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<   2007年 08月 ( 19 )   > この月の画像一覧

青森新聞 編集長時代

 東京から弘前に戻った羯南は、中田姓から陸姓になる。

 戸主になると徴兵から免除されるということから、徴兵のがれ、とする論もあるが、真実は闇の中である。

 陸という姓が本当にあったのか、それとも羯南の好きな中国の詩人・陸遊から創作したのか、
これもはっきりしない、ただこの姓が珍しいことはたしかである。
長男の乾一が夭逝し、養子の四郎のところにも子供がなかったために、今は陸姓を名乗る子孫は残っていない。
 
 やがて羯南は青森新聞に職をえる。明治12年の後半だと思われる。
青森は、明治になって開けた街で、古都弘前から居を移した羯南には落ち着かない土地であったろう。昔、日本全国で唯一、村にできた国立大学に通ったことを思い出す。

 羯南は、親戚の中田敬太郎にあてた手紙で

<当地は深雪にて且つ厳寒其上無聊、韓退之が潮州に貶せられし時の思あり。
毎日書と酒とに因て慰懐罷在候。>
(明治13年1月25日)

と所感を語っている。

 青森新聞は、明治12年3月6日の創刊。青森で初めての新聞、北斗新聞の後を引き継いだ形であり、発行所は、青森県庁の廓内、今の県庁と新庁舎の間くらいの位置と言われている。
印刷所の真文舎が発行しており、印刷業と新聞業が兼営されていたようだ。

 当時のいずこの新聞も同じだったように、印刷で収益をあげ、新聞の赤字を埋める、という構造だったようで、結局16年には廃刊、その後は、青森新報、そして明治21年12月に創刊された東奥日報に引き継がれていく。

 <東奥日報百年史>によれば、東奥日報の創刊者は、菊池九郎であり、東奥義塾のメンバーが中心となった青森の自由民権運動の運動母体<共同会>のメンバーが思想的バックボーンになっていた。そこには、羯南も、本多庸一も参加していた。

 青森新聞で編集長稼業の傍ら、共同会に拠って、政治活動の一端にも加わっていたのだろう。その意味で、青森時代は、羯南にとって、再び来るべき東京での活動のための<祭りの準備>の場であったのかもしれない。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-08-31 00:03 | 研究 | Comments(0)

谷干城遺稿より(書簡ー2)

 引き続き 、「谷干城遺稿 三」〈書簡部分)および「陸羯南全集第10巻」より拾い読みを続ける(解説は有山輝雄著「陸羯南」、他による)。

  明治29年9月26日(谷干城⇒陸羯南宛書簡)
 「・・・伊藤〈内閣)が八方美人的に引受たる戦後経営之不始末と板垣が無学無識之内務方針は如何之愧態を呈する・・・大隈(外相)も入閣(松隈内閣)に成り候様子・・・大隈は軍備を少縮せずとの意見にて・・・軍人等の激昂を恐れ彼が一時の姑息策にて野夫は決而同表する不能と相考候。・・・一時の椅子に恋々として増税又は外債等を為さば、敗北の上に後世へ汚名を残すこと必然と被存候。新政府が本会議に人望を博すべきは軍備不動に非ず左の件にあり。
一 新聞条例改正(発行停止を廃する)
一 集会政社法改正
その他自由党等の従来唱へ来たりしものにして・・・一切断然と決行し・・真正の立憲政体主とするものなる事知ら令めれば必ず勝算を得ん。・・・増税は第一の禁物・・・軍人を恐れて政治の施行敏捷なら令むる能はざるは、唐の藩鎮の兵の如く、東ローマの末世の如く、君ありて君の実なく、是亡国の徴なり。・・・」

 上記のように、谷も、「三国干渉」⇒「臥薪嘗胆」*⇒「軍備拡張」や地租増徴に反対であったようだが、陸羯南も共同歩調を取った。但し、陸羯南は、ただ反対キャンペーンを展開しただけでなく、賛成論者にも紙面を提供し、新聞「日本」を論争の場にした。陸羯南にとって、「二つの対立的意見の『均衡』の喪失」こそが、最悪の病理現象であったようだ。

