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<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその三

 さて篤麿の動向を綴った<近衛篤麿日記>(以下、日記)に、初めて羯南が登場するのは、明治30年2月24日の項である。この日、篤麿は、松方首相を訪問し、貴族院議長として予算の件につき打ち合わせを行ったり、足尾銅山鉱毒事件有志者と面会して陳情を聞いたりした後、学習院に出向き、学校経営についての相談ののちに評議会を開催し夕刻帰宅した。
 自宅ではすでに数名の来客がまっており、松方首相との会談の内容をめぐって議論の後かなり疲れていたものとは思われるが、夕食後更に来訪者があった。
高橋健三(内閣官報局時代の羯南の上司、この時点では官を辞し、大阪朝日新聞の客員として健筆を振るった後、体調をくずし、翌明治三十一年肺結核のため病死。)、神鞭知常(法制局長、初期のアメリカ留学生)らとともに、羯南も篤麿に面会している。用件は、<民法第2条修正案の事>と書かれている。

資料4  日記 明治30年2月24日
二十四日 水曜日 晴
一 食後、民法第二条修正案の事に付当邸に来会するもの、高橋健三、神鞭知常、陸実、大竹貫一、富田鉄之助、元田肇、山田喜之助等なり寺師宗徳は差支の旨にて晩刻自ら来りて断りを云ひ去る。種々協議の末、第二会を来月一日と定めて分る。時に十一時なり。

羯南と篤麿がこの時初対面であったかどうかは今となってはしるよしもないが、少なくとも手紙の往信も5年来あり、初対面であったとしても相手の人となりは意識した間柄であったものと推量される。高橋健三と羯南の仲は、内閣官報時代以来のものであり、羯南はそのグループの一員として行動している。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-05-30 20:53 | 研究 | Comments(0)

三宅雪嶺

 先週末(5/26−5/27)たかぎ主筆、すずき助手が金沢を来訪。ふるさと偉人館館長と学芸員らを訪ねるなど、当地出身の三宅雪嶺について生家跡(写真)をはじめ、足跡調査を敢行しました。
 夜は加賀百万石の雰囲気が残る茶屋街など「ディープ金沢」も視察。
 塾の先輩で当地在住のはまださんも交え、大いに盛り上がりました。
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by kuga-katsunan | 2007-05-28 22:02 | ニュース | Comments(0)

天田愚庵の庵

5月19日、たかぎ主筆と福島県いわき市に復元された天田愚庵の庵を訪ねました。
天田愚庵は江戸末期から明治の歌人・僧侶。陸羯南の親友として知られ、羯南と正岡子規を引き合わせた人物です。愚庵にはもう一つの顔があります。彼は、清水次郎長を世に送り出したプロデューサー。次郎長の養子にもなった彼の著書「東海道游侠伝」から、「清水の次郎長」が世間に知られることになりました。

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さて、愚庵については、またの機会にゆだねることとして、現地の報告です。
地元の天田愚庵研究グループ「愚庵会」の柳井守一さん=写真左=と小野田博さん=写真右=が、庵を案内してくださいました。1966年、京都・伏見桃山の庵が取り壊されると聞きつけた愚庵会が、移設を提案し、いわき市内の松ケ岡公園内に、当時のままの形に再現されました。地元の運送会社がトラックを出し、建材その他を運搬したとのこと。

六畳+四畳半+三畳間の高床式の庵は、愚庵のデザインによるものです。庭には、一本の柿の木があります。子規の歌作に大きな影響を与えたとされる柿の木(の子孫)との由。愚庵研究の第一人者、地元の故中柴光泰氏の自宅(いわき市)から移植されたものです。茅葺きの屋根は、愚庵没後100年の2004年にふき直されています。

「愚庵会は高齢化が悩みの種」など小一時間ほど、愚庵にまつわるお話を聞きしたあと、柳井さんが愚庵ゆかりの地を車でいろいろ案内してくださいました。ついつい足が伸び、美空ひばりの記念碑が建つ塩屋崎灯台に到着。この地を舞台にした映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、たかぎ主筆が学生時代学園祭で上映した思い出があると聞き、奇妙な因縁を覚え彼の地を後にしました。

ひろかわ
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by kuga-katsunan | 2007-05-28 02:56 | 紀行 | Comments(0)

「翔ぶが如く」にみる「谷干城」

 新聞日本最大のパトロン「谷干城」を司馬良太郎著「翔ぶが如く」で拾い読みしてみる。

 明治9年11月、谷干城は、二回目の熊本鎮台司令長官として着任(41歳)、その4ヶ月後の2月から約50日間、熊本籠城戦を行っている。薩軍1万数千に対し、鎮台の兵力は3千、堅牢な熊本籠城戦しかあり得えなかったようだ。

 谷が鎮台司令長官に選ばれたのは、陸軍卿山県有朋が強く押したことによる。山県は、熊本攻防戦は籠城戦がいいと考えていた。「谷は籠城の守将になるために生まれてきたような男だ」と言いたいくらい谷という男の性格を見抜いていた。

