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<   2007年 03月 ( 13 )   > この月の画像一覧

新聞日本の値段

 ここに朝日新聞に勤務されている先輩から頂いた<東京朝日新聞>の明治22年2月6日号のコピーがある。

 一面トップはやはり社説から始まっている。(鹿児島の同志会)それに、電報、雑報が続く。雑報の中には<憲法と提灯>などのように数日後に控えている大日本帝国憲法発布の祝賀行事をあてこむ動きを揶揄する記事もある。

 その号の三面の、上段の連載小説の下、三段ぶち抜きで<新聞日本>発刊の広告が掲載されている。

  <日刊新聞  日本

 政治法律経済文学教育及実業上の日刊新聞

 二月十一日紀元節ヲ以テ第壱号ヲ発ス>

 新聞の発刊を他の新聞で宣伝する、というのは驚きであるが、よく考えてみると、我々が最近新しい新聞が発刊されるタイミングにはあまりでくわしていない、という事実もある。

 その広告文の下の部分に定価と広告料が発表されている。

<   定価                         広告料
一枚   一銭五厘              一日分    一行   金八銭
一ケ月  三十銭               二日以上         金七銭 
三ケ月  八十五銭             七日以上         金六銭  
半ケ年  一円六十五銭          十六日以上        金五銭
一ケ年  三円二十銭
地方郵便 一ケ月 二十五銭                 >

 当時の物価と比較するとどの程度のレベルであったのだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-25 22:27 | 研究 | Comments(0)

空母 赤城艦長 青木泰二郎大佐 その二  

 吉田満の著書に<提督伊藤整一の生涯>という作品がある。

 吉田満は、東京生まれ1943年東京帝国大学法学部から学徒出陣で海軍予備学生、1944年12月戦艦大和に乗艦、翌1945年4月菊水作戦に参加、同年9月両親の疎開先である東京都西多摩郡に復員。処女作にして代表作の『戦艦大和ノ最期』を執筆、日本銀行に入行した。銀行員として勤務のかたわら、上記の作品をはじめ<臼淵大尉の場合―進歩への願い>、<祖国と敵国の間>など戦艦大和にまつわる人々を描き残した。

 その作品の中に青木大佐が登場する。少し長くなるが引用させて頂く。

 最後の大和艦長有賀幸作大佐の回想の中である。ミッドウェー海戦当時、有賀大佐は赤城を護衛した第4駆逐隊司令、青木大佐の4期後輩である。

 <ミッドウェー海戦における日本側の主力空母は、第一航空戦隊所属の「加賀」「赤城」、第二航空戦隊所属の「飛龍」「蒼龍」であり、第四駆逐隊は引き続き第一航空戦隊の護衛に任じていた。
(中略)
 それから「赤城」は機関室を破壊されて停止し、舵を失い、電気が消え、爆発をくりかえしながら、沈没を免れて漂流をつづけた。有賀司令は旗艦「嵐」を「赤城」の右舷に横付けし、消火作業を開始するとともに、艦隊司令部あて打電した。「今夜ハ赤城ノ警戒ニ任ジ、敵艦来ラバ、刺違エ戦法ヲモツテコレヲ撃滅セントス」

 しかし発電機がとまって消火ポンプが作動せず、さらに機関科員全員が窒息の危険にさらされていることが致命的であった。有賀司令は、艦自体は曳航して内地に帰投する可能性が絶無ではないが、火炎の延焼状況からみて、生存者の救助は一刻を争うものと判断し、艦長、青木泰二郎大佐にたいして、強く退艦を勧めた。艦長は固辞して譲らなかったが、有賀司令が「赤城の処置については、自分たちにお任せいただきたい。赤城乗組員を一人でも多く救出して再起を図るためにも、艦長に陣頭に立って退艦していただかねばならない」と再三懇願したので、ようやく移乗を決意した。時にその日の夜、七時半少し前であった。

 自力で操行不能な艦を漂流状態のまま放置しておくことは、戦況いかんでは、いつ何時敵から捕獲されるかもしれない危険にさらしておくにひとしい。青木艦長は、おそらく自問自答をくり返した末、艦隊旗艦の艦長としての責任と良心にかけて決断したのであろう。「赤城」の処分について、南雲長官に許可を求める電報を打ったのであった。

