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<羯南と古島一雄>(72) 私立大学評判記(その61)

 「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」が続く。

 古島一雄は次に、矢野次郎を福沢諭吉と比較し、それぞれの特徴を浮き彫りにする。
 まず体つきについて。

 「彼(矢野)の体格は福沢氏の如く偉大ならざるも、其長身痩骨嶄々(ざんざん)として厳角の孤松の如きもの却て其清峭(せいしょう)を見る」

 福沢の身長は173㎝、体重も70.25㎏であり、当時としては筋骨たくましい大男であった。一方、矢野は細身で長身と、“かっこいい”スマート体型だった。
 そして彼らの表現力を以下のように語る。

 「彼は福沢氏の文章なきも、其談論は却て之に優るものあり、彼は福沢氏の如く用意周到ならざるも、其襟懐の洒脱は却て之に優るものあり」

 矢野は福沢に文筆でかなわなかったが、弁がさわやかで、あかぬけていた。
 語り口にも次のような特徴があった。

 「福沢氏は其平民主義を鼓吹せんと欲してか好んでベランメー語を遣ひし、或はゲンコ、ドテなど車夫の符号を口にし、或は『親父橋の矢大臣を知らネーカ』と誇り却て其野卑たるを知らず、彼は純粋の江戸語を行るに三分の英語を用ひて其の粋気を示す」

 福沢の口調は、ベランメー調で、気の荒い車夫の言葉を使用し、ずいぶん威勢のいい、ある意味、乱暴にも聞こえる話し方であったようだ。他方、矢野は、東京弁に英語を交えて話をするという江戸っ子の洗練さがある。しかし、これは相当キザにもみえただろう。

 最後に、古島は矢野を「豈に江戸ッ子の好標本にあらずや」とまとめている。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-03-29 09:55 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(71) 私立大学評判記(その60)

 さらに今回も「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」である。

 「彼が初め此の養成所を作らんとするや富豪岩崎氏に謀る。岩崎氏之を諾して其管理を専にせんとするや彼頑として応ぜず。遂に森有礼子に謀りて今の高等商業学校(現・一橋大学)を興せリ」

 と、古島一雄は高等商業学校創設の顛末を語る。実は、これは新たな発見である。高等商業学校は、前述(<羯南と古島一雄>(68))のように、定説では、森が主導し私塾として設立したとされている。しかし、古島はそもそも矢野次郎自身が設立を構想し、森に働きかけて実現したものであると言う。しかも森の前に岩崎弥太郎のところへ話を持って行ったとも語るのである。

 このことは過去の資料を調べても出てこない。明治36年(1903年)に出版された実業之日本社編『当代の実業家人物の解剖』に掲載されている「矢野二郎を論ず」にもその記述はない。

 そこで記述されているのは、次のことである。
 当時、商法講習所(高等商業学校の前身)の所長であった森が外交官として海外に出向しなければならなくなり、後任探しで、東京会議所会頭の渋沢栄一が、副会頭の益田孝に相談し、益田の盟友であった矢野が推薦され所長に就任した。矢野は、当時、代理公使としてアメリカに駐在した後、帰国し外交官を辞職したばかりであった。

 上記の古島の説によれば、矢野こそが高等商業学校の創設を主導したということになるのであるが、この記述だけでは判断が難しい。

 なお、矢野次郎の「次郎」の表記について、現在は、「二郎」と表記されている。これは、彼の幼名が次郎吉であり、当初、「次郎」と名乗っていたが、通称として「二郎」を署名に使用し、それが、晩年になって「二郎」に統一するようになったということである。 

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-02-27 11:07 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(70) 私立大学評判記(その59)

 今回も「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」が続く。

 「而して矢野氏の教育家たるを知らざるは何ぞ」

 と、古島一雄は主張する。当時、矢野次郎は前回紹介した福沢諭吉たちのように、教育家として世の中に知られていなかった。

 古島は続いて「世に高等桂庵なるものありとせば彼れは即ち其人なり」と述べる。ちなみに、桂庵とは「雇い人・奉公人の斡旋を職業とする人」(『大辞林』三省堂)のことであるが、ここではサラリーマンや職業人を養成する学校、また学校経営者・教育者を意味する。

