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高胤事

 青厓国分高胤は、その友人たちに比べると長命であった。

若き日よりの自由奔放の生き方が彼の生を長からしめたのかもしれない。

入谷仙介は、<青厓詩存>の解説の中で

<性格は天才肌で奔放を極めた。(中略)家を一たん出ると何日も帰宅しない。妻はそのために知人に葉書を出して所在を尋ねる。葉書の文面が。「主人高胤事」に始まり、いつも同じなので、知人の間で高胤事といって評判になった。時としてはそのまま旅に出、旅先で買った本が送られてきて、初めて行方がわかるようなこともあった。>
 (汲古書院、昭和58年)

 GPS機能を使ってたちどころに居所が把握されてしまうような現代とは違ってまことにノンビリした話だが、今となっては、その自由さが、非常に羨ましい部分もある。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-30 03:59 | トピックス | Comments(0)

蒼海先生のこと

  蒼海先生の書をみた。

 蒼海先生、即ち副島種臣。江藤新平、大隈重信らと並んで、幕末佐賀の七賢、彼の兄である枝吉神陽を入れて八賢という人もいる、の一人である。明治になって清国への特命全権大使として赴き日清修好条約の締結などに活躍したが、征韓論の一件で西郷らとともに下野した。

 丸山幹治は、昭和初期に<日本及日本人>などに副島の伝記を連載し、11年になって<副島種臣伯>(大日社、昭和11年2月)として出版した。伝記と逸話を集めた形になっているが、実はこの書が初めての副島の伝記であったという。中に、<先生の金銭観>というのがある。

 「先生は口癖のように、<金なんか持って威張るのは馬鹿だ。太古は貝を貨幣とした。丁度貝を集めて威張ってるのと同様だ>」

たしかに極めて金銭には無頓着であったようで、貧乏暮らしを心配した明治天皇が下賜金を送ったという逸話も残っている。

 彼の書は、その無頓着な性格がそのまま表れているような作品ばかりで、まさに天衣無縫の観がある。かって有島生馬がもっていたという書も、この作品を古道具屋で見た、どうしても欲しくなり取りつかれてしまった、というのも頷ける。



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  書の件は、羯南の書をまとめてくれているささはら君にお願いするとして、蒼海先生は漢詩人としても有名であったようだ。
  国分青厓が三条実美に招かれて日光の別荘でつくった<風雨観華厳瀑布歌>が新聞日本に掲載されると、蒼海先生はこれを大いに賞し、次韻の一篇を作ったという。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-26 20:50 | トピックス | Comments(0)

不折の<支那絵画史>

 <支那絵画史>というとどうしても内藤湖南の浩瀚な作品を思い出してしまうのだが、中村不折にも同題の著書がある。著書といっても実際は共著者の小鹿青雲という、僧侶で中国に実際に住んで現地の絵画を研究した人物の著作に校閲をした形のようだ。

 大正2年発行の書籍にしては、非常に保存状態がよく、そのうえ、中国絵画の写真も20枚ほど掲載されている、という愛蔵版だが、表紙をあけるといかにも不折が書いたと思われる題字が並んでいる。今も生きている新宿中村屋や長野の清酒・真澄のロゴは、実は皆オリジナルは不折の製作ということだ。決して達筆とはいえないなかに、味のある字が並んでいて、一字一字が自己の存在をアッピールしているようだ。

 不折については、同郷人の諏訪のたけい先生にお願いしてあるので詳細は譲るが、この本、 内容は中国絵画の歴史を漢以前から説き起こし、清朝まで通史する手法だが、最後までめくって奥付を見ておどろいた。

 出版社は、玄黄社というところになっているのだが、その住所が神田区雉子町32番地となっていた。この住所はたしか、と思い、帰宅して日本新聞社が出版した本を探してみた。

 23番地だったかな、とも思ったのだが、やはり日本新聞社も32番地であった。大正2年といえば羯南既に亡く、伊藤に譲渡された同社もたしか出火して移転した、と読んだ記憶がある。その後の同じ場所に出版社があり、そこから不折が本を出していたとは。

 編集のために何度か足を運んだであろうが、その時、不折の胸に去来するものは何であったのだろうか。発行者は鶴田久作となっている。彼と往時の日本新聞社の賑わいを話あったのであろうか、今となっては知る術もない。
嗚呼・・・。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-23 07:49 | トピックス | Comments(0)

