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<   2007年 07月 ( 12 )   > この月の画像一覧

父 羯南

 先述の羯南の娘たちだが、四女のともゑ(嫁して最上巴、と記述されていることが多い)の談話がいくつか残っている。
 ともゑは、明治26年生まれ、長じて最上国蔵(横浜正金銀行、後の東京銀行、現三菱東京UFJ銀行、の重役)に嫁し、平成3年で98歳で亡くなるまで長寿を全うした。

 昭和50年4月、講談社版の子規全集の最初の巻であった11巻の月報1に、<写生のモデルになって,最上巴>との談話が掲載されている。

 <私どもが子どもの時分には、子規庵と陸の家とは狭い空地を隔てて隣同志でした>
と、子規の想い出を語っている。

 <鳥籠は動物園によくあるような形の金網造りのもので、そこでエサをやっていますと訪れる人もなく退屈していた子規さんがガラス戸ごしに覗いて、「巴さん、何を持ってきたかね」などと話しかけて来たものです。>

 これは晩年の子規のことであろうから明治34年の頃、語っているともゑが7-8歳の頃の記憶ということになる。

 <なにしろ近いものですから、何でもちょっと珍しいものを頂くと、父が、まず半分は正岡さんのところへやれというので、私が運んだこともありましたし、昔のことで家に書生の2,3人は必ずおりましたから、その人たちに運ばせたこともありました。>

  羯南の子規に対する慈愛は、よく言われていることだが、娘の話のなかにも、その美しい証左が残されている。

  そしてともゑは、<仰臥漫録>に紹介されているエピソードについても語っている。

たかぎ

 
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by kuga-katsunan | 2007-07-29 06:24 | トピックス | Comments(0)

もう一つの新聞日本  台湾日日新聞のこと

 青森で始まった特別展「陸羯南と正岡子規」の図録は、興味深い。

 青森市の青森県近代文学館のHPには、その図録が掲載されており、内容を読むことができる。学ぶことが多いのだが、その中でも、<日本新聞社に在籍した青森県人>という面白いコラムがある。

 その前にある天田愚庵から始まる<羯南をめぐる人々>も、羯南が生涯を通じて深いかかわりのあった人々がきれいに整理されており、ともすれば混乱しがちな人間関係模様がすっきりした形だが、この<青森県人>の部分はさすがに地元の文学館の面目躍如の観がある。

 いろいろな回想の中で、同郷の出身者を可愛がった、とされている羯南だが、ここには9人の青森県出身者が紹介されている。

<1.成田鉄四郎(なりた・てつしろう)一八六四(元治元)―一八九四(明治二十七)弘前出身。

 2.赤石定蔵(あかいし・ていぞう)一八六七(慶応三)―一九二八(昭和三)弘前藩士東海昌雄の次男。

 3.小山内大六(おさない・だいろく)一八六八(明治元)―一九三八(昭和十三)弘前出身。

 4.桜庭経緯(さくらば・けいい)一八六八(明治元)―一八九五(明治二十八)弘前出身。

 5.浅水又次郎(あさみず・またじろう)一八七〇(明治三)―一九〇八(明治四十一)八戸出身。

 6.三浦勝太郎(みうら・かつたろう)一八六七(慶応三)―一九三九(昭和十四)弘前出身。

 7.斎藤信(さいとう・まこと)一八七一(明治四)―一九一三(大正二)弘前出身。

 8.花田節(はなだ・せつ)一八七一(明治四)―一九二一(大正十)弘前出身。

 9.佐藤紅緑(さとう・こうろく)一八七四(明治七)―一九四九(昭和二十四)弘前出身。>

(青森県近代文学館 「陸羯南と正岡子規」展 図録より)

 この9人のうち、浅水又次郎が八戸出身という以外はみごとに弘前出身者が並んでいる。おそらく実際はほかにも多くの青森出身者が机をならべて活躍していた、と思われるが名の残っている人々だけでも壮観である。

 後に、多くの新聞社で活躍して、最後は小説家として名をなした佐藤紅緑以外、日清戦争に従軍取材中、現地で病死した桜庭経緯を除くと、新聞日本以降も各新聞社で活躍したことがわかる。
 