 南雲長官からの返信の代りに、後方にある山本連合艦隊司令長官から、「赤城は沈めないように努力せよ」という短い命令がきた。この命令には、長く「赤城」の艦長をつとめ、格別の愛着を抱いていた山本長官の感傷がこめられているに違いない、というのが通説である。また青木艦長が、このかけがえのない艦の処置について、指示を仰ぐのではなく、自沈処分を決めて許可を求めた態度が、上層部の心証を害したのではないか、という見方も有力である。「嵐」の司令室に収容されていた青木艦長は、事態の急変を見て、有賀司令の勧告にしたがったことを後悔し、「赤城」にもどしてくれと必死に懇願したが、「赤城」に近づこうとする作業そのものが、すでに危険きわまる状況であった。青木艦長は地団太を踏んで口惜しがったが、手足を取おさえられ、涙をのんで断念するほかなかった。

 戦況は悪化する一方であった。有賀司令は、山本長官の「処分見合わせよ」の命令にもかかわらず、「赤城」をわが魚雷で沈めることが最善の策であるとの結論に到達し、駆逐隊を「赤城」から二千メートルの距離に近づけ、「嵐」「野分」「萩風」の順に魚雷を一本ずつ射たせることとした。そのうち二本が命中して「赤城」が水中に姿を消したのは、翌六日の朝五時であった。
 (中略)
 青木大佐は、こうして、かならずしもみずからの意志によるものではないにしても、戦艦、空母クラスの大艦の艦長として、艦と運命をともにしなかった最初の艦長、という不名誉をになうことになった。

 一提督を養成するには、二十年、三十年という長い年月と、莫大な費用を必要とする。艦は沈んでも再製が可能だが、人間はそうはいかない。したがって、いかなる手段に訴えても人命の救出に万全を期するのが、米英の伝統的思想であった。日本海軍においても、中央の人事当局、作戦当局は、同じ発想を支持していたものと思われる。

 青木艦長の処置についても、しばらく閑職につけ、ほとぼりがさめてから前線復帰を考慮する方針であったといわれるが、山口、岡田、柳本、加来の各提督の悠容たる死に様を礼讃する声が高まるなかで、「艦を捨てて生還した艦長」を非難する世論には抗し切れず、早や早やと予備役編入の命令が下ったのであった。

 その日から、有賀司令の苦悩がはじまった。あの時自分がとった処置が、間違っていたとは思わぬ。四期後輩の自分の進言を受け入れてくれた青木艦長の度量にも敬服するが、結果としてみれば、多くの偶然が重なって、現職の軍人としては最も堪え難い屈辱が、青木大佐を待ち受けていることは事実である。しかも自分には、それを償おうにも、なすすべがない。

 そこへ、兵学校の同期会に呼び出された青木大佐が、満座のなかで罵られ、「クラスの面汚し」として、頭から酒を浴びせられた、という噂が伝わってきた。
 
 一言の抗弁もせず、されるがままに任せた青木大佐の心中を思って、有賀司令はただ暗然と、自責の思いをこらえるだけであった。>

(吉田満 提督伊藤整一の生涯 文芸春秋社 昭和52年11月)

 運命のいたずらは、時として、人を地獄においやる。

 青木大佐の無念を思うと言葉もない。

 この吉田満の本は、青木先生の形見分けの品の中にあった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-25 21:48 | トピックス | Comments(0)

侃堂丸山幹治

 丸山幹治のことである。
 今となっては、息子の丸山真男(丸山三兄弟の一人)が有名になってしまったが、その父君丸山幹治は、明治から昭和の戦後に至るまで長い期間にわたって新聞の第一線で活躍したジャーナリストである。

 幹治は、明治13年長野の出身、明治34年に東京専門学校卒業、新聞日本に就職した。そのいきさつを本人が書いている。

 <新聞記者生活にはいって五十二年になる。その前半の二十五年間は「日本」「朝日」「大正日日」「読売」「京城日報」など八社を転々とし、反対に、昭和三年「大阪毎日」に入社してからというものは、「硯滴」「余録」だけに生きた。