 そして、矢野が高等商業学校のために十数年にわたって奔走し、多くの学生が矢野をしたって入学してきたと紹介する。

 次に「彼れが桂庵は尤も繁盛したるものにして又た最も勉強せる桂庵なり」と述べ、高等商業学校自体を高く評価する。

 しかも矢野の学校経営の姿勢に対して以下のように、最大級の賛辞を送っているのである。

 「己の為めにあらずして人の為めなり、人の為めにあらずして世の為めなり、故に彼れは己の商売を利せずして人の商売を利せり。人の商売を利するのみならずして世の商売を利せり」

 さらに、次のように続ける。

 「日本に於ける通商貿易の機関の大半は、実は彼れの桂庵事業に依て整頓せられたるを知らば、彼れの桂庵なるの功も亦た偉大ならずや」

 次回はさらに詳しく矢野について語られて行く。いつも辛口の古島がここまで賞賛する矢野とはいったいどんな人物なのだろうか。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-01-25 09:49 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(69) 私立大学評判記(その58)

 今回は引き続き「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」である。古島一雄は「世人は福沢氏の教育家たるを知る」と述べ、以下のように続ける。

 「世人は新島氏の教育家たるを知る。世人は加藤、浜尾、久保田、山川、木下、伊沢、高嶺、嘉納諸氏の教育家たるを知る。」

 このように古島は当時の大学教育を牽引するリーダーを取り上げるのであるが、少し詳しく各人を見ておこう。

 福沢とはもちろん慶応義塾大学の創設者、福沢諭吉のことである。また新島とは、同志社大学の創設者、新島譲である。両名は当時でも世間によく知られていた。

 一方、加藤とは東京大学の初代総理(総長)、加藤弘之のことである。彼自身はドイツ学の専門家であり、官界学会で多数の要職を歴任した。また、浜尾とは浜尾新(あらた)であり、東京帝国大学の3代目総長となり、文部大臣にも就任した。古島が上京した際の身元保証人でもあった。

 
 久保田とは久保田譲(ゆずる)である。広島師範学校(現・広島大学)初代校長を務め、文部大臣にもなった。山川は山川健次郎のことであり、東京帝国大学総長を始め、九州帝国大学と京都帝国大学の総長を歴任した。日本人として最初の物理学教授でもあった。

 そして、木下は木下広次のことであり、京都帝国大学の初代総長を務め、また第一高等中学校長でもあった。伊沢とは伊沢修二であり、東京師範学校(現・筑波大学)校長、東京音楽学校(現・東京芸術大学)、東京盲唖学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)の校長を歴任した。また、大学教育改革論者として有名であった。

 高嶺とは高嶺秀夫のことである。東京師範学校、東京高等師範学校(現・筑波大学)、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)東京美術学校(現・東京芸術大学)、東京音楽学校の各校長を歴任した。

 
 嘉納は嘉納治五郎のことであり、東京高等師範学校、東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、第五高等中学校(現・熊本大学)の各校長であった。しかし、むしろ講道館を設立し、柔道の創始者として知られているだろう。 

 ここから官立、私立を問わず、当時の教育家として知られた人々がよくわかる。

いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-12-28 12:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(68) 私立大学評判記(その57)

 今回は、明治36年(1903年)11月23日付「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」である。
 ここでは、高等商業学校(現・一橋大学)前校長の矢野次郎が取り上げられている。

 その前に、まず高等商業学校の歴史を振り返っておこう。
高等商業学校の起源は、明治8年(1875年)9月設立の「商法講習所」である。後の明治18年(1885年)初代文部大臣として日本の教育システムの骨格を作った森有礼が、福沢諭吉と渋沢栄一の協力をえ、私塾として東京銀座尾張町に創立したのであった。生徒数30人足らずのスタートだった。

 明治政府は当初、商人教育を無視したが、欧米への留学経験のある森は高等教育機関としての商人教育の必要性を感じていた。実に卓見であった。

 しかし、創立直後に森が外交官として中国へ行くことになり、森は東京会議所の頭取だった渋沢へ東京会議所への移管を依頼、その付属となった。翌明治9年(1876年)に東京会議所が閑散となったので、東京府へ移管され、ここで矢野次郎が所長となる。矢野は幕府御家人の子弟であったが、新政府では外交官となり、森のアメリカ在任中に部下であった。