 成田鉄四郎が東奥日報、三浦勝太郎が報知新聞、小山内大六が満州日日新聞でその後の活躍の場を得たが、残りの四人には共通した部分がある。

 図録によれば、明治36年8月、浅水又次郎が、台湾民政長官後藤新平の斡旋紹介で台湾日日新聞社に勤務、とある。前に新聞日本の最後の金庫番としての活躍を紹介した赤石定蔵も、後藤新平の推薦で台湾日日新聞社に入り、大正五年に社長となった、とある。赤石は明治39年6月の新聞日本の譲渡手続きを実際行っているので、台湾に移ったのはその後、と考えられるから、先に台湾に移った浅水に迎えられたのであろう。

 浅水は明治41年に亡くなっており、残りの二人、斉藤は大阪朝日を経て、花田は朝鮮の京城日報、大韓日報をへて、ともに台湾日日新聞へ入っている。

 朝日新聞に、羯南の育てた多くの人材が入ったことが、その基盤の確立に大いに貢献したことは広く知られている。ここにもう一つ、新聞日本の中でもおそらく羯南が最も手塩にかけたであろう弘前出身の記者たちが台湾日日新聞に入ったことで、もう一つの新聞日本が台北に存在していたのではないだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-07-28 06:50 | トピックス | Comments(0)

「陸羯南と正岡子規展」開幕

東奥日報によれば

<明治期の言論人として大きな業績を残した弘前市出身の陸羯南の生涯を振り返るとともに、正岡子規との交流を紹介した特別展「陸羯南と正岡子規」が十四日から、青森市の県近代文学館で始まった。
 ジャーナリストとしての足跡に加え、子規との人間味あふれるやりとりをうかがわせる書簡などを展示している。
 会場には、子規から羯南にあてたお礼の書簡や、子規の病状回復を喜ぶ羯南の書簡、新聞「日本」の創刊号など書簡、原稿、愛用品など約百点が展示されている。
 開会式では、同館の黒岩恭介館長、羯南のひ孫にあたる最上義雄さん(東京在住)らがテープカットした。
 同展は、九月九日まで(七月二十六日、八月二十三日は休館)。>
(東奥日報 2007年7月15日(日)

http://www.plib.net.pref.aomori.jp/top/museum/katsunan.html

 また羯南の四女ともゑさんの孫にあたる最上義雄さんのコメントも紹介されている。

  <陸羯南のひ孫・最上義雄さん(68)=東京都=が十四日、県近代文学館で開幕した特別展開会式に出席後、弘前市立郷土文学館を訪れ、開催中の「陸羯南 生誕百五十年・没後百年展」を鑑賞した。
 最上さんは、羯南の四女ともゑさん(故人)の孫に当たる。会場には、遺族から同館に寄贈された資料も多数展示されており最上さんは羯南が愛用していたという江戸指物の茶だんすや、大韓帝国の皇帝から羯南に直接贈られ、ともゑさんが保管していたというチマ・チョゴリの複製を見て「懐かしい」と声を上げた。
 最上さんは、羯南の七人の娘が写った写真を見ながら「羯南は厳格な人間というイメージがあるが、祖母や祖母の姉妹たちに聞いたところ、非常にバランスの取れた常識的な人だったという。当時の考えでは珍しく、娘にも仕事をして自立することを勧めたそうだ」と話していた。>

(東奥日報2007年7月15日(日)
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by kuga-katsunan | 2007-07-26 23:09 | ニュース | Comments(0)