 私には、とにかく新聞運があったのである。「日本」に入社する時も、知人の紹介で社長陸羯南(実)翁を訪ね、面談しただけであった。東京専門学校(現早稲田大学)を卒業した明治三十四年、二十二才秋のことである。>

(丸山幹治  余録二十五年  毎日新聞社 昭和29年)

 本人の弁によれば、羯南社長の面談だけで入社したようだ。ただ好事魔多しというか、

<早速、見習として校正をしていたが、二ヵ月目に社説の副題に誤植を残したまま通してしまった。「爾今、出社に及ばず」という書留郵便を受取ったのはその翌朝であった。>

 入るのも簡単であったが、首になるのも早かったようである。

<これには私も途方にくれたが、知人の紹介を受け、青森で創刊する新聞の主筆になった。しかし、着任してみると、青森には伝統のある新聞がいくつもあり、悪戦苦闘半年ののちにはついに没落してしまった。二十三才の青年主筆はまた浪人となったが、青森の商業会議所書記長という、名前だけ御大層な役目について一年ほどお茶を濁していた。>

その後、青森の新聞の主筆になったようだが、このあたりは若き日の羯南に似ている。なれない土地で苦労していたようだが、その不遇の幹治にとって神風となったのが日露戦争であった。

 <私個人にとって幸いであったのは、日露戦争の勃発であった。早速帰京すると戦争で人手不足の「日本」に復社した。>

 人手不足であれ一度馘首した社員をまた雇用するというのは、明治の大らかさというか、社員の不祥事の対応に追われる現代の新聞社から見れば夢のような話であろう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-25 08:22 | 研究 | Comments(0)

空母 赤城艦長 青木泰二郎大佐 その一 

 空母赤城の艦長であった青木大佐は、このブログのスタートとなった青木先生の父君にあたられる。司馬さんは、<街道をゆく>の三浦半島記の中で、青木先生を父君青木大佐と対比しながら紹介しているが、その章は<ミッドウェー海戦>という題である。

  <この(ミッドウェーへの)航海中に、海軍記念日(5月27日)をむかえたので、赤城の艦長の青木泰二郎大佐は、後甲板に全乗員を集め、37年前の日露戦争勝利のあとの「連合艦隊解散の辞」を朗読した。・・・・その結句の「勝って兜の緒を締めよ」という文言を引用して、青木艦長が、将士のおごりをいましめた、という。>

  (司馬遼太郎 街道をゆく  三浦半島記  朝日新聞社)

 青木大佐は、海軍兵学校41期、大正2年12月19日の卒業、赤城へは、ミッドウェー作戦が始動する前月4月に着任したばかりであった。前任地は、土浦航空隊司令であった。

 青木先生に、東京の新聞社から、茨城の田舎の大学に来られて抵抗はないか、とお伺いしたことがある。

  <それは、給料は半分以下になるし、家族とは離れるし、君たちのような学生さんの相手はしなければならないし、とギャップは多いが、考えてみると親父も同じくらいの年で土浦に来たのだから、このあたりは青木家にとっては故地なんだな。>

 その頃は、青木先生が筑波に来られて2ケ月ほどであったので、父君のことも存じあげなかった。戦前に東京から土浦に仕事で来られるとは、どんな職業の方だったのだろう、と思ったのを覚えている。

 ちなみに、連合艦隊解散の辞は、秋山真之の作とされている。

たかぎ  
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by kuga-katsunan | 2007-03-24 08:50 | 研究 | Comments(0)

丸山真男と羯南  その四

 丸山真男は、前述の回顧談の中で、植手通有との対談<明治維新史とナショナリズム>の項、羯南の影響について述べている。

 <学生時代でいえば、ほかにも親父(丸山幹治)との関係で、陸羯南。
   「羯南文録」が家にあった。
とくに、広田弘毅内閣が、自由主義排撃を政綱に入れたとき(1936年3月)、親父が羯南の「自由主義如何」について書いて、ぼくにも、大したものだ、あの当時に西欧の自由主義をよく理解していると言ったんです。>
(丸山真男回顧談 下 岩波書店 2006年10月)

