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<   2007年 02月 ( 9 )   > この月の画像一覧

日本新聞社の位置

  先日、陸羯南研究会経営分科会を毎日新聞社で開催した後、折角なので日本新聞社のあったあたりに行ってみようという話になった。

  日本新聞社は、旧住所でいうと東京市神田区雉子町32番地にあったという。
講談社版の子規全集の月報の中に<日本新聞社の位置>と題する一文があった。(子規全集月報22(3巻),講談社,"1977,11)

 <日本新聞社の位置,神田区雉子町32番地,団団社の社屋,青ペンキ塗りの明治の初めにできたという木造の洋館,31番地は宮本仲宅,淡路町2丁目から佐柄木町21番地,雉子町30番地を靖国通りが貫通,淡路町交差点よりやや九段寄り,宮本家は小川町1丁目>

  文中の団団社は、明治初期から続いた<団団珍聞>を発行していた社屋で、日本はその社屋を譲り受けた。余談だが、<団団珍聞>は、実に面白い雑誌で、これはこれでじっくり読み込んでみたい作品が並んでいる。

  当然当時の洋館はあとかたもなく、今はそれとおぼしき場所にはビルが立ち並んでいる。当時は政友社もこの裏手にあり、人の行き来も盛んで、壮士風の人々の出入りも盛んだった、という。日本新聞での議論が高まると向かいの牛鍋屋に席を移して、談論風発夜が明けるまで続いたという。この雰囲気を伝える文章はないだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-02-25 20:55 | 紀行 | Comments(2)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその二

(資料2 篤麿から羯南への書簡  明治25年7月22日)
 拝啓、来月一日出発北海道行ニ付、貴社々員一名同行被為候義ハ前日之貴翰ニ而承知致居候。然ルニ小生巡回之日数ハ学校用之為、大ニ減縮致候事ニ相成、来月中ニハ是非帰京致さねハならぬ次第に而、予定通り之視察ハ思束なき事と存候。夫にても御同行被下候事なれハ、小生にとりてハ猶更結構ニ候得共、予定四十日以上之処二十日計ニ短縮致候事故、兎に角変更之事を御報告致置候。右不取敢、
早々
(ママ)四月廿二日                            近衛篤麿


     この書簡では北海道巡遊の日程が短くなったことを報告するとともにそれでも同行取材をしてもらえれば有り難い、との意を現している。日付が四月になっているのは七月の書き間違い、ここに出てくる<学校用之為>とは、おそらく篤麿が院長を勤めていた学習院のことと思われる。

        (資料3  篤麿から羯南への書簡  明治25年7月31日)
 拝啓、北海道行之義明日出発之心算ニ有之候処、両三日来、老父病気容体不宜、不得止出発延引仕候事ニ相成候間、三浦氏ニも此義御伝被下候様願度候。今日之模様ニよれハ、今年之北海行ハ到底六ヶ敷事と被存候。右不取敢申上候也。           早々
〔明治二十五年〕七月卅一日                       近衛篤麿
陸実殿
〔日本新聞社 陸実殿 急親披 近衛篤麿〕


 更に7月31には、父の病気の具合が悪いことを知らせ8月1日に出発の予定していたのを延期することを告げている。この中に、三浦氏という名前が出てくるのが同行予定の記者であろう。結局この巡遊は5日に出発することになる。
 篤麿が既に、新聞記者を連れて同行取材させることに重きをおいていることがよくわかる内容である。ヨーロッパ留学の実質的な成果の一つなのであろう。篤麿のこのメディアに対する鋭敏な感覚がやがて二人の結びつきを強めていくことになる。
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by kuga-katsunan | 2007-02-20 23:46 | 研究 | Comments(0)

弘前 禅寺街道

  やまだ先生の写真は、まさに弘前の一角にある弘前城主の菩提寺を中心とした禅寺の密集する街道の風景です。一説にはこれだけの数の禅寺が集中している場所は全国にも少ない、とのことです。

  昨年弘前へお伺いした際に、郷土史家で羯南の研究を続けられている稲葉克夫先生にお教え頂いたのですが、下の二枚の写真は津軽洋学の始祖・佐々木元俊の墓、更にその上は明治二十五年十二月の千島艦事件で亡くなった元俊の子文蔚の墓です。佐々木元俊と、羯南の父中田謙斉は従兄弟にあたります。