熊日新聞博物館の展示より

 7月19日(木)正午ごろ時間が空きましたので、1時間程ですが熊本市世安町にある熊日本社へ行ってみました。熊本出身で「日本」関係者のなかでは、池辺、鳥居についての展示がありました。
 係りの方が、『朝日新聞社史~明治編』を見せてくれました。「朝日」の社史であるため、池辺、鳥居の「朝日」時代に関する記述がほとんどで、新聞「日本」とのかかわりは次のような書かれ方がされている程度です。
 「日本」と朝日の関係は、はじめから深くとくに人的な交流関係が密接だった。三宅雪嶺、池辺三山、~~~ら、のちおおかたが朝日新聞の経営、筆致に重きをなすが、すべてが「日本」育ちの青、壮年記者たちだった。 p.283
 熊日新聞博物館でのとり扱い方について
 1.陸  (写真有)
   「言論人の顕影」という展示コーナーで、明治中期の開明的なナショナリズムを代表する
   新聞記者、思想家として紹介されている。
 2.池辺 (写真有)
   「熊本は言論人の故郷」という展示コーナーで、佐々友房などと共に紹介されている。
   キャプションでは、細川護成の随伴者として渡仏、国際的ジャーナリズムの先駆者とい
   った紹介のしかたである。
   池辺の死去にあたっての夏目漱石による自筆の弔辞も展示。池辺一郎、富永健一著
   『池辺三山~ジャーナリストの誕生』(みすず書房、中公文庫)も置かれていた。
 3.鳥居 (写真有)
   2.の池辺と同様のコーナーで展示。ドイツ留学経験をもつ言論人として紹介。
   鳥居の詠んだ歌の軸、『鳥居素川歌集』、冨田啓一郎著『考証鳥居素川~明治大正期
  言論人の周辺』という鳥居の研究本も展示。

   かれらが新聞「日本」にかかわった足取りに触れてはありませんが、貴研究会の業績が
  発表されたあかつきには、そのかかわりについてもキャプションの記述に加えることになる   かもしれません。      
                 以上  熊本市在住  くりはら報告
  
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by kuga-katsunan | 2007-07-24 00:27 | その他 | Comments(0)

台風4号上陸の九州(熊本~福岡)を旅する

主筆の執念は台風ごときで揺らぐことはない。
熊本で古荘嘉門の自筆資料を撮影の後、迫り来る台風から逃れるように高速バスで福岡へ。
ここでは同窓の大内氏のほぼ完璧な手配もあり、福本日南の痕跡をたどる有意義な旅となった。
下の写真は日南が尊敬する平野国臣を祭った平野神社。この裏手が国臣の生誕地となり、日南の生家はその2,3軒隣だったとされる。明治憲法を起草した金子賢太郎もこの付近の出身で、幕末・明治期に多くの人材を輩出したが、日南と賢太郎だけが神童と称されていたらしい。
唐人町から西新にいく唐津街道沿いの、この鳥飼八幡宮あたりは、そんな場所とは露知らず、幼少の大内氏が遊び回っていた場所でもある。
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真ん中の黒い石碑には国臣の
我胸のもゆる思いにくらぶれば烟はうすし桜島山
が刻まれている。筑前勤王の代表格だった国臣が、薩摩藩士の冷たい態度を皮肉った歌と解釈される。
日南は国臣の、技巧を凝らさぬ、天真爛漫な歌を愛した。その彼の復古的万葉調を評価する姿勢は、後には正岡子規にも大きな影響を与えた。
羯南書簡集には、自作の歌の出来映えを自慢する、羯南から日南宛のいくつかの書簡が残されている。必死で自作の歌の解説を試みる羯南の手紙からは愛嬌が感じられ、司法省法学校以来の二人の気が置けない間柄を想像させる。
その書簡集には、明治27年頃だろうか、日南の幼い長男高麗男が亡くなったときに送られた書簡も収録されていた。「御愁嘆の程何とも御慰め申上様も無之」としつつも幾つかの歌を贈っている。その羯南も何年か後には自らの長男乾一を悲嘆のうちに失うことになるのだが…。
日南研究の第一人者・石滝豊美さんとお会いする機会を得た。
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石滝さんは歴史に埋もれてしまった人材の功績を見直す、あるいは、誤った理解をされている事象を正しく構築直すというミッションを課し、特に福岡の歴史を中心に研究を進められている。
日南に関しては、ご自身の作られているHPで論文「南進北鎖の夢」を見ることができる。日南はあまりに偉大すぎ、通念では型に嵌めにくい業績を数多く残しているがために、逆に全集すら組めない。その人物と比して研究が進まず、評価もされていないことを嘆いておられた。
その論文中には、徳富蘇峰から「向かうところ敵なしの健筆家」、同時代人からは「国士」「文豪」と評され、いかに当時の評価が高かったかが触れられている。
石滝さんのいくつかの研究テーマの中に「玄洋社」に関するものもある。玄洋社に近いところにいながら、ついに属することはなかった日南を映し鏡に、右翼的なイメージが不当に定着してしまっている「玄洋社」をあらためて捉えなおすという、面白い研究をされている。
玄洋社といえば、今回玄洋社記念館では館長の浅野さんから大変面白いお話をお伺いすることができた。
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玄洋社社員は「言上げしない」を旨とし、自らのことを多く語らないが、浅野館長は新聞日本記者でもあった生前の末永節と直接お話をされるという貴重な体験をされている。あまり知られていないが、末永節は辛亥革命でかなり重要な役割を演じている。
このあたりの面白い話は大内氏のレポートを待ちたい。
やまだ
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by kuga-katsunan | 2007-07-19 16:46 | Comments(0)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその四

