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<   2007年 04月 ( 13 )   > この月の画像一覧

<病気ノ為新年ノ礼ヲ欠ク 在熱海 柴四郎>新聞日本の広告 

 新聞日本は、創刊当初の四面構成の時代から、最終面は広告を掲載していた。
内容的には、新刊本の広告、学校の入学案内、新薬の宣伝、はたまた他の新聞の発刊宣伝など多種多様だが、年末近くの広告が面白い。
個人が年末年始の事情を広告の形で掲載しているのである。

例えば明治25年の暮れ

<近県旅行につき歳末年始の礼を欠く  福地源一郎>

<地方へ旅行中に付き歳末年首の礼を欠く   長与専斉>

また前述した貧天地の桜田文吾は年末に引越ししたようで

<転居 神田駿河台南甲賀町八番地川井屋方  桜田文吾>

新聞日本のスポンサーの一人である広島の殿様も

<所労に付き年頭の礼を欠く  侯爵  浅野長勲>

個人情報のうるさい昨今では考えられない長閑さだが、気のきいた盗賊団であればターゲットにしたのだろうか。

その中で

<病気ノ為新年ノ礼ヲ欠ク 在熱海 柴四郎>

というのが、目をひく。
  蒲柳の質であったのが知られている柴四郎、即ち当時の政治小説のベストセラー作家東海散士、は、東京電報以来新聞日本には縁の深い人物であるが、詳しくは会津同郷のやまだ君にお願いする事としたい。
  この広告という、今でも新聞の主要な収入源については、やまだ君、つるどめ君、かめたに君をはじめ、プロの皆さんが大勢いらっしゃるので、共に考えていきたい。

たかぎ









 
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by kuga-katsunan | 2007-04-30 22:18 | トピックス | Comments(0)

岳 みんなの山 

 むろたさんの御紹介で、築地の新聞社の方に、新聞日本との関係についてお話をお伺いした。帰りに、折角なので築地で反省会を開いた。

 遅れてきたひろかわ君が、

「先日、マンガを読んでいたら、突然、陸羯南が出てきたので、驚きました。」
とのこと。

早速帰りにそのビッグコミックオリジナルを買って読んでみた。
作者は、石塚真一、作品は<岳 みんなの山>である。この作品、主人公の山岳パトロールの三歩の飄々としていながら芯の強いキャラクターが印象深く、掲載されている時は楽しみなシリーズだが、今回はある大学の山岳部がメインになっている。

新人歓迎登山の夜、先輩になぜ山を選んだのかを尋ねられて新入生が突然

「名山名士を出だす

 この話久しく相つたう」

と語り始める。驚く先輩部員に対し、

「僕の地元出身の陸羯南って人の言葉で、つまり・・・・

いい山はいい人を創るって意見です。」

(石塚真一  <岳  みんなの山>ビッグコミックオリジナル 2007年5月5日号  小学館)

 石塚真一という作者については、くめた君に聞くとして、この漢詩は、前に弘前の松蔭室の項で触れたように、羯南のもっとも有名な作品である。

 司馬遼太郎も<街道をゆく  北のまほろば>の中で触れている。

この羯南の漢詩の話になって、同行の

「菊池正浩氏が急に津軽風の含羞を刻んだ笑顔を伏せた。

<この詩は、つらいです。>

きくと、菊池氏が弘前高校時代、先生からこの詩を引き合いに出されて奮起をうながされていたという。」

(司馬遼太郎 <街道をゆく  北のまほろば>朝日文庫  1997年9月)

  風土というものが、精神形成に大きな影響を与えるとすれば、朝に夕に、岩木山という名山を仰ぎ見ることは、一つの<志>を養うことになるのかもしれない。

  満開の桜の向こうに、雪を頂く岩木山を望む、というのはたしかに、<北のまほろば>ならではの絶景、といえよう。この風土で、青春を過ごせる方々が大いに羨ましく思えるのは私だけであろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-30 17:49 | トピックス | Comments(0)