  *この言葉は、新聞「日本」紙上で三宅雪嶺が最初に使ったが、雪嶺は
   ロシアへの敵愾心を煽る意味では使っていない、と有山先生は述べ
   ている。

                                しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-08-29 01:09 | その他 | Comments(0)

新聞日本と囲碁② 明治の囲碁界と新聞

さて新聞日本における囲碁欄について触れる前にこんどは当時の囲碁界の背景と新聞について。

江戸時代、幕府に守られてきた囲碁界は維新とともに基盤を失い、家元は屋敷を返上。家禄も奉還となった。パトロンあっての家元。宗家の一人本因坊秀和は倉庫暮らししていたこともあったという。
そうした中、明治11年(1878年)郵便報知に初めて棋譜が掲載された。当時どのような棋譜が掲載されたか不明だが、家元制度崩壊の中、多分江戸時代の打碁集あたりから引っ張ってきたのではないか。
翌明治12年、村瀬秀甫が「方円社」を結成。囲碁雑誌を発行したり級位制を取り入れるなど新しい試みで普及を試みた。
これに対抗して本因坊秀栄は明治25年、「囲碁奨励会」を発足。このころになると政財界がようやく囲碁の援助に乗り出した。あらたなパトロンというわけだ。

方円社のパトロンは井上馨、後藤象二郎、岩崎弥太郎、渋沢栄一。秀栄のパトロンには大久保利通、犬養毅、頭山満らがつき、有形無形の援助を行った。
ちなみに前述の「茶話」によれば犬養は青厓とちょうど同じ力だったそうだ。つまり当時の知識人の趣味として囲碁が定着してきたことがわかる。

これに呼応するように各新聞でも競って囲碁欄が設けられ、やがて新聞碁が囲碁界をリードする時期がやってくる。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-08-28 08:30 | 研究 | Comments(0)

新聞日本と囲碁① 下手の横好き

新聞日本と囲碁について語るにはやはり陸羯南の碁好きに触れておく必要があるだろう。

明治維新後の名士といわれた人々の逸話を集めた「茶話」という本によれば、陸羯南はたいそうな碁好きで司法省法学校時代から打っていたという。ただしょっちゅう打っている割にはまったく上達せず、漢詩人の国分青厓には井目(9子)置いて100目以上負けるそうだ。
これは「相当弱い」を通り越して初心者からまったく抜け出てない状況だ。

自分はアマチュア4段の免状を持っている(今はまったく錆付いてしまったが)。学生免状という裏技で真価は怪しいものだが、それでも学生時代は新宿の碁会所で県代表クラスに3~4子で打っていた。
俗に1子10目と言われる。井目なら90目のハンディだ。そのうえ100目勝つのはたとえ相手が初心者でも大変なことだ。初心者相手では4段も6段も同じ。むしろ強豪といわれる碁打ちのほうが指導碁では筋の悪い手を打たないのでそんな大勝ちすることはない。陸羯南がいかに弱かったかがわかる。

さらに面白いのはその先だ。
同書によると国分青厓は仲間内では同じ漢詩人の桂胡村にはかなわないもののそこそこの打ち手であったらしい。その青厓が胡村を打っていると羯南が頼みもしないのに助言してくるとのこと。
助言というより横から単に口出ししているという感じか。
「岡目八目」は囲碁から出た言葉で、観戦していると8目も得する手も見えてくる。つまり当事者より横にいる人間のほうがいい手が見えるという意味。羯南も横で見ているといい手が見えてくる自分に酔っていたのだろうか。それとも生来の口出し癖であったのか。

海外から帰国した福本日南が羯南と打つと少しも上達していないので「君はもう碁は止めたら」というと、「碁は止めてもいいが、助言は止めぬ」といったとか。
やはり人の所業に一言口出ししたくなるのは羯南の性分であったらしい。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-08-26 21:42 | 研究 | Comments(0)

青森へ

  司法省法学校を放校になった羯南は、一緒に放校になった原敬が報知新聞、国分青厓が朝野新聞に就職したにも拘わらず、東京での就職がうまくいかず、青森に帰ることになった。
明治十二年四月頃のようである。