有山輝雄著「陸羯南」にみる谷干城

 明治21年、羯南が入社した新聞「東京電報」は、「不平将軍」と呼ばれていた谷干城・三浦梧楼、乾坤社同盟(杉浦重剛、高橋健三ら)、実業者というパトロンによって創刊された。高橋健三は羯南が直前勤めていた官報局時代の上司で、「谷らと繋がりができたのであろう。」とある。

 谷は自己の政治活動用の機関紙として「東京電報」を考えていた。従って、出資者である谷と実業者の意向によって新聞言論は大きく左右された。そして「東京電報」は、商況新聞と政治新聞が雑居していたため、読者への訴求力が弱く、僅か1年足らずで発展的に終刊、新聞「日本」が誕生した。

 新聞「日本」も、谷干城・浅野長勲ら貴族院議員、乾坤社、羯南・国友重章らの3グループから成り立っていた。谷は対外的には羯南を守ったが、内部では記事に注文を付けるなど同士といっても緊張した関係にあったようだ。

 「日本」は、販売が順調な時期もあったが、相次ぐ発行禁止処分や、他紙のような三面記事によって売り上げを伸ばす手法を採用しなかったため、大きな負債を抱えていった。それを谷らが支えた。谷は自ら支援する一方、岩崎家からの借金にも奔走した。

 しかし、明治31年の地租増徴反対論まで、共同歩調をとっていた谷と羯南は、羯南が北清事変出兵、支那保全に賛成であったのに対し、谷は出兵や日英同盟にも批判的であったこともあり、疎遠になっていった。これは、もともと羯南が理にかなった「批評」こそ独自機能と考えているのに対し、谷は「国民主義者」の結束=政党結成という基本的路線の違いがあったことによる。                                 しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-06-16 22:44 | Comments(0)

文学の人々  落合、池辺、そして萩野由之

  国会図書館のサイトにある近代デジタルライブラリーには時々思わぬ珍品が混じっていてビックリすることがある。

  新聞日本の文学を彩った人々の中に萩野由之がいる。
新潟県佐渡の相川の出身。明治から大正にかけて活躍した歴史学者、国文学者である。出身地の佐渡についての研究もある。学習院、東大、高等師範、日本女子大の教授を歴任した。歴史、国文関係の著作が多数ある。

  前述のライブラリーの中に、<博文館発行図書いろは別目録>というのがある。今でいういわゆる<図書目録>だが、それがそのままデジタル化されて画面で見ることができる。明治期の出版状況がわかってこれはこれで楽しいものになっているのだが、その中に<日本文学全書>という全集ものが収録されていた。

 全24巻で、洋装活版刷(当然なのだが当時は和装出版も盛んであった)、第一巻が竹取物語から始まって、時々こんな古典作品があったか、というのが混じっていたりするが、24巻の増鏡まで、本当に所謂日本古典が並んでおり、今でいえば<日本古典文学大系>にあたるものであろう。

 正一位公爵三条実美公が題辞を書いているのも時代を感じさせるが、この全集の校訂をしているのが第一高等学校教授従七位落合直文先生、小中村義象先生(池辺義象のことであり、この時期小中村清矩の娘婿となって小中村姓を名乗っていた。この仲人をしたのが谷干城である。その手紙が残っているという。)と並んで、高等師範学校教授従七位萩野由之の名前があがっている。

 この三人はほぼ同じ領域を研究分野にしていたので、付き合いも深かったようだ。新聞日本との付き合いもこの繋がりで展開していったのだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-16 04:54 | トピックス | Comments(0)

羯南 終焉の地

  <鎌倉別荘物語>(島本千也、私家版、1988年)という本がある。鎌倉に別荘をもった人々のエピソードを綴った作品だが、その中に羯南も紹介されている。

  <極楽寺に没した明治期の言論人>とされているのだが、彼の<浦とま屋>は当時の住所で<極楽寺561番地>、島本氏が明治期の別荘所有者の資料を調べたところによれば、所有者は<陸四郎>となっていたという。四郎は長男に夭逝された羯南が妻の兄の四男を養子にしたもので、羯南亡きあと継母と七人の義理の姉たちをよく面倒をみたと言われている。羯南の四女ともえが、高松亨明(弘前大学名誉教授、<陸羯南詩通釈>の著者)氏に会った時に言っている。

