、疎漏にもウェブスターの出版元から許諾も何も得てなかったので、抗議が来ると云う次第で、陸も弱ってしまい」

 これは流石に明治中期の日本といえども、海賊天国、というわけにはいかなかったのであろう。

 「陸の親戚の者で、かねて日本新聞にいたこともあり、メルボルンの書記生から当時日本銀行にいた、赤石定蔵という男に会計を委していた。」

 赤石は羯南の長女の夫である東海勇蔵の兄であり、羯南にとっては、最後の命綱であったのであろう。本業の新聞事業以外の出版事業での負債を背負いこみ、資金繰りは益々苦しくなっていったものと思われる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-09-20 22:58 | トピックス | Comments(0)

【管理人より】タイトルを手直ししました

タイトルを手直ししました。

陸羯南没後100年の命日に向けて、各地で様々な催しが開かれたり、新たな著書が出るにつけ、Googleなどでの検索結果が下のほうに落ちてきました。

そこで、表題そのものに司馬さんと青木先生の名前をお借りしました。
この結果「陸羯南 司馬遼太郎」「陸羯南 青木彰」「司馬遼太郎 青木彰」などの検索ワードで上位に出るようになりました。
(「陸羯南」単独ではまだまだ下のほうですが…)

またWikipediaの「陸羯南」の欄に関連リンクとして登録しました。

執筆陣による投稿も150回を超え(ほとんどは主筆によるものですが)このブログに1人でも多くの方に関心を寄せてもらい、仲間を作りたいとの思いからで、管理人権限にてやらせてもらいました。

他にもアイディアをお持ちのメンバーは管理人までお知らせ下さい。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 23:17 | その他 | Comments(0)

山田兄弟と羯南

 弘前に一時期まで台湾の国民党の代表が日本へ赴任すると必ず訪れていたいう寺があるという。新寺町の貞昌寺である。

 そこには山田良政、純三郎の兄弟の碑がある。その碑は孫文が文章をつくり、犬養毅が書を書いている。山田良政は辛亥革命の端緒となった1900年の恵州起義で亡くなり、一連の辛亥革命に至る義挙に参加した日本人の中で最初の犠牲者であった。弟の純三郎は兄の遺志を継いで、中国にわたり孫文の片腕の一人として活躍、以降1947年に上海居留民とともに日本へ帰るまで、常に日中関係の好転のために腐心した。彼らの生家は、弘前の在府町、まさに羯南の生家の向いであった。

 良政は、叔父の菊池九郎の経営する東奥義塾に学び、さらに青森師範に学んだ。しかしこの学校で1888年賄征伐の騒動がおこり、彼は友人をかばい退学処分となってしまう。このくだりは、羯南の司法省法学校退校の様子と酷似している。当時各地の学校で大なり小なり似たような事件がおこり、同様のめにあった前途有為の青年たちが少なからずいた、ということだろうか。学校を追われた良政は幼い時から親しんだ羯南を頼って上京した、と言われている。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 21:12 | トピックス | Comments(0)

谷干城のみた明治

 新聞「日本」最大のパトロン「谷干城」を「高知市立自由民権記念館 平成9年度(1997年度)特別展図録 谷干城のみた明治」の中から拾い読みしてみる。

 谷家の系図に始まり、以下のような項目に分かれている。
干城と戦争(戊辰戦争、台湾出兵、西南戦争)
干城と政治(農商務大臣時代の外遊、条約改正反対、貴族院議員、日露戦争反対等)

干城と思想(儒教・漢学、国粋主義 ← ここに新聞「日本」創刊号や東京電報社主・陸實(羯南)と署名のある五百円の受取書の写真あり。)

干城と教育(学習院・華族女学校等):明治天皇より2度文部大臣に推挙されている。
干城と土佐(誕生と死等)
干城と家(家族等)