 さらに変遷があった。明治17年(1884年)に農商務省に移管されて、「東京商業学校」と改名。明治18年(1885年)には文部省へ移管され、明治20年(1887年)改組とともに「高等商業学校」となったのであった。 

 本文に入ろう。古島一雄はまず、次のように語っている。

 「吾人が前章に示したる事実をして誤りなからしむれば我が実業界に向いて人材を供給したるものは慶応義塾と商業学校なりと云うを得べきと共に吾人は高等商業学校の前校長たりし矢野次郎其の人を連想せざるを得ざるなり」

 矢野は実に18年間にわたり、高等商業学校の校長としてその発展に尽力したのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-11-28 09:30 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(67) 私立大学評判記(その56)

 間が空いてしまって申し訳ない。今回は「私立大学評判記(二十)慶応義塾大学部(五)四校理財科の比較」の後半に移る。

 古島一雄は、次のように指摘する。

 「其出身者が如何なる方向に配置分布せられたるやを吟味すれば殊にその本質なるものあるを知る」

 つまり、慶応義塾大学、早稲田大学、高等商業学校(現・一橋大学)、専修学校(現・専修大学)のそれぞれのカリキュラム違いは、卒業後の進路として顕著にあらわれているというのである。

 慶応義塾大学の進路については、以下のとおりである。
 
      銀行                   231人
      会社                   440人
      独立して商業を営むもの       151人
      自家に在て諸種の事業を営むもの 132人
      官吏                    94人

 銀行や会社へ進む者が全体の6割、また、「独立して商業を営むもの」という現代でいえば起業家が15%を占めていた。当時は民間企業数自体が少ないということもあるが、チャレンジ精神も旺盛であったといえるだろう。

 そして、「自家に在て諸種の事業を営むもの」は、今では民間企業の経営者の後継者にあたり、2代目社長も多かった。そもそも慶応は、平民の富裕層出身者が多数を占めていたのである。したがって、「其割合には官吏若しくは府県会の議員たるもの少な」いのであった。

 また、早稲田大学は、以下の数字が上がっている。

      銀行・会社員         297人
      新聞記者           280人
      府県会の議員         135人
      町村吏員           185人
      官吏              240人

 慶応に比べれば、新聞記者や府県会の議員が多く、ここが早稲田の在野精神の特徴として現れるところである。しかし、意外と官吏、町村吏員も多い。  
古島は、「早稲田が重きを公法に置き、慶応義塾が力を私法に費やせる結果の如何に明白なる分岐点を生せるを見るべし」と指摘する。

 さらに、高等商業学校(現・一橋大学)を見てみよう。
  
      銀行・会社員         620人
      独立商業            43人
      自宅営業            58人
      新聞記者            3人
      官吏               85人

 圧倒的に銀行・会社員が多く、起業家も経営後継者もいる。やや慶応に似ている。

 専修学校(現・専修大学)はどうだろう。

      銀行・会社員         171人
      独立商業             3人
      自宅営業             93人
      官吏               265人

 意外と官吏が半数を占めていることがわかる。
 以上をふまえて、古島は「要するに慶応義塾と高等商業学校は実業家を産し早稲田は政治家を生み、専修学校は官吏を作ると言うの決して空言にあらざるを見る」とまとめ、当時のそれぞれの学校に対する社会の評価を伝えている。

 カリキュラムや卒業後の進路を見ると、それぞれの学校の特色がよく出ていることが確認できる。学校といえども社会のニーズを背景とした社会的存在なのである。専修を除き、各校ともこの特色は、現在においてもつながっているともいえるのではないだろうか。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-10-26 09:29 | その他 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州③)

 金州は、かつて旅順や大連に港が設置される以前、遼東半島の先端地域の中心であり、城壁に囲まれた都市であった。

 われわれ一行は、その面影を見学したいと思っていたのだが、中国人ガイドによると、城壁はまったく跡形もなく残っていないという。ただ、城壁都市の模型を金州博物館で見ることができた。

 それは5メートル四方の模型ではあったが、目の前にすると模型でも迫力を感じた。実際の大きさは、東西600メートル、南北760メートルの長方形で、レンガ城壁の高さは6メートルあったという。巨大な城壁に囲まれて壮観であったと思う。