 翌3月に入って1日の日記に、再び羯南が登場する。この日は、羯南は一人で篤麿を訪ねており、日記には短く、<新聞紙法案の事、民法修正案の事に付>と書かれている。新聞紙条例については、羯南らの努力が実り、この月の24日に改正公布されるが、この日はおそらくその最終段階の摺り合わせに赴いたものと思われる。
翌週の8日には、再び高橋健三、神鞭知常らとともに<民法問題>につき、篤麿を訪問している。

<資料5  日記  明治30年3月8日>
一 午後六時半、民法問題に付来会するもの、富田鉄之助、高橋健三、神鞭知常、陸実、元田肇、山田喜之助、大竹貫一、阪本則美等なり。同問題に付種々打合を為し、又条約実施研究会の手筈を相談す。十時半散会。


ここでは、民法問題の他に、更に<条約実施研究会>の名前が出てきており、研究会の設立に向けての準備がなされていたことがわかる。同14日にも、面会の項の部分で、関博直、伊達宗敦、阿部充家らと共に短く<新聞紙法の事>と書かれて登場する。こちらは同じ作業の延長戦を行っているものと思われる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-07-18 19:46 | 研究 | Comments(0)

谷干城遺稿より(日記ー2)

引き続き、「谷干城遺稿二」から、谷干城の日記をみる(解説部分も、同じく有山輝雄著「陸羯南」によっている)。

明治22年7月7日
 「朝 井上毅氏を訪ふ談改正条約のことに及ぶ 井上氏曰く大隈氏の改正案は或部分は反対なり或部分は同意なり・・・晩に杉浦、高橋、福富、陸、弘田、佐々、小野氏等来る新条約に対する意見を定むる為なり確乎反対と定む」

 谷干城を中心に乾坤社メンバー、羯南らが集まり、断固反対方針を決定した。それまで態度を保留していたが、条約改正反対論を明確に打ち出すこととなった。重要問題に関する「日本」の言論が、谷干城を中心とする合意で定められていた。

明治22年10月18日
 「・・・大隈氏狙撃せらるるの聞へあり・・・與論は即ち天意なり、・・・頑冥者少しく戒むる所あらん哉」

 大隈重信外相暗殺未遂事件について、「日本」は毎日新聞を長く引用、暗に狙撃を肯定するかのごとき感想を記している。
 この後、政局は一気に流動化し、反対運動は目標を失ってしまった。谷干城・浅野長勲・三浦悟楼らの意見も合わず、谷干城の新党計画も頓挫した。しかし、谷は、「国民主義者」の結束を維持しようとした。
 
明治22年12月25日
「・・・夜三浦、浅野氏等を始め杉浦、高橋健三、中村弥六、柴、古荘、国友、国府寺、千頭、宮崎、福富、陸氏等来会各地の国民主権者の為目標を建つるのことに評議す篤と評議の上明年一月十日頃迄に決することと為す」

 この段階の羯南は、党派結成には消極的で、「日本」は、與論の役割を「批判」に限定する主張を掲げている。新聞は、政策を掲げて政権を争う政党とは異なり、〈理〉にたった「批評」こそが、独自の機能であると考えていた。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-07-15 01:25 | その他 | Comments(0)