その時の様子を、一緒に放校になった加藤拓川が、羯南が亡くなった時に朝日新聞のインタビューに答えて語っている。
 <遂に陸は失望してヤツト両人の書籍や衣類を売り、僅かの旅費を作って北海道に出かけた>
 この北海道に、というのは拓川の思い違いで、北海道に行くのは、青森での仕事の後のことである。

<其時僕は大風雨を侵して千住まで徒歩して陸を送り、大橋の上で手を握って別れた。両人の嚢中は一寸ソコラに腰掛けて一杯飲むだけの余裕がなかったのでした。>

 糟糠の妻は堂より出ださず、というが、逆境をともにした友も得難い。
羯南があれだけ子規の面倒をみたのも、やはりこの拓川の甥であるから、ということが大きいのではないだろうか。

<此時造った長編は羯南一代の傑作とも思われたが草稿を留めなかったから忘れました>
(明治40年9月5日ー7日  朝日新聞)

 この状況でも、漢詩をつくる、というのは今の時代感覚からいうと本当に余裕を感じるが、時の流れがやはりゆるやかだったのであろうか。
 時代は少し遡り過ぎるかもしれないが大宰府に流される菅公の詩が思い出される。

  <駅長勿驚時変改
 
    一栄一落是春秋>

 因みに、この拓川に対するインタビューは、池辺吉太郎こと三山が行っている。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-08-26 21:39 | トピックス | Comments(0)

谷干城への書簡(2)

 「陸羯南全集第10巻」(書簡部分)より拾い読みを続ける(解説は有山輝雄著「陸羯南」他による)。

 明治28年4月、日清戦争で日本が勝利し、下関条約が調印された。しかし、独・仏・露国による三国干渉があり、日本は遼東半島の返還に応じる。陸羯南は、遼東半島の割譲自体が愚策であったと見ていた。
 
 明治28年5月6日(陸羯南⇒谷干城宛書簡)
 「・・・(伊藤)総理始め各大臣共議員等には一切面会謝絶之有様なれば、到底忠告など容るべき余隙無之、大に失望致候。・・・
三国同盟之干渉は専ら排英主義に在りて、日本に仇とするに非ること。
英国は我と同盟する考えにあらず、又我も彼と同盟して恃むべきに非ること。
右之二ヶ条は慥に議員等にも吹込み、又当局者へも間接に聞かせ置き申候。特に神鞭(友常)を以て松方に言はしめたるときは、尤も効ありし様に相見へ申候・・・」

 有山先生によれば、陸羯南は、東アジア情勢をロシアと英国との対立を軸として理解し、三国干渉を「排英主義」の表れと判断、干渉への反発から日英同盟台頭論を警戒したとされている。

 また、陸羯南は、政府が、東アジアでの国際力学を読み誤り、安易な講和条約を結び、かえって日本の「面目」を汚したと批判したとされている。

 しかし、こののち、対露関係の緊張や、南進が困難となる等、陸羯南の「北守南進」論は有効性を失い、日英同盟、日露戦争へと向かっていく。                      しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-08-24 00:25 | その他 | Comments(0)

新聞「日本」の発行部数低迷要因

 有山輝雄先生の著書(「徳富蘇峰と国民新聞」及び「陸羯南」)から新聞「日本」の発行部数の伸び悩み要因を探ってみる。

 新聞「日本」の発行部数は、明治26年(1893年)6,510千部/年(シェア6.1%)⇒明治32年(1899年)4,205千部/年(シェア2.1%)となっている。主要紙の順位も第5位から第11位(最下位)と低迷している。

 この要因を東京の新聞購読料・広告料及び頁数から探ってみると、下表のとおりである。

 即ち、新聞「日本」の購読料は、高級紙的性格を有する「時事新報」に次いで高いグループに属していた。広告料も、「東京朝日」、「万朝報」とともに最も高い。

 一方で、新聞「日本」の頁数は、最も多い時事新報の半分であって、万朝報に次いで少ない。

 また、明治30年に改革を断行した「国民新聞」と新聞「日本」のみ、知識水準の高い読者層に限定しようと、振り仮名を付けていない。

 因みに、大衆化路線を指向していた「万朝報」の同期間の発行部数は、9,077千部/年(シェア8.6%)⇒34,995千部/年(シェア17.3%)とトップに躍り出ている。

 今風にいえば、CS(顧客満足度)指向ということであろうか? 