 「四郎が父の養子になった時は、まだ分別のつかない少年の頃で、今考えると可哀そうなことをしたもんだと思いますよ。でもね父の没後も色んなことがありましたが、四郎は本当によくやってくれましてね。」(陸羯南全集月報10、みすず書房 1985年4月)  

  羯南はこの場所の見取図を描いている。極楽寺村字姥ケ谷と書かれており、海の前に<洋人二三の別荘>を挟んで森に囲まれたあたりだったようで、そのうち一つは後に有島生馬の別荘になったということで、今でも海岸べりに有島の表札のかかった別荘がある。

 ではその有島家の別荘から高台を見上げてみると、江ノ電の線路をはさんで、いかにも現代的なログハウスが並んでいる。羯南自身も<松風濤声の外耳に入るものなし>と言っているように、当時は静かな海浜の別荘地帯のはしりの場所であっただろうが今となっては往時を忍ぶ縁もない。

 四郎は晩年姉の何人かと葉山に住んでいたという。今は染井霊園にある父の大きな墓のかたわらで、静かに眠っている。彼は、朝倉氏、大谷吉継、酒井家が治めた敦賀藩士の末裔であった。

たかぎ

  
 
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by kuga-katsunan | 2007-06-10 22:04 | 紀行 | Comments(0)

遠ざかれば日々にうとんず

柴四郎のもうひとつの墓を探しに熱海・海蔵寺を訪れる。
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高木主筆の父上と随行員やまだの亡父と奇しくも同じ大正14年生まれの住職に案内を請う。
1922年(大正11年)四郎は政治小説「佳人之奇遇」以上とも思える数奇な71年の人生を、この地、熱海の山荘で閉じる。
住職が少年の頃、四郎の何回忌かが盛大に行われたことを記憶するのみで、今は訪れる人もない無縁仏状態となっている。
墓には墓標が記されているが、それも風雪に削られ、判読不能である。
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後日帰京後、高木主筆から送られてきた資料によると、実は遺骨は柴一門の菩提寺・会津の恵倫寺に持ち帰られ、ここには遺品のみが埋葬されているようである。
その同じ資料の中では「あまりに時をへすぎたので東海散士のおもかげを伝える近親者はこの世にはいないらしい」と報告されている。しばし無常の思いにとらわれる。

病弱とはいえ行動的な人生を生きた四郎は、中央で挫折をするたびに、愛する東海の海辺に引きこもる。そのひとつ興津清見寺にも主筆とともに足を伸ばす。
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欧化主義に異を唱え、農商務大臣を辞職した谷干城と進退をともにし、秘書官を辞し、この寺に退き、「東洋之佳人」などの政治小説の構想が練られた。この後、彼は後藤象二郎の大同団結運動に身を投じ、数回の挫折の都度、熱海での隠棲を繰り返す。その後、東京電報の客員を経て、新聞「日本」の社友となるのだが・・・。
西園寺公望の別荘「座漁荘」(下の写真)も近くにあり、温暖な気候と風光明媚で当時の一等地だったのだろう。多くの著名人たちが痕跡を残している。
伊藤左千夫、夏目漱石などは、病に臥す正岡子規にこの地での療養を勧め、実現の一歩手前まで事は進んでいたらしい
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やまだ
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by kuga-katsunan | 2007-06-07 18:57 | Comments(0)

亡友 福本日南  

 <亡友福本日南>と題する文章が、日本及日本人の第817号(大正十年九月十五日発行、政教社)に掲載されている。

<大正十年九月一日の夜、福本家から電語がかゝつて、主人病気重態との報知があつた。翌早朝急いで同家を訪うたら、東洋医院(原宿)に療養との事であるから、直にその方に赴いた。令息令嬢たちが居られた。挨拶も早々に病室に臨んで見たが、早や人事不省で看護婦数名が取囲んで居るばかり、何と言ひやうもない。悲惨落胆、涙を呑んで退いた。令息栄君の語る処に依れば、八月廿七日に発病で、一時良かつたが、昨日より急にこの状態だとの事で、何とも為ようがない。自分は三月の中旬に君を訪うた。その時は彼の千葉県下講演中卒倒後一時恢復した時で、机に倚つて何か執筆中であつたが、相変らず快活に話して、「日本人は大抵は医者の心得がある。自分が病気で居ると、諸方から種々の薬をくれる。いろいろの療法を教へる。誠に嬉しい」などゝ語り、「未だ手が十分でなくて万年筆で物を書いて居る」とて机辺にある西洋紙に、