  詳しくは稲葉先生の近著<陸羯南の津軽>にありますが、そこからこの二人を紹介させて頂きます。

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-02-15 06:38 | 紀行 | Comments(0)

篤麿と羯南 中国・朝鮮視察

  つかもと先生が入手された本に掲載されている写真は、北清事変の翌年1901年7月から8月にかけて、篤麿と羯南が中国・朝鮮を視察した際の写真だと思います。一行は日本大使館・各地の領事館をはじめ東亜同文会の現地会員や中国・朝鮮の要人と会談をかさね日清戦争・北清事変以降、ますます列国進出が進行した現地の状況を感じ取ったようです。続きは、<篤麿と羯南>で考えられればと思います。

  たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-02-15 06:21 | 研究 | Comments(0)

弘前再び

弘前拉致行(昨年11月)ネタばかりで恐縮ですが、この写真は西茂森の禅林街。弘前城築城の翌年、城を建てた2代藩主津軽信枚が津軽一円から曹洞宗の寺院を結集。33に及ぶ禅寺が集まっている。
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この一角に羯南の先祖が眠る菩提寺もある。
以下は羯南直筆の墓碑銘のある墓ということで写真を撮ったもの。実は整理がつかなくなったので(どれがどれやら不明!)高木君の解説を待ちたい。
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やまだ
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by kuga-katsunan | 2007-02-13 17:23 | Comments(0)

青森20世紀の群像

東奥日報社刊の「青森20世紀の群像」を購入(2000年発行)。20世紀に活躍した青森出身の171人を記録した連載で、陸羯南はジャーナリズム5人の一人として取り上げられている。ちなみにほかの4人は明治の言論人・鳥谷部春汀、東奥日報中興の祖・山田金次郎、時事通信初代社長・長谷川才次、戦場カメラマン・沢田教一。ほかの分野に比べて人数が少ないのは、書いている自分たちがジャーナリストゆえ、ハードルが高くなっているためか。
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表題では陸羯南を『「徳義」求め言論に風』を起こした『明治日本の木鐸』と評している。
本文の冒頭でも福沢諭吉や内村鑑三など明治期の思想家の中でもひときわ、光輝く星だと持ち上げている。

プロフィールについては省略するが、条約改正にまつわる「欧化政策」に異議を唱え、法律・制度の運用に必要な政治家の責任を「徳義」と呼び、この見解を一貫して持ち続けたとしている。この「徳義」という言葉。青木彰が司馬遼太郎の言葉としてわれわれ塾生に伝えた「英知(wisdam)」と響きが似ていないだろうか。
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あとの記述は、これまで陸羯南や新聞日本について書かれたいくつかの読み物を超えるものではないが、ひとつ珍しいのは1901年に近藤篤麿らと朝鮮半島を視察したときの写真が掲載されていること。日本からの視察団員4人がいずれも鼻ひげを伸ばしているのに対し、かの地の人たちはいずれも民族衣装。顔の向きも日本人だけが斜め右上を向いている。当時、写真を撮るときのお作法があったのだろうか?

ps この本、定価3780円+送料。358ページ中陸羯南の記載は2ページ。青森県民には貴重な資料だろうが、当方には若干痛い出費となった。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-02-12 00:43 | 研究 | Comments(0)

明治二十二年二月十一日

 今日から約百二十年前の、明治二十二年二月十一日は、大日本帝国憲法発布の日、その同じ日に新聞日本は創刊されている。

 前年に、株式新聞であった東京商業電報を買い取って<東京電報>として再スタートされた羯南は、その経営の行き詰まりを、新たなコンセプトで発刊する新聞の立ち上げということで切り抜け<日本>の発刊に至る。

 都築七郎の小説で<政教社の人びと>という作品がある。昭和49年の出版で作者の都築氏氏は政治の世界からジャーナリストに転じ、<右翼の歴史>、<頭山満>、<馬賊列伝>などの著作を世に出した。<政教社の人びと>は、<日本>の発刊から始まっている。

  <前夜からしきりと降り続いていた雪も、どうやら小止みになった。しかし気温はまだ零度以下で、日本新聞社の編集室は冷えびえとしていた。(中略)
    新聞の紙面は論説を第一とし、報道を第二としたので、政治、教育関係のニュースはあるが、社会記事いわゆる三面記事は一切なく、商況欄は物価表があるだけだった。>