司法省法学校

  官立宮城師範学校を退校した羯南は、弘前に帰るわけにもいかず、東京へ向かった。
明治9年3月、羯南20歳の春であった。

  有山先生の著書によれば、当初東京師範学校へ入ろうとしたが、宮城師範学校からの通達で果たせなかった、という。このいきさつがなかったら羯南が自分たちの母校の先輩になっていたかと思うと不思議な気分もする。しかし、師範学校に行っていれば、新聞人羯南もいなかったかもしれない。

  やみくもに東京に出てきたものの、八方塞がりであった羯南にとって朗報であったのは、司法省法学校の生徒募集であった。官費で勉強できる学校は、師範学校と軍関係の学校というのが通念だが、この法学校も官費学校の一つであった。

  当時の地図を見ると、司法省のすぐ隣に法学校があり、丸の内1丁目8番、丸の内は山手線の内側というイメージが強いが東京駅をはさんで反対側もごく一部丸の内がある。今の八重洲北口を出てすぐのあたりになるが、こころみに歩いてみても駅周辺の再開発の波が激しく一面の工事現場となっていた。

  前田蓮山の書いた<原敬伝>(高山書院、1943年)には、当時の法学校の寮の部屋割が出ている。4人から6人部屋に分かれていたようだが、原は第1室、子規の叔父である加藤恒忠は第11室、羯南は第21室でルームメイトに国分高胤、後の青厓がいた。福本巴、後の日南は第30室以降だったようだ。

  羯南にとってここで得たのはフランス語の語学力、法律知識、そして最大の財産はこの終生続いた友人たちであったのだろう。若き日の羯南たちの武勇伝もいくつか残っている。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-07-10 22:23 | 紀行 | Comments(0)

明治21年12月28日 会合の人々

 しぶさわ君の谷干城遺稿によれば、新聞日本の最終フレームは、明治21年12月28日に、弥生町にあった浅野長勲家に集まったメンバーで決められたようだ。


  「・・・六時頃より、弥生町に行く 来合するもの杉浦、福富、古荘、千頭、陸、高橋諸氏及宮崎某、野村文夫氏等なり 十一時頃帰る。新聞の名称、単に日本と冠する議あり」
(谷干城遺稿)

 会合したのは

谷干城
浅野長勲(旧広島藩主)
杉浦重剛、福富孝季、古荘嘉門(熊本出身の政治家、教育家)
千頭(清臣)、陸羯南、高橋(健三)
宮崎(道正)、野村文夫

の10名であった。

 このうち、これまで、松井さんのリスト、古島一雄のあげた日本の人々にあがってきていないのは、野村文夫である。

  野村文夫は、浅野長勲の広島藩士、脱藩して英国へ留学、明治になって帰国、官吏になったが、自由民権運動の影響もあり、下野し、絵入り風刺雑誌<団団珍聞>を発行するようになる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-07-08 20:20 | 研究 | Comments(0)

陸羯南記念事業

東奥日報に<陸羯南記念事業>の内容が紹介された。

<弘前市出身の言論人・陸羯南の生誕百五十年・没後百年の記念事業をPRするポスターが完成し、二十九日、市立弘前図書館で開かれた同事業実行委員会の第四回会合で披露された。また、記念フォーラムのテーマが「人間 陸羯南」に決まり、ゲストも発表された。

 フォーラムは九月一日午後四時十分から、弘前市の弘前文化センターで。パネリストに同市出身のルポライター・鎌田慧さん、九州工業大の本田逸夫教授、松山市立子規記念博物館の竹田美喜館長を招く。コーディネーターは神奈川大の復本一郎教授が務める。

 一方、完成したポスターは、羯南の肖像写真と、社長兼主筆を務めた新聞「日本」、「名山詩」の刻まれた石碑、岩木山のシルエットを組み合わせたデザイン。「津軽が生んだ近代ジャーナリズムの先駆者」「正岡子規との深いつながり」といった羯南を象徴するフレーズを並べた。

 ポスター、チラシは弘前市内の学校や津軽地方を中心とする観光施設、子規の故郷・松山市などに配布し、八月三十一日-九月二日に開かれる記念展などをPRする。

 フォーラムなどの参加申し込み、問い合わせは実行委事務局(電話0172-32-4855)へ。>(東奥日報  2007年6月30日)

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たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-07-04 00:07 | ニュース | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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