東京新聞購読料・広告料(1897年9月現在)
                    〈金額単位:銭)
      購読料 広告料 頁数
日   本  40   25   6
時事新報  50   20  12
国民新聞  40   15   8
東京日日  40   20   8
毎日新聞  40   20   8
報知新聞  35   18   6
読売新聞  35   17   6
東京朝日  33   25   8
万 朝 報  25   25   4


 なお、拡販戦略にとって重要な新聞売捌所の争奪戦、地方への拡販でも有効な手を打てず、一方、他紙がコスト削減の観点から実施した月曜休刊については、「無休刊体制維持」を宣言している(月曜日の「日本」は他紙と同様火曜日に配達されたため一日送れとなった)。月曜休刊を行わない理由は、「社の経済に利する所あり 然れども新聞紙は単純の商品に非ず」ということだそうだ。                      しぶさわ

 
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by kuga-katsunan | 2007-08-19 01:35 | その他 | Comments(0)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその六

 次に出てくるのは、将に二つの会の合併の当日である、11月2日の日記である。

<資料7  日記  明治31年11月2日>
一 午後一時、東亜同文会大会に付萬世倶楽部に赴く。出席三十名計、一同よりの依頼にて余座長席に就き、東亜、同文両会合併顛末報告、規則、趣意書、方針、会務等に付相談あり。方針は世に発表するものとすれば穏当ならぬ処ありとて、池辺吉太郎、三宅雄二郎、田鍋安之助を委員として修正せしめ、夫より会長には余を推すとの事、余は適任者あるまで仮りに承諾する旨を答へ、幹事は陸実、池辺吉太郎、田鍋安之助、佐藤宏、井上雄二、と決し、修正方針案は全部可決せり。五時帰邸。

  篤麿は会長に推され、適任者あるまで暫定として承諾をし、会の<方針>は、池辺吉太郎(三山)、三宅雄二郎(雪嶺)、田鍋安之助らが修正することにし、実務を行う幹事は羯南、三山、田鍋、佐藤宏、井上雅二と決した。

   <東亜同文会の綱領と主意書>

△ 綱領

一、支那を保全す。
一、支那および朝鮮の改善を助成す。
一、支那および朝鮮の時事を討究し実行を期す。
一、国論を喚起す。

△ 主意書

日清両国の交や久し。文化相通じ風教相同じ。情を以てすれば即ち兄弟の親あり、勢を以てすれば即ち唇歯の形あり。其の玉帛往来古より渝らざるもの天理の公に出で、人道の正に発するに因れり。豈に彼の環輿列国の朝婚夕冠互に相攘奪する者と同じからんや、何ぞ図らん、前年旻天弔せず、兄弟牆に鬩ぎ、而して列国隙に乗じ時局日に難なり。嗚呼、愆を忘れ嫌を棄て、外その侮を禦ぐもの豈に今日の急に非ずや。このときに当りて、上は即ち両国政府須らく公を執り、礼を尚び、益々邦交を固うすべく、下は即ち両国商民須らく信を守り、利を共にし、ますます隣諠を善くすべく、両国士大夫即ち中流の砥柱となり、須らく相交るに誠を以てし、大道を講明し、以て上を助け下を律し、同じく盛強を致すべきなり。是れ我が東亜同文会を設くる所以なり。請う両国士大夫同じく此の洲に生れ、同じく此の時に志す者、此の意を賛し此の会に入り、以て力をここに戮せよ。
      明治三十一年十一月