 「羯南文録」は、1938年の出版なので、丸山幹治は1936年のコラムを書く際には参照できない。羯南の没後まもなく明治43年に出版された「羯南文集」にはこの論文は掲載されていない。
初出は、新聞日本に明治23年に掲載された連作の社説であったので、そのスクラップをとっていたのか、もしくは新聞日本がシリーズで出版していた「日本叢書」の中に収録されていたのかもしれない。

 丸山幹治は、1936年当時は、大阪毎日のコラム「硯滴」から、東京日日に転勤になり、それまで政界ゴシップ中心であったコラムの「余録」を一般的な時評に転換しようとしていた時期であった。
当時の「余録」をひもとけば、羯南の論文についての批評が展開されているのだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-23 23:23 | 研究 | Comments(1)

千島艦事件  その二

 この<覆艦記事>によれば、

 <同艦は、仏国ロアール会社に託し明治二十二年十一月十一日を以て製造に着手、翌年十一月二十六日に漸く其工事を竣りて進水式を行ひ方に我邦に寄航するの途・・・・・・・其の相衝突するや我艦の気管直ちに破裂し艦体二つに折る時恰も未明にて船員尚ほ寝に在り僅かに甲板上に在りし艦長鏑木誠氏及士官土山哲三氏と外国人一名其他水夫を合わせて十六名の存命ありしのみにて乗組員総数七十六名の内右十六名を除くの他は都て海底の鬼となれり嗚呼痛哉>

  まさに外国製の新造艦が帰国直前、しかも自国の領海内で、イギリスの汽船と衝突して沈んでしまったのである。
  
  記事は乗組員の名簿を載せ、そこには士官、准士官全員の名前を掲げている。その中に羯南の従兄弟、軍医長である佐々木文蔚の名前もあがっている。
 羯南は、この事件に、まさか暫く見えていない親族の名前を発見して、その皮肉な再会を慨嘆したのではなかろうか。
  
  そして生存者十六名の名前も全員掲載されている。筆頭は前述の艦長心得鏑木誠大尉である。艦が沈み、生き残ってしまった鏑木艦長の心中は如何ばかりであったか。

  同時に、もう一人、生き残ってしまった空母赤城の艦長青木泰二郎大佐の事を思い出した。

たかぎ
     
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by kuga-katsunan | 2007-03-23 22:16 | トピックス | Comments(0)

青木先生の羯南

 青木先生は、司馬さんと羯南について、こんなことも書かれている。

<こうした司馬さんと私とのやりとりを踏まえ、しかもB君の<ジャーナリストを小説に・・・>という鋭敏な発想を耳にしての私なりの推論だが、司馬さんは、陸羯南と新聞<日本>の人々のいわば明治の知識人の孤愁といったものを通して、<日本・日本人>に迫ろうと、すでに<坂の上の雲>に続く大河小説の準備を終えていたのではないか。しかし、<小説はもう無理だ>という自覚から、せめて凡庸な私を助けて教壇から若者たちに、新聞ジャーナリズムについて伝えようと考えたのではなかったか。
 仮にその推理がマト外れでなかったとしても、司馬さんの真意を見通せなったおのれの不明を恥じるしかないであろう。
 さらに重大な後悔は、せっかくの司馬さんの提案を実現できないままに、彼をおくってしまったことだ。準備段階で私が一時体調を崩したことと研究者仲間の足並みがそろわなかったためである。
 <陸羯南のこと、ぼちぼちでいいではありませんか。小生のたわごとが、余計な手荷物をふやしたようで、痛みいる次第であります>という司馬さんの寛容さに甘えて今日に至ったことをどう詫びたらいいのか。私としては<司馬さんと新聞>という手荷物ならぬ重い荷物を背負って歩き続けるしかないと思っている。>

   (青木彰  司馬遼太郎さんと新聞ー陸羯南にみていた新聞人の原点
      産経新聞  1996年3月28日)