  創刊号は羯南の有名な
<新聞紙たるものは政権を争ふの機関にあらざれば即ち私利を射るの商品たり。>で始まる。
新聞<日本>のよってたつところは、この創刊号の巻頭の辞に尽くされている。
時代は日清、日露の戦争を経て二十世紀の荒波へと進んでゆき、新聞もその方向を変えつつある中で<日本>は一人孤塁を守るための戦いを始めることになる。

 同日、憲法発布の式典の出席しようとしていた文部大臣の森有礼(薩摩)は大臣官邸で、国粋主義者の西野文太郎(長州)に斬られ、翌朝亡くなる。そういう時代であった。

たかぎ
    
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by kuga-katsunan | 2007-02-11 14:35 | トピックス | Comments(0)

<羯南と篤麿>“近衛篤麿日記”・書簡を読むーその一

近衛篤麿と羯南 陸実、公家筆頭の御曹司政治家と日本最北の藩出身で野に下った言論人、この出自を全く異にする二人の出会いが、新聞日本の経営を救い、明治日本の進む新たな方向性―<国民主義>の創出に寄与するはずであった。


1.羯南と篤麿との出会い

     羯南の全集には、彼が出した手紙、受け取った手紙の双方が収められている。    羯南が篤麿に出した手紙としては、明治32年3月7日の同文会の幹事についての手紙が最初のものとなっているが、逆に篤麿から羯南への手紙は、明治25年7月20日、とかなり早い時期のものが納められている。内容は8月に予定していた篤麿の北海道視察に、日本新聞社からの同行取材に応じて、誰が取材に同行するかを尋ねるものとなっている。

     資料1  篤麿から羯南への書簡 明治25年7月20日
近衛篤麿より
 拝啓、北海道道行之義、来月一日出発之事ニ内定仕候。就而ハ貴社新聞記者一名同行
被成候やの御話有之候趣、其氏名承知仕度、又出発以前ニ一夜面会仕置度候間、何卒其人
御紹介被下候様致度候。
草々
〔明治二十五年〕七月廿日                        近衛篤麿
陸実殿
〔神田 日本新聞社 陸実殿 親展 近衛篤麿〕


  篤麿は、30歳になったばかりとはいえ公家筆頭の家柄、6年間のオーストリア・ドイツ留学から帰り、貴族院議長を勤める、将来を嘱望される少壮の貴族政治家であった。
かたや羯南はといえば36歳、弘前藩士で藩医の家に生まれ、内閣官報局編集課長から在野の新聞、<東京電報>、<日本>、を起こし、漸く軌道にのってきたところであり、個人的にも<近時政論考>を著し、明治の言論界の一角をなさんとしつつある言論人であった。
 生まれは全く違う二人であったが、明治新国家の建設という意味では、存外共感しうるところを持つ出会いであったのかもしれない。この巡遊は、8月5日から31日まで続き、この視察結果をもとに翌年貴族院へ北海道開発に関する建議がなされ、3月には、北海道協会の設立、その会頭への就任、へと発展していく。
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by kuga-katsunan | 2007-02-04 04:43 | 研究 | Comments(0)

<復活>  その二

 内田魯庵は慶應四年、即ち明治元年の江戸生まれ、彼もまた明治の子といえよう。

 幕臣の子であり、立教学校、東京専門学校などで英語を学び、文部省の翻訳の職にあった叔父井上勤の指導を受けながら文学に目覚めていったようだ。魯庵については既に山口昌男、坪内祐三などの先行研究(特に坪内の明治文学のシリーズ)に譲るが、結局彼は1892年ドストエフスキーの<罪と罰>を訳し翻訳家としてのキャリアーをスタートする。

 彼の語学的背景から英語からの重訳であったがその後もディケンズ、デュマ、ゾラ、モーパッサンなどを訳し、この<復活>に至る。

 明治以降の日本におけるロシア文学の受容は、1888年に二葉亭四迷のツルゲーネフの翻訳(めぐりあひ、あひびき)などが先行しているが、二葉亭の翻訳は、翻訳というよりは、むしろ彼自身の作品に近いのではないだろうか。ロシア語からの翻訳、英語からの重訳、種々の形で日本の翻訳文化は展開していった。

 魯庵は、<復活>の掲載開始の社告のあとに明治三十八年四月三日の新聞日本に<トルストイの復活を訳するに就き>という文章を載せている。


たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-02-03 07:49 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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