人物叢書  陸羯南

 昨晩、<陸羯南>が家にやってきた。

没後百年の今年、いくつかの羯南の本が準備されているとは聞いていたが、有山輝雄の人物叢書<陸羯南>(吉川弘文館)が一番乗りとなった。
小山文雄の<陸羯南>(みすず書房)が絶版となってから、新本市場にある書籍としては久しぶりの出版である。

吉川弘文館のホームページによれば

< 明治時代のジャーナリスト。不遇な家庭環境や司法省法学校退学事件など、青年期に雌伏を余儀なくされるが、政界との人脈を得て中央進出し、新聞記者の道を選ぶ。徳富蘇峰らと対峙し、時代の直面した事件に独自の論説を展開する一方、『日本』主宰者として新聞社経営に腐心する。時流に迎合しない「独立新聞」をめざした孤高の人生51年に迫る。(07年4月刊)

〈主な目次〉第一=価値秩序の崩壊と彷徨(生まれ/幕末の変動/東奥義塾/官立宮城師範学校/司法省法学校/模索)/
第二=辺境から中央へ(青森新聞記者/紋鼈製糖所/翻訳生活と帝政党への接近/官僚生活と自己形成/「国民精神」の発見)/
第三=「国民主義」的記者としての自己形成(『東京電報』/「価値ある言論」/「国民主義」の形成/『日本』の創刊/条約改正論争)/
第四=「新聞紙の職分」と「道理」の発揮(「独立新聞」と「国民主義」の体系化/大津事件と新聞紙条例問題/条約励行運動)/
第五=ディレンマのはざまで(日清戦争と『日本』/松方内閣への接近と新聞紙条例改正案/「戦後経営」批判と東亜問題/北清事変と国民同盟会)/
第六=「独立新聞」の終焉(清国・韓国旅行から日英同盟/近衛篤麿の日本新聞社援助/欧州外遊/日露戦争と「民衆的傾向」/『日本』売却と羯南の死)>

有山輝雄には<徳富蘇峰と国民新聞>(吉川弘文館、1992年5月)の著作があるが、この没後百年の機会の出版が、弘前の羯南関連のいくつかの企画の成功に資する事を願ってやまない。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-25 23:35 | ニュース | Comments(0)

新聞日本の連判状

  古島一雄は、陸羯南とは違った意味で、新聞日本の中心人物であった。

編集長として、政論新聞としての内容のレベル維持と経営のはざまで苦しんだ。
 後に政治家に転進した彼が晩年回想録を出している。
<一老政治家の回想>(古島一雄、中央公論社、1951年)には、<新聞日本の思い出>として一章がさかれている。

 そこには、新聞日本の生い立ちが書かれている。

「日本新聞の発刊は杉浦を中心に、新聞発行を目的とした連判状が二十年の四月に作られた、それが起源だ。」

そこには、前述した杉浦の連判状が語られていた。

「連判状の仲間は杉浦を筆頭に、巌谷立太郎、平賀義美、谷田部梅吉、宮崎道正、長谷川芳之助、小村寿太郎、高橋健三、谷口直貞、中谷源六、福富孝季、河上謹一、伊藤新六郎、西村貞、千頭清臣、国府寺新作、手島精一、高橋茂といういわば杉浦が肝胆相許す同志、いずれも後に名をなした人々で、この十八人が九ヶ月で六千円醵金し、それで印刷機械を買入れようというのが連判状の目的だった。」

まずは、印刷機械の購入から始まる、というのがいかにも青春の時代、明治、を感じさせる。

 <古島一雄の青春>、という副題をもつ作品が小島直記にある。
<斬人斬馬剣>という物騒な題名の小説だが、最近読んだという、きしだ君から紹介してもらおう。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-04-24 21:48 | トピックス | Comments(1)

陸羯南顕彰事業

東奥日報の方から以下の情報いただきました。記事流用します。

陸羯南顕彰事業決まる/8・31―9・2記念展/フォーラム、評伝出版も/弘前で実行委発足

陸羯南(くが・かつなん)を顕彰する記念事業実行委員会が(三月)四日、市立弘前図書館で設立総会を開いた。相馬■一市長を会長に選出し、記念展やフォーラムの開催、評伝の出版、ゆかりマップの作成といった事業計画を決めた