 <新聞人の原点>を探ろうという<重い荷物>は、松明の一つとして皆にきちんと手渡されたのだろうか。

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-22 04:48 | トピックス | Comments(0)

<司馬遼太郎の遺言>

 司馬遼太郎友の会の威力か、高円寺の市に行くと、司馬さんと青木先生が待っていた。
青木先生が社長をやられていた夕刊フジの編集による<司馬遼太郎の遺言>(産経新聞社、1997年2月)が棚に並んでいたのである。

 この本は、司馬さんの一周忌のタイミングに夕刊フジが司馬さんと親しかった人々にインタビューしたものをまとめたものである。先日の菜の花忌でも司馬さんの思い出を楽しそうに語っていられた田辺聖子さん、司馬さんの追悼番組で青木先生とも対談されていた半藤一利さんをはじめ錚々たる人々がインタビューに答えている。

 この中で青木先生が司馬さんと陸羯南について語られていることが、お二人の羯南に対する想いがよく現れているので再録させて頂く。

 <-司馬さんが亡くなって、一番の心残りといいますと
‘‘陸羯南の研究ですね。私が勤めていた筑波大学に羯南の講座を作ろうという提案が、昭和61年の暮れに司馬さんからあったんです。ところが、私が体調を崩していたのと、講座をつくるためのメンバーの足並みがそろわなくて実現できなかった。これはぼくにとっても、司馬さんにとっても大変心残りなできごとです。’’

ー司馬さんはなぜ、陸羯南の講座を作ろうとしたのでしょうか
‘‘まず、司馬さんは「坂の上の雲」の中で、日本人が近代国家を作るために努力した結果としての日露戦争を書きました。そしてその明るい明治国家をダメにしたものとして、司馬さん自身の戦車兵体験から、ノモンハン事件を小説にしたかったわけです。
 でも書けなかった。小説を書く体力がなかったうえに、ノモンハンを書くとなると、統帥権を通して、昭和天皇の功罪に触れざるを得なくなるわけで、司馬さんも、それにはまだ時機が早い、と言っています。’’

ーそこで、明るい明治国家をダメにしたものを別の角度から見るために、羯南が登場してきたと。

‘‘日本という国が明治の興隆からダメになっていく過程を描くとすれば、ジャーナリズムの責任という問題が出てくる。明治の言論界の巨峰である羯南のもとに集まった新聞人たちによって築かれた新聞ジャーナリズムが、昭和に入って衰弱したために、戦争ー敗戦につながったんです。軍人から描くと具合が悪いけど、文人を通してなら・・・・・という構想が司馬さんの中にあったと思う。
  司馬さんは小説ではムリなので、一緒に講義をしてジャーナリズムの偉大な先輩を今に残そうとしたんじゃないか。
  
ーー青木さんは中央公論9月臨時増刊号で、次のような一文を寄せている。文中の彼は司馬さんのこと。

 「彼(司馬遼太郎)は、新聞ジャーナリズムが近代日本の浮沈に深くかかわったという認識から、その現状と将来に英知(Wisdom)を求めてやまなかった。

  また、新聞記者には、無償の功名主義、という戦国忍者に共通する透明な職業意識を期待していた」
    <司馬遼太郎の遺言、夕刊フジ編集、産経新聞社、1997>

  <無償の功名主義>

  <透明な職業意識>

  ノーブレス・オブリージュというべきか、
  ともに失われやすく、重い言葉である。

 たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2007-03-11 22:11 | トピックス | Comments(0)

司馬遼太郎記念館友の会東京講演会

東京・内幸町の日本プレスセンタービル10階ホールで「司馬遼太郎記念館友の会東京講演会」が行われ、わが青木塾・陸羯南研究グループも特別参加。
今回は司馬遼太郎の義理の弟であり、記念財団専務理事記念館館長である上村洋行さんの講演。
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テーマは「坂の上の雲」