 そして図録の中で、宮内庁書陵部編修課の小林和幸主任研究官は、「谷干城における『立憲』思想とその実践」と題して以下のことを述べている。

「・・・谷が最も非難するのは、国家を考慮せず『自己の野心に駆られて』政権に就こうとする者たちで・・・国家財政を抑え国民負担を軽減すること・・・『商工基礎の不確実』という認識・・・列強との戦争は日本の実力ではさけねばならない」とし、

日英同盟を批判、日露戦争についてもロシアとの協調主義を主張した。

「また谷の議会活動は、年来の持論である『王道論』に根ざした愛民的色彩も帯びており、日清戦争後の地租増税に反対する民力休養論や『足尾鉱毒事件』に対して政府の保護を求める活動も議会を中心に行われ・・・

『王道論』と本質的に一致する『真の民権』(言論自由、政費節減、自治の確立)による『真正の立憲政治』を確立させ『真政党』の成立も促すということに全精力を費やし・・・何より貴族院の活動を活性化させ・・・二院制議会を実効的に機能させることに大きな役割を持った・・・」。

 また、同じ図録の中で、高知大学の福地惇教授は、「立憲政治と谷干城」と題して以下のことを述べている。
 
「・・・谷は、同氏らと計らい言論活動を展開、二十三年の議会政治開始に備えた。新聞『日本』の発刊は谷の支援に負うところが大きかった。主筆陸羯南の欧化主義批判、日本主義による鋭い政治評論は当時の知識青年層に大きな影響を与えた。谷は在野政治勢力の民権系からも反民権系からもその言動を期待された。・・・天皇は谷が枢密顧問官に就任するよう希望されたが谷は辞退した。
彼の次の目標は議会政治の場における正々堂々の政治活動だったからである。事実、谷は明治二十三年七月の最初の貴族院議員選挙に子爵として高得票で当選以降、没年まで当選し続け、貴族院で影響力ある特異な論客として政界に重みを持続した。その政治活動の基軸は『王政維新体制』の確立であった。谷の藩閥情実政治批判、地租軽減論、勤倹尚武主義の国防論は、政局の要所で異彩を放った。」                                           しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 16:34 | その他 | Comments(0)

新聞日本と囲碁④ 江戸打碁集の紹介

翌明治38年3月26日からは「歴代棋鑑石立集」として江戸時代の棋譜の連載を開始。
編集は定石解説に続いて井上保申。
直前の「囲碁定石解」が手抜きだったのは、こちらの準備で忙しかったためか。

掲載スペースはほぼ広告で埋め尽くされた最終6面の一番下。

第一回目の棋譜は正保元年(1644年)のもの。「於東城」とあるから江戸城でのお城碁である。
正保年間は三代将軍家光の時代であり、この頃になると前述の通り、4つの家元が幕府の庇護の下に城内にて競い合う構図が出来上がっていた。

対戦は2代目本因坊算悦(八段)と初代安井算知(当時七段)で、結果は安井が先番で9目勝ち。

序盤の布石を見ると、小目へのケイマ掛りに1間もしくは2間バサミすると、手を抜いて他に廻っているが、これについて井上は「配石の意味に至っては手事(局地戦の急を要すること)を後にしもっぱら石割(全体の布石)を主とせしがごとし」と解説している。

紙面の関係からか130手までで終わり、これは1回で終わり。
翌日は5年後の慶安2年のやはり算悦と算知の対局を紹介している。

この「歴代棋鑑石立集」。途中で「歴代名家打碁集」と題名を変え、途中あったりなかったりを繰り返しながら翌年明治39年4月24日、連載191回まで続く。

しかし題名が変わってからは井上の解説もなくなり、単なる棋譜の紹介に終わっている。やはり井上の解説(特に序盤のせめぎあい)がないと読者としてはつまらない。

この後の囲碁欄で井上の名前はなく、新聞日本としての江戸打碁紹介はこれが最後となった。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 15:52 | 研究 | Comments(0)

谷干城への書簡(3)