 谷は土佐人で、西郷の下野に批判的、学問があり、物事の道理を立てるのが好き、自分が構築した道理については、他に誰にも譲らない並外れた頑固さがあった。「山県は谷の頑固さを買ったのであろう」と書かれている。

 戦闘に当たって、地元の支援は期待できない上、鎮台幹部にも薩摩人が多く、西郷・薩軍に内応・投降する可能性もあった。参謀長樺山中佐も「谷将軍の人格によって部下の取り纏めがなされた。」としている。司馬自身も谷を「守将谷干城の私心のない統率力によるもの」と評価している。

 4月14日一番最初に救援に来たのは、(山田顕義少将の厳命を破ってだが、)戊辰の会津籠城の将で、谷に引き立てられた山川浩中佐であった。
                                        しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-05-27 19:15 | その他 | Comments(0)

羯南の妻  

 日本及日本人の昭和3年9月19日号は、秋季臨時増刊で、正岡子規号となっている。

 この年は子規の没後二十七回忌にあたり、高浜虚子、河東碧梧桐、佐藤紅緑はじめ子規門下の人々、古島一雄、中村不折などお馴染みのそうそうたる人々が書いているなかで、<陸てつ子>の名前が並んでいる。
これは誰あろう、羯南の妻、その人である。
 
 羯南は明治17年2月18日、28歳の時に結婚している。相手は、元敦賀藩の藩医、海軍軍医の今井元吉の長女てつ(16歳)である。この女性側の年齢は、明治当時ではごくあたりまえの年齢だったのだろうか。誰が媒酌をしたのかは不明だが、前述の親戚の佐々木文蔚が海軍軍医であったこと、羯南の長女の結婚相手の東海勇蔵も海軍軍医であったことなどを考えると、当時はあまり数が多かったとは思えない海軍軍医のつながりからのものだったのだろうか。

 てつは、羯南との間に、一男七女をもうけた。
五人の娘が生まれたあとに明治32年4月に長男乾一が生まれ羯南を大いに喜ばせたが、乾一は翌年2月に早逝している。
結局てつの兄今井真吉の四男・四郎を、明治36年に養子として陸家の跡取りとした。

  てつ子は、<正岡さん>と題する回想を書いている。

たかぎ


 
 
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by kuga-katsunan | 2007-05-27 18:04 | トピックス | Comments(0)

大連に死す 遼東日報社長 鉄厳 末永純一郎

 一枚の写真がある。

明治・大正の政治フィクサー、杉山茂丸の著作の中にある、<玄洋社とその関係者>という集合写真である。
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前列右から、末永純一郎、杉山茂丸、進藤喜平太、内田良五郎、頭山満、福本日南、月成功太郎。
後列右から、児玉音松、月成勲、的野半助、内田良平、大原義剛、古賀壮兵衛、武井忍助。(明治38年頃)

(杉山茂丸 俗戦国策  書肆心水  平成18年4月)

 頭山満を囲んで、福本日南、内田良平、杉山茂丸らとともに、杉山の右に、末永純一郎がうつっている。
福岡出身で、東京へ出て、杉浦重剛の称好塾で学び、新聞日本で記者として活躍した。

 その後、政治活動、中国へわたり、満州地域で最初の邦字紙、遼東日報をおこす。48歳で大連で客死することになる。

 彼のエピソードを、<東亜先覚志士記伝>から紹介しよう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-05-21 22:25 | 研究 | Comments(0)

新聞日本、最後の金庫番

 川村欽吾著「赤石定蔵と陸羯南-赤石を中心にー」によれば、1867年生の赤石定蔵は新聞日本の最後の金庫番として、「明治30年代末の終焉まで惨胆(ママ)たる経営の辛苦を赤石は陸とわかちあった。とりわけ日本新聞の伊藤欽亮への譲渡については、ほとんど赤石の責任に於いて実現されたもの、とみてよいようである。」とある。

 弘前生まれの赤石定蔵は、7歳で伯父の養子となって赤石家に入り、21歳で東京専門学校(現早稲田大学)英学部を卒業、東京電報入社(後の新聞日本)、豪州メルボルン領事館赴任を経て、27歳で再び新聞日本入社、日本銀行勤務を経て、33歳で、三度新聞日本に会計主任として入社している。

 35歳(明治34年)の時、新聞日本は財政急迫し、赤石が金策に奔走している。同年、近衛篤麿が新聞日本を買収した後は、頻繁に近衛家を訪問している。40歳(明治39年)のとき、前述の伊藤氏へ新聞日本を譲渡。翌年、陸羯南が病歿。

 彼はその後、台湾日日新報の社長を務め、97歳(1963年)まで生きた。逝去直前、羯南忌に寄せて、「『羯南は名聞を好まず地下にて苦笑することと存じます。』・・・明治人の気骨尚失わず、国家に貢献することこそ男子の生き甲斐、といった羯南流の信念がうかがわれた。」とある。                                  しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-05-20 22:17 | 研究 | Comments(0)