現在、同小説をめぐっては2つの大きなイベントが佳境に来ているという。

ひとつは本の舞台である松山市が「坂の上の雲」を題材に街づくりに取り組んでおり、その中心である「坂の上の雲ミュージアム」の開館が4月に迫っている。
このミュージアム。毎年テーマを変えて展示を行うそうで、現在記念館のスタッフが監修として参加している。

もうひとつはNHKのスペシャル大河ドラマ。2007年秋から撮影に入り、2009年から3年間にかけて合計15本をオンエアするという壮大なもの。だが、原作のもつニュアンスが伝わるよう、ストーリーの打ち合わせで月2~3回は脚本家と会っているとのこと。
どうしてもドラマを盛り上げるために恋愛シーンなどが強調されてしまうので、そのような場合は修正をおねがいしているという。

【未亡人の福田みどりさんも上村さんも、かねてから「坂の上の雲」の映像化には非常に慎重だった。一方NHKは何年もかけて交渉を続けてきた上でのことで、上村さんたちの懸念は十分理解していると思う。
しかし放送の最終年はアナログ停波の2011年。NHKのポリティカルな道具にならなければ良いがと。同業者であるが故の余計なお世話か。。。】

さて、きょうの講演である(とちょっと司馬遼太郎風)。

上村さんによると、司馬遼太郎は正岡子規が好きでこの物語をかいたという。
「坂の上の雲は近代化がテーマでした。日本語の近代化という意味では正岡子規と夏目漱石が果たした役割が大きいのです」
「日露戦争に突入するまでの30年間を礼賛するつもりはありませんが、この時代を生きた人たちの感覚は知る必要があるのでは。そういった意味においても特に若い人たちにこの本を読んでもらいたい」

その上で上村さんは正岡子規の育ての親である陸羯南についてこう語った。
「正岡子規をここまで包み育てた陸羯南の研究を、司馬は同じジャーナリストであり数多の教え子を育てた青木彰さん(注)に託したのです。そして青木さん亡き後、この研究が教え子である青木塾の人たちに引き継がれているのです。」

あらら、コアな司馬ファンの集まりで披露されてしまった!

陸羯南を研究している人、グループはほかにもいる。しかし司馬遼太郎直系で研究に携わっているということが、公認になってしまったのだ。

もう逃げられない。われわれはたかぎ研究主幹とともに一方通行の陸羯南道に突入したということだ。
ライターの皆さん。お覚悟を。

つかもと

注)青木彰は産経新聞から筑波大学教授に転進。同大学のマスコミ志望者を自宅で指導し、12年間で200人以上の教え子を世に送り出す。内80人は現在もマスコミやジャーナリズムの世界で活動中。この「青木塾」OBが、このブログの執筆の中心にいる。
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by kuga-katsunan | 2007-03-10 20:54 | ニュース | Comments(0)

千島艦事件  その一

 二面の電報欄で紹介されていた、千島の沈没については、同日の五面の雑報の中で、もう少し詳しく紹介されている。

   <軍艦千島号の沈没

 既に電報欄内にも記せしが如くなるが尚ほ海軍省に達したる電報に曰く

  今朝五時頃伊予和気郡堀江沖に於て我軍艦千島号は英船ラベナ号と衝突し千島は遂に沈没せり生存するもの十六人なり

と又た神戸通信者より我社に達したる電報に拠れば其要左の如し

  千島号の溺死者は七十四名なり
摩耶、武蔵、葛城の三艦は当港を出発して直に千島遭難地に向ひたり

とあり右に付海軍大臣は宮中に伺候して事の次第を上奏したり。
海軍大臣の官邸には伊東次官、山本大佐、村上書記官を初しめ相会して協議せり。
千島は去月二十八日神戸へ向け出発したるものにして我か新造の軍艦なり>

        (明治二十五年十二月一日  日本  1252号)

 通信社ならぬ通信者が神戸にいたことがわかる。
また、この文中
       溺死者は七十四名
       新造の軍艦
の二箇所は、大きな活字を使用して小見出しがわりにしている。

  そして翌十二月二日、二面には

           <覆艦記事>

と題して、三段ぬきの詳報を載せている。

たかぎ

     
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by kuga-katsunan | 2007-03-10 08:28 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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