 「陸羯南全集第10巻」(書簡部分)より拾い読みを続ける(解説は有山輝雄著「陸羯南」他による)。

 明治33年、北清事変(義和団事件)が終わった後、ロシアは大軍を満州に留め、事実上軍事占領した。そしてロシアは、露清密約を結び、南下の気配を示していた。
 
 陸羯南の基本的考え方は、「列国を満州問題に巻き込み、列国の『均衡』を作りだすという力の国際政治論であった」。更に、満州中立化論、開放論を打ち出した。これは、近衛篤麿と見解を一にするものであった。

 そして、「支那保全」という限定的目的の国民同盟会を、陸羯南はいったん解散し、より強力な政治結社結成を指向していった。

 そのような中、近衛篤麿に説得されて、近衛の清国・朝鮮視察旅行に同行することとなった。
 
 明治34年8月末日(陸羯南⇒谷干城宛書簡)
 「・・・小生客(7)月十二日東京発近衛公に随行北京へ参候而、往復五十日振昨三十日神戸へ帰著致候。・・・実は近衛公より同行を求められ候へども、出無性之身且つ社用も忙しき折柄一応辞退致候処、更に再考を求め来り、小生之外同行に適当者見出兼候など申候故、社中へ
相談之上遂に同行決定致候次第御承知被下度候。

北京、天津は無論山海関に迄参り夫れより海上牛荘に行、芝罘へ参り、更に旅順、大連へ向ひ、再び芝罘へ引返し、夫より仁川へ向ひ、京城に行き、更に仁川より木浦、馬山浦を見て釜山へ参り、海路直行神戸へ参候。・・・」

 陸羯南はここで、現地での日本人と欧州人の活動を比較している。即ち、欧州人が、実益があれば、清韓の官民に対し、「正不正を選ばず」という態度で接しているのに対し、日本人は、「殆ど同等国に対するが如く、不正当不順所を避くる風」と評価している。「文明国」との競争に遅れを切歯扼腕し、「東洋」を振り切れない彼自身の姿でもある。 と有山先生は述べておられる。

 その後、陸羯南も賛意を示す日英同盟が結ばれる(但し、谷干城は反対)。

                                   しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-09-17 11:46 | その他 | Comments(0)

新聞日本と囲碁③ 囲碁欄の登場

さて新聞日本における囲碁欄である。

最初に登場したのは明治37年8月15日。
それまで6ページ刷りだったのを8ページに増刷。別に囲碁のためではなく、旅順付近の地図を添付したためだと1面アタマで告知している。
当時の紙面は既に戦争一色。冒頭の記事は「我が艦隊の雄風」とある

囲碁欄は付録がなければ最後に当たる6ページの下段。「囲碁定石解」として、井上保申が連載を開始。
井上は明治期のプロ棋士で、「囲碁定石模範」「置碁必勝石立集」「大日本囲碁解釈」「明治新式相先石立俗解集」などの著書がある。ネットを検索する限りでは五段までいったらしい。プロと言ってもトーナメントより、解説や著書で有名な棋士は何人も居るが、井上は当時から筆の立つ棋士だったと見られる。

「囲碁定石解」初回で井上は自らを「愚老」と言い、「古来より名人上手が苦労して積み上げてきた碁について自分が説明するなどとは失敬なことだ」としながらも「その人たちが作ってきた定石を詳細に研究したい」と連載の動機を語っている。

そして置碁における定石と互先における定石をそれぞれ48手紹介するとしている。

翌日、置碁での小ゲイマ掛り大ゲイマ受け、三三入りの定石解説を開始。
一つの定石に変化を加えて、いくつものパターンを紹介し数回にわたって連載をしている。

この連載。好評であったのか、最終面の最終コーナーとして定着し、翌明治38年1月20日の第156回まで続く。
さらに翌日からは「付録囲碁定石解」として同年3月25日まで64回の定石解説が続くのであるが、スペースの都合(人気にかげり?)か本人がやる気をなくしたのか、徐々に解説文が短くなり、最終日はたった2行となっていた。

上記囲碁欄は開始当初4面の雑報やら商品市況欄の下段に位置していたが、後半は科学記事や連載小説など、いわゆる学芸面に写っており、短い期間での試行錯誤がうかがわれる。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-09-16 16:58 | 研究 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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