如是閑と私  千葉亀雄

 前項の続きになる。

<僕が我が思想界の新人長谷川如是閑君を始めて見出したのはこの中である。古島古一念氏が体を乗り出すようにして、手振り身振りを交え乍らのあの巧みな編集室内の座談。
  白哲長身、沈黙でしかし決断に富んで藁村の名で清新で花やかな東露通信を書いていた 井上亀六さん。
  快活な、瀟洒な安藤鉄腸氏
椅子へ斜に構えて、ぱちぱちと光る眼を眼鏡の中から瞬き乍ら一流の断論を吐く清痩な好男子碧梧桐氏などの中に交えて
  鴨居につかえるような長身の洋服姿の長谷川君が、ややとすると額におつかぶさって来る長い髪を、右の掌で後ろの方へ撫でつけるように押しやり乍ら、之も氏一流のきびきびした江戸っ子弁で、思いきった警句を乱発して、まぜつ返したり、冷やかしたりする光景は確かに一場の奇観だった。尤も失礼乍らその警句の中に厳密に分類すると、及第点以下の駄洒落に属する何パアセントかも勿論含んで居たものとご承知ありたい。>

(千葉亀雄  如是閑と私  千葉亀雄著作集第三巻  平成3年  ゆまに書房)

  こうして見ると、本当に各種の才能があふれ、集っていたことがよくわかる。中でもうらやましいのは、その<自由な、快闊な空気>である。
  これがまさに新聞日本の精神なのであろう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-05-20 09:07 | トピックス | Comments(0)

新聞日本 編集部の回想  千葉亀雄の場合

  千葉亀雄は、読売、東京日日などをへて、新感覚派などの名づけ親になるような文芸評論家の道を歩んだが、新聞日本の中では最若手の記者であった。

 彼が当時の編集部を回想している文章がある。

<未だ其頃は陸羯南氏が洋行からの帰り立てで、稀に社にみえていた。
 編集長が今日の国民党の智嚢古島一雄さんで、当時「読売」に出た五来素川氏の「東西大学評論」の向ふを張って「慶応義塾評論」などで大向ふを唸らしていたように記憶する。
 今の「朝日」の編集長の安藤鉄腸さんが、矢張り頣髯をちょっぴり立てて、例の快活恬淡な口調で教育宗教の方面を担当して出てあるいて居た。
 碧梧桐君が机の上に山と日本俳句の原稿を載せて、今も昔も変わらないきびきびしさで、片っ端から駄句を屑籠へほうりこんでいた。それから碧梧桐君は一方で芝居評を担任して、これまた此一流の痛快さと独断とで、芝居者なみの劇評家の多い当時の劇評界に確かに一敵国を作っていた。
 丸山侃堂君が今のように金緑眼鏡を光らして居たかどうかは覚えていないが、何でも学校出たての若さで、旅順観戦記などで陸軍省から恐ろしいカスを食ったほど、元気のよい溌剌たる記事を書いていた。
 今は故人となった好漢で酒豪の斉藤信君が、夜になると社の前の蕎麦屋から燗酒を取り寄せては盛んに鈍重な青森弁で、忌憚のない警語を爆発させる。果ては机を並べて其上で踊りを踊るといったような訳で、当時の「日本新聞」は全くほかの新聞とは違った自由な、快適な空気が、きたない、狭い編集室内に一杯に広がっていた。全く豪傑の梁山泊であった訳だ。
 いや忘れた、其の中に、当時の恐ろしい秀才であった、「万葉」通の歌人森田義郎君が、校正記者として木綿黒紋付きで納まって居たっけ。>

(千葉亀雄  如是閑と私  千葉亀雄著作集第三巻  平成3年  ゆまに書房)

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-05-20 08:35 | トピックス | Comments(0)

国分青厓のこと  古島一雄

 仙台のたかはし君が送ってきてくれたのは、宮城県図書館にあった雑誌のコピーだった。
雑誌は昭和23年11月の<新星>。古島一雄は、この雑誌に<日本新聞時代を憶ふ>という連載を7回シリーズで続けていたようだ。その第六回が、<国分青厓のこと>となっていた。

 <国分青厓が漢詩界に残せし足跡も大きいものがある。青厓も羯南も日南も、ともに司法省法律学校の出身だが元来この法律学校は特殊のものでその入学試験に毎年史記の伯夷伝を出すという評判の程非常に漢学を重んじたもので従って同校出身には漢学者が多い。
  羯南は日本新聞を主宰すると青厓をして文苑を掌らしめ更に評林という一欄を設けて漢詩をもって時事を風刺せしめた。
  僕はこれこそ明治の詩史だと称して詩董狐と題する小冊子を出版せしめ青厓は益々乗気になった>

(新星  昭和23年11月号)

  かって日本文学のジャンルに漢詩が存在していたということを想起させる内容だが、青厓は風刺としての漢詩と、文学としての漢詩の双方で自己を高めていったようだ。
が、人物としては非常に面白い人であったようである。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-05-19 23:57 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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