実行委は「この期に広く、羯南を知り、学ぶ機会を作りたい」との趣旨で設立された。総会には、記念事業を共催する県近代文学館も含む産学官から約二十人が出席。副会長は弘前商工会議所の新戸部満男会頭と羯南研究家の稲葉克夫氏、実行委員長は石岡徹教育長が選ばれた。事務局は弘前図書館二階に置く。
 記念事業は、羯南が療養先の鎌倉で亡くなった九月二日を中心に実施。内容は(1)八月三十一日から九月二日まで、羯南の生涯などを紹介する記念展(弘前文化センター)(2)九月一日、神奈川大の復本一郎教授(子規や紅緑の研究者)を講師に招いた記念講演会とフォーラム(同)(3)稲葉氏による評伝出版(八月上旬予定)(4)弘前市内の羯南ゆかりマップ作成(八月上旬)(5)羯南ゆかりの地バス巡り(九月一日)(6)顕彰碑建立(同二日、場所未定)などで、今後具体的に詰める。
 総事業費は三百三十万円。共催する市が六十万円を負担し、ほかは広く県内外の個人や団体、企業からの協賛金(一口三千円)を見込んでいる。
 終了後、相馬会長は子規の故郷で、子規記念博物館のある松山市との交流に意欲を示し「四月中にも松山市長に会いたい」と話していた。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2007-04-24 11:07 | Comments(0)

閔妃暗殺の人々  国友重章

 閔妃という李氏朝鮮の皇后がいた。

 19世紀の後半を生きた女性(1851年 - 1895年)だが、李氏朝鮮第26代王・高宗の妃であった。日本であれば、皇后にあたる存在だが、日本の策謀によって暗殺された、と言われている。韓国では、忠臣蔵のように有名な話だが、日本でも角田房子の<閔妃暗殺>という作品によって広く知られるようになった。(1988年1月、新潮社)

 当時の李氏朝鮮も半島という微妙な位置にあって大国の間で揺れていた。

閔妃は王朝の政治に深く関与していた。1873年舅である大院君を追放、一族を取り立てた。日本から軍事顧問を呼び、軍隊の近代化をはかったが、不満を持つ大院君等の勢力と旧軍が1882年閔妃暗殺を計画した(壬午軍乱)が未遂に終わった。 その際、多くの日本人も殺され、日本大使館も焼き討ちにあった。これ以降、閔妃は開化政策から親清政策へと方向転換した。
その後ロシアの南下政策を警戒したイギリスを牽制するためにロシアに近づいた。
 1894年には、日清戦争の戦場の一つになった。戦後、日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、閔妃は勢力を失っていったが、95年7月ロシアの力を借りて権力を奪回。この動きは、日本などの諸外国に警戒され、10月8日、日本軍を中心に反閔妃の勢力により景福宮にて暗殺された。(乙未事変)

 朝鮮が親露に傾斜することを警戒した当時の日本の公使が、あの不平将軍の一人、三浦梧楼であった。暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。三浦を含む容疑者は召還され、広島で裁判が行われた。結果は、証拠不十分で免訴、釈放された。

 容疑者48人の中には、三浦以外にも、<新聞日本の人々>がいた。

 その一人が、国友重章であった。

国会図書館の憲政資料には、著名人の関係文書が納められているが、国友重章の文書もある。それによれば

< 文久元(1861).11熊本生まれ。1877西南戦争に佐々友房の下、熊本隊で活躍。>

三山、素川と同郷人である。

<1883上京、宮内省に出仕、のち法制局に転じる、1887後藤象二郎が提唱した大同団結に賛同、官を辞して『東京電報』(1889『日本』に改題)の記者となり、大隈重信の条約改正交渉には対外硬の立場から批判>