 金州博物館は、他に日清・日露戦争の資料も展示されていたが、書いてある内容を知ると複雑な思いがした。

 当日の博物館はわれわれ一行だけであった。まだ新しい建物であり、一般開放されていないのだろうかと不思議に思った。また、図録もいいものがなく、りっぱな施設であるだけに残念でならない。

                               
 
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金州博物館の玄関

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当時の城壁のパネル

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-09-29 13:25 | その他 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州②)

 われわれ研究会一行は、初日、金州副都統衙門博物館へ行き、正岡子規の句碑を見学した。金州副都統衙門は清時代の役所があったところで、その跡地が現在、博物館となり、そこに子規の句碑が設置されている。

 この句碑は、昭和15年、当地に住んでいた日本人篤志家によって建てられたものである。設立の経緯については、当ブログ2007年10月30日の高木主筆による「金州の句碑 従軍記者 子規」に詳しく書かれているので、ぜひ一読いただきたい。

 さて、子規の従軍記者としての金州行きは『坂の上の雲』に詳しく描かれている。子規は従軍記者になりたくてどうしようもなかった。彼は思い立ったらそれを達成するまで気が済まないところがあり、陸羯南にことあるごとに願い出たが、羯南は彼の体のことを知っていたから退けていた。だが、ついに羯南も根負けし中国行きを許可する。

 ところがすでに戦争は終わっており、「結局こどものあそびのようなものにおわった」のであった。子規が日本を出発したときには、下関に李鴻章が来て講和談判が始まっていた。
 
 結局、この金州行きは子規にとって、結核を悪化させ死期を早めることになったのであるが、彼はまったく後悔していない。なぜ子規は死を賭してまで従軍したのであろうか。

 ひとつは、上述の『坂の上の雲』にあるように子規の性分によるところもあるだろう。しかし、最大の理由は、俳句の自立という自己の使命の遂行にあった。(これは米田利明氏の説による。)

 子規から河東碧梧桐と高浜虚子への手紙に次のような一文がある。

 「戦争は国民精神を刺戟し、殖産工業から学問美術まで新たになろうとしている。文学もまた然り、それに志すものは、その準備をしなければいけない。自分はたまたま新聞界にいるので記者として従軍することができる。この機会をいたずらに逃すとしたら、愚かだろう。『是(ここ)に於て意を決し軍に従ふ。』」

 子規には、当時、俳句の立つ場所を確立するという使命があった。
「騎兵や海軍が既に社会に場所を与えられているのとちがって、俳句の立つ場所を作ることが必要だった。藩=国から疎外されたところにこそ文筆の道があり、そこにしか自己の生きる場所がないとしたら、役に立たぬと思われているものを、社会に認めさせ、自立をかちとろうとする志が生じていたと思われる。」

 国文学者で歌人でもあった米田氏は「子規の従軍」(『文学』1973年3月号)に以上のように述べている。ちなみに、これはネットの日本ペンクラブ電子文藝館から読むことができる。

 子規は俳句にかける情熱だけで生きてきたのではないだろうか。いやだからこそ年若く死の病を患ったにもかかわらず多少の生を得て、俳句の自立を目指し業績を積むことができた。しかも後輩にもその情熱が伝染し、彼らが子規の後を引き継ぎ、その使命を果たすことになったのである。

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                                       子規の句碑

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-08-29 10:18 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(66) 私立大学評判記(その55)

 今回は新たに「私立大学評判記(二十)慶応義塾大学部(五)四校理財科の比較」に入る。古島一雄は、慶応義塾大学部と早稲田大学の理財科(現在の経済学科)課程の比較を踏まえ、まず次のように述べる。

 「更に慶応義塾出身者が競争の敵手たる高等商業学校の課程に見れば又著しき相違あるを見るべし」

 当時、高等商業学校(現・一橋大学)がライバルであったことがわかる。また、そのカリキュラムを以下のように紹介している。  

○高等商業学校本科
  学科       第一年毎       第二年毎       第三年毎
           週時間        週時間        週時間
商業道徳       一    
商業文        一          一
商業算術       二          三
商業地理       二          二
商業歴史                             三
簿記         二          二          一
機械工学       一        
商品学        二          二
経済学        三          二          一
財政学                              二
統計学                              一
民法         三          二          一
商法                               四
国際法                              二
英語         六          六          六
仏、西、独、 
伊、清、露、     三          三          三
韓語の内一語   
商業学        三          六
商業実践                             八
体操         三          三
時間合計       三二         三二         三二