  ふるさとのはるや如何にと思ひ寝のまくらに匂ふ楳の初花

といふ歌を書いたのを貰つた。その後自分は九州に出張し、夏は東海道方面に旅行し、所々で君の事を問はれたこともあつたが、全快近きにあらんと答へた位であつた。然るに今この状態、実に何と言ひやうもない。さて別れて帰つたが、程もなく同日午後三時に遂に永久不帰の人となつた。嗚呼何といふ事であらう。>

  この文章を書いたのは、池辺義象である。熊本の人、池辺三山の一族の一人でもある。
池辺一族の皆さんが作られているHPの中で義象の履歴は以下のように紹介されている。
<文久元年(1861)熊本生まれ、大正12年(1923)歿
 国文学者・歌人・法制史家。東京帝国大学古典講習科を卒業。
 明治23年第一高等中学校教授(現在の東京大学教養部)。
 31年フランス留学、帰朝後京大講師。大正6年御歌所寄人。
 主な著書に「日本法制史」「新撰日本外史」「古事記通釈」など。>

彼も落合直文とともに、新聞日本に詩歌をよせている。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-06 23:31 | トピックス | Comments(0)

落合直亮の生徒たち

高尾山の小仏関跡には、落合直亮兄弟の碑がたっている。

高尾山の案内によれば、
<落合直亮、落合直澄兄弟は、関守の家に生まれた。兄の落合直亮は、国学者相楽総三に感銘し、家督を弟の直澄に譲り、幕末の尊攘運動に身を投じた。薩摩屋敷浪士組の副総裁となり、関東の錯乱計画を実行した。幕府は、これに激怒し、その報復として薩摩屋敷を焼き打ちし、これを発端として幕府と薩長連合の鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争へと発展したといわれる。
その後、相楽総三が新たに結成 した赤報隊は、偽官軍に仕立てられ、指導者は捕らえられて下諏訪で処刑された。相楽総三の無残な死を知った落合直亮は、この策謀者である岩倉具視を殺害しようと押し入るが逆に岩倉に諭され、その人望に忠誠を誓う結果となった。明治元年(1868)落合直亮は、伊那県判事、三年後に伊那県大参事に昇進したが、翌四年に冤罪で失脚。>

 その後、落合直亮は、仙台の神道中教院学院(国語学校)で教鞭をとっていた。その時の生徒に国分青厓がいた。

 いわき市の郷土史家である柳内守一氏の著書<愚庵物語>の中に

<明治6年、落合直文がまだ鮎貝亀次郎といっていた頃のことです。仙台の中教院で落合直亮の講義を国分高胤(青厓)、天田五郎(愚庵)らと机を並べて聴講していたときがありました。それ以来、三人は仲の良い友達なのです。鮎貝は、才能を認められ、仙台藩士を遠祖にもつ落合直亮の養子となり、落合直文と名乗ることになりました。>
(柳井守一 <愚庵物語> 平成15年6月 天田愚庵没後100周年記念事業実行委員会)

 羯南と愚庵の間にたったのは、国分青厓であり、落合直文も、新聞日本に書くようになる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-06 22:36 | トピックス | Comments(0)

羯南の娘たち

  <日本の名著>(中央公論社、昭和46年)のシリーズの中に、陸羯南・三宅雪嶺、とする一巻がある。

  その解説は、早稲田大学の鹿野政直による<ナショナリストたちの肖像>という文章だがこの<ナショナリスト>という意味を筆者がどのようにとらえていたかは難しい。もし通常のナショナリストであれば、この解説はその入口で方向を誤っていたのでは、と思いたくなる。明治期の国粋主義と昭和期のナショナリストはやはりその意義は異にするものと考えたほうが良いのではないだろうか。

 そこにはいくつかの写真が引用されているが、<明治29年の日本新聞社の人々>(中村不折が羯南の十三回忌に配ったもののようだ)の写真も貴重だが、昭和38年に撮影された羯南の娘たち、とする写真も素晴らしい。

 羯南には、七人の娘があったが、この写真には、何とそのうちの六人が元気そうにうつっている、その長寿や、大慶の一言あるのみである。
この娘のなかで、具体的に、父羯南を語っている人がいる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-06-03 21:57 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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