東京電報時代からの生え抜き記者であって、その後も

<1892~94.『東北日報』主筆、1893.朝鮮『漢城新報』に入り、1895.10閔妃殺害事件にかかわり広島で投獄される>

この裁判では、皆放免されたわけだが、

<1898.東亜同文会幹事。のち国民同盟会、対露同志会にも参加し、アジア主義を唱える、1909.7.16死去。>

その後も、ほぼ羯南と同じ道を歩んだことになる。

収蔵されている文書は

< 書類1綴(大陸・朝鮮問題に関する視察報告や、条約改正・満洲問題などの意見書など13点)
書簡の巻子本2巻(陸羯南、後藤象二郎、佐々友房、藤村紫朗など12名からの来簡13通)。>

とされている。

  この憲政資料の中には、安藤正純、古島一雄、谷干城(立教大学所蔵)、そして三浦梧楼の文書も収められている。

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2007-04-18 22:47 | トピックス | Comments(0)

国粋ということ  福本日南

 国粋という言葉には、あまりいいイメージはない。

これは多くは太平洋戦争およびそこに至る過程で、この言葉を振り回して多くのものを弾圧してきた歴史があるからで、戦後、今も戦後かどうかは議論もあるところであるが、は、どうしてもそのアレルギーをひきずっているのだろう。

 では、羯南たちの時代の国粋、とはどんなものであったのだろうか。
明治日本というのは、侵略されないためにはどうすればいいのか、と考えられた末にできあがってきた体制であり、またその独立も常に脅威のもとにおびやかされつつあった国家であったといっていいだろう。その脅威、危機意識は並外れたレベルであったし、今が平和ボケの時代であるとすれば、当時は全くその対極にたつ国際環境であった。

  福本日南は、福岡藩士の長男として安政四年(1857年)に生まれ、明治九年司法省学校に入学、ここで羯南、加藤拓川、国分高胤、原敬らと同級になった。明治十二年の賄征伐に連座して退学した。<普通民権論>などの著作をあらわし、北海道開拓事業の失敗などもあったが、羯南の東京電報の発行から記者として参加、日本の発行にも当初から重責をにない、一時期、日本の社説は、羯南、三宅雪嶺、そして日南の三人で曜日を決めて、順番に書いていた。

  広瀬玲子氏に<国粋主義者の国際認識と国家構想>(芙蓉書房出版、2004年一月)という労作があるが、この論文で福本日南を中心に同時代のいわゆる<国粋主義者>たちの国家と国際観を語っている。

  ここで述べられている<国粋主義>とは、

<彼らの主張に共通するのは、それぞれの国・国民が有する優れた特性・個性(これを彼らは国粋と称した)を発揮することが世界文明の貢献につながるとしたことである。
(中略)
このように国粋主義は日本の文化的・民族的独自性についての自己主張のあらわれであったが、決して独善的・閉鎖的なそれに陥ることなく、むしろ世界に向かって開かれた「健康なナショナリズム」「発展途上の上昇期のナショナリズム」としての性格をそなえていたとされる。>

(広瀬玲子 <国粋主義者の国際認識と国家構想、芙蓉書房出版、2004年)

  この語感の違いに、まず驚かされるのは、私だけではないと思う。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-15 16:02 | トピックス | Comments(0)

日本新聞社の位置  その二

 日本新聞社のあった場所はこのあいだのところで良かったのか、と気になっていたのだが、偶然面白い地図を見つけた。

 明治25年4月11日の一面は、日本新聞社の社告から始まっている。

<昨朝近火之際は早速御見舞被下御厚情深く奉感謝候不取敢紙上にて御礼申上候>

 4月10日に神田で火事があったようだ。

 一面は神田地域の企業、学校、個人の火事見舞に対する御礼の広告でうまっている。東京法学院、共立学校、東京物理学校、日本運輸会社などに混じって羯南の官報時代の上司、高橋健三も御礼広告を出している。