 長い歴史をもつ日中両国の関係は、天理に従い、正しい人道に立って打ち建てられたもので、西欧列国の利害によって結ばれ、朝に結び夕に離れる軽薄なものとは本質的に異なっている。然るに思いもかけず不幸にも兄弟が相戦うことになり、それに乗じて列国が野望を逞うすることになった。いまや過去の過を忘れ、恨を捨てて、共に協力して外の侮を防ぐべき重大な時期である。すなわち上にあっては両国政府は邦交を固くし、下にあっては人民が信義を守り、利害を共にし、隣人としての友誼を厚くすべきである。その間にあって両国の知識人指導者たちは独立不撓、節を曲げない精神的支柱となって、上政府間の交流を助け、下人民間の友好を指導して両国の共に盛強をはかるべきである、その任を果すのがわが東亜同文会設立の主旨であるというのである。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-08-18 23:08 | 研究 | Comments(0)

谷干城への書簡(1)

 「陸羯南全集第10巻」(書簡部分)より拾い読みをする(解説は有山輝雄著「陸羯南」他による)。

 以下の書簡は、日清戦争の大勢が決した中、谷干城を通じ、伊藤博文首相(第二次伊藤内閣)へ陸羯南が働きかけた書簡の抜粋である。

 明治27年11月19日(陸羯南⇒谷干城宛書簡)
「・・・台湾占領之事は閣下当初より之御持論に御座候処・・・何とか政府を促し・・・幸に伊伯来京、諸人之意見を聴くとて滞京中に付き・・・伊伯迄御説き被下間敷哉・・・小生大要別紙に愚見相認候。・・・尤も英と睨み合い之一点は伊公尤も嫌う所と存候故、軍人に対する方策とせば同意も可有之歟と存候・・・

  台湾占取の急を説く

・・・今日の計は一方に支那内地の侵入を進めつつ、他の一方には台湾を占領して、暗に英と睨み合うこと最も得策ならん。斯くの如くなれば露仏米は必ず陰に我の援助を為し、而して朝鮮の支那内地の侵入にも唯だ英国一国の妬視を招くに過ぎず。・・・速やかに台湾を占取すべし。是れ急務なり。

  台湾占領に附従する利益

一 償金の抵当にも其の一部たり。
一 日本通商の南進にも大利益あり。
・・・」

 日本国は、明治27年7月から日清戦争に突入していた〈明治28年4月迄)。*
 羯南が「文明国として清韓に接し、進出すること」と「東洋の一国として欧米列強に対抗、日清韓の唇歯輔車の関係の追求」というディレンマを棚上げし、現実主義的対外策として打ち出したのが「北守南進」論であった。英、露、清国の国力を冷静に分析、力の均衡を図る対外策を考えていたようだ。ロシアの脅威を低くみて共存しつつ、講和条約への期待として「南進の道を開け」と論じている。また、日本の戦勝によって列強の力関係が変動し、その干渉を招くことを強く危惧していたようだ。  

 *なお、日清戦争中、連戦連勝を煽る戦況報道は、読者に歓迎され、新聞社各社の発行部数の上昇をもたらした。一方、新聞社間の格差は拡大し、加えて外地に優秀な記者を送り出し、国内が手薄になった「日本」の経営は厳しくなっていったようだ。           しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-08-14 23:46 | その他 | Comments(0)

欄外の妙

 新聞博物館の皆さんのご厚意で、新聞日本の原紙・オリジナルを大量に見る機会を得た。

 ゆまに書房の復刻版は、最初の解説で断りがあるように、1面ー4面、2面ー3面のあいだにあった欄外の記事は省略されている。今回、改めて原紙を見ることによって、そこには

  商品相場
  株式相場
  天気予報
  人事情報
  列車時刻表
  汽船時刻表

などの情報ものの他にも、記事の延長ものまで掲載されていた。

 昨今の情報誌にも、こうしたハミダシ情報を売り物にする紙面もいくつかあるように、すでにこのタイミングでも、紙面の有効活用が十分に行われていたのである。
 印刷技術的にも、こうした部分まで印刷をすること自体、かなりのレベルが要求されるものとは思うが、そうした意味でも、新聞日本の意外な技術的な先進性が確認できて興味深かった。ごく基本的なことなのだが、やはり原典にあたることの大事さを改めて痛感した。

たかぎ  
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by kuga-katsunan | 2007-08-14 23:01 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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