 古島は高等商業学校のカリキュラムが、「如何に実用的なるかを見る」と指摘するように、この当時、実社会で通用する学問となっていたことがわかる。
さらに、彼は専修学校(現・専修大学)の理財科のカリキュラムを以下のように取り上げて比較する。

○理財科(財政に重きを置く) 
第一年
経済大意、経済史(日本)経済学各論(貨幣論)帝国憲法、民法総則、民法物権、社会学、万国歴史、統計学、簿記学、経済地理、
第二年
銀行論、行政学、経済学各論(農業政策、工業政策、商業政策)民法債権、商法総則、商行為、純正経済学、刑法総論、簿計学論策
第三年
財政学(汎論及経常歳入論)金融及財政、経済史眼、社会政策、予算会計論、経済学各論(交通政策)親族及相続、商法(会社及手形)海商、国際法、国際私法、政治史、刑法各論、論策(科外)銀行実務論、保健政策
随意科 
英語経済学、財政史、商業実践論、経済貨物論

 古島は「読者は一々吾人の指摘を待たずして一目の下に其の課程の如何に官吏養成的たるやを発見すべし」と指摘する。

 意外に思うかもしれないが、明治13年(1880年)に法律科と経済科(後に理財科に改称)をもって開学した専修大学は、当時、すでに法律科を廃止し、理財科のみであった。このように明治30年代半ばでは、慶応、早稲田、高等商業学校、専修学校が競合関係にあったことがわかる。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-06-28 09:43 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(65) 私立大学評判記(その54)

 今回は「私立大学評判記(十九)慶応義塾大学部(四)」の後半である。
 前回の最後に古島一雄が以下のように語っていた。

 「吾人は慶応義塾が実業界に於いて人材を供給せし偉功を認むると共に其の理財科を見る。特に注意を要するものあるを認む」

 そこから「試みに其の課程表を取って之を早稲田大学に対照せん乎」として、次のように、慶応義塾大学部と早稲田大学の課程表、すなわち週あたりの授業時間を比較する。(これは、当時の大学課程が3年間であり、それを合計した数字のようだ。)

 ○理財科
           慶応義塾       早稲田
 経済原理       三時間(随意)    九時間
 経済史        四時間        二時間
 経済学史       三時間        二時間
 財政         四時間        五時間
 応用経済       九時間        六時間
 統計         一時間        二時間
 公法                    九時間
 私法         二十七時間      十時間
 英語         三時間        六時間
 独仏支那語      六時間(支那語なし)十五時間
  計        六十時間      六十六時間
 ○政治科       
           慶応義塾       早稲田
 政治学憲法+             
 行政国際法     十二時間      十九時間
 政治史外交史      二時間       八時間
 経済財政       三十時間      十一時間
 私法         廿三時間       七時間
 独仏語         六時間      十五時間

 以上から、古島は次のように分析している。

 「先ず其理財科に見よ。早稲田が経済原理に九時間を費やすにも拘わらず慶応義塾は三時間として而も之を随意となせるが如き。早稲田が公法に九時間を費やして慶応義塾は一切之を省けるが如き。早稲田が私法に費やす時間は僅かに十時間に過ぎざるに慶応義塾は二十七時間の多きを費やせるが如き。早稲田の応用は六時間なるに慶応義塾は九時間を費やせるが如き」

 そして、以下のように慶応と早稲田のそれぞれのカリキュラムの特徴をまとめている。

 「慶応義塾が重きを置く処と早稲田が力を用ゆる処と各々其の趣を異にするを見るべし、殊に其の政治科の如き早稲田は重きを公法政治史に置き、慶応義塾は重きを経済私法に置くが如き」

 そして、このカリキュラムが卒業後の進路につながっているのであった。

 「其の人材養成の目的が全く其の方向を異にせるを見るべきにあらずや。慶応義塾は曰く文明的の紳士を作らんと。故に其の門下の民間実業家たるもの多し。早稲田は曰く立憲治下の良民を作らんと。故に其の門下の議員若しくは新聞記者たるもの多し。一は実務の人となり、一は評論の人となる。其の淵源する所を尋ねて其の帰する所