 翌12日の五面に、<神田大火焼跡之図>というのが出ていた。これによれば、西は神保町から東は鍛冶町に至るまで広範囲に類焼が広がっていたのがわかる。

 その地図にギリギリ火災を免れた雉子町の一角に<日本>と表示されている。地図を再録できないのが残念だが、その場所はやはり今の小川町と淡路町の間くらいの場所であった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-08 22:44 | トピックス | Comments(0)

日本叢書

 桜田の作品が日本新聞社が出版した書籍だったということで、日本新聞社が発行していた書籍の情報はないかと探してみた。

 最後の駆け込み寺はいつも国立国会図書館になってしまうのだが


1. 依緑軒漫録 / 無腸道人. -- 日本新聞社, 明26.9. -- (日本叢書)

2. 海国政談 / 福本日南(誠). -- 日本新聞社, 明25. -- (日本叢書)

3. 外権内侵録 / 佐々木正綱. -- 日本新聞社, 明27.2. -- (日本叢書)

4. 近時政論考 / 陸羯南. -- 日本新聞社, 明24.9. -- (日本叢書)

5. 行政時言 / 陸羯南(中田実). -- 日本新聞社, 明24.9. -- (日本叢書)

6. 原政及国際論 / 陸羯南. -- 日本新聞社, 明26.8. -- (日本叢書)

7. 国際論 / 陸羯南. -- 増補2版. -- 日本新聞社, 明27.2. -- (日本叢書)

8. 獺祭書屋俳話 / 正岡子規. -- 2版. -- 日本新聞社, 明28.8. -- (日本叢書)

9. 地租増否論 / 谷干城,田口卯吉. -- 日本新聞社, 1898.10. -- (日本叢書)

10. 予算論 / 陸羯南. -- 日本新聞社, 明23.12. -- (日本叢書)

メインはやはり羯南の作品ということになっているようだが、子規の獺祭書屋俳話 も出版されているし、<不平将軍>の一人谷干城,田口卯吉の作品もある。明治23年から明治30年にかけての出版が収集されているようだが、他にも出ていたのではないだろうか

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-07 08:35 | トピックス | Comments(0)

<貧天地 飢餓窟 探検記>  大我居士 桜田文吾

 紀田順一郎に<東京の下層社会>と題する著作がある。(新潮社、平成2年5月)

 明治期から昭和の終戦に至るまでの、東京の下層社会を描いた作品を描いているが、その最初に紹介されているのが、新聞日本に連載されていた、大我居士こと桜田文吾のルポルタージュ<貧天地 飢餓窟 探検記>である。オリジナルは、明治23年8月から新聞日本に連載されていたルポルタージュである。

 桜田は、1863年仙台藩士の家に生まれた。紀田の紹介によれば

 <幼くして父を失い、さらに二人の兄がそれぞれ戊辰戦争と五稜郭の戦いに敗れたのち病没、一人の姉も誘拐されたため、母親は悲嘆のあまり世を去った。>(同書)

 このあたりは、同じく新聞日本に連載されて評判を呼んだ<血写経>の著者愚庵天田五郎の生い立ちに似ている。奥羽列藩同盟に加わった、いわゆる<賊軍>の藩の人々は多かれ少なかれ同じような境遇を味わったのだと思う。新聞日本に集まった人々の多くは、<賊軍>の藩出身者が多かったようだ。

 <彼みずからは苦学の後に東京法学院(のちの中央大学)卒業、縁あって陸羯南の経営する日本新聞社に入社することができたのであった。>(同書)

 この連載は、新聞記者になるまで、苦渋に満ちた少年時代、青年時代を経験してきた桜田ならではの視点なのだといえよう。

  <むかし、新聞記者が取材のため変装するのは日常茶飯事であったが、いまはその種の感覚が薄れてしまっている。一億総中流のため、あらゆる職業がサラリーマン化し、変装なんかする必要もなくなった。>(同書)

 報道の基本である<現場百篇>、クラブ報道が記者と新聞を堕落させたのかもしれないが、このルポはまさに現場に身をおいた作品だったといえよう。

 この連載は明治26年5月に、日本新聞社から<日本叢書>の一冊として出版された。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-04-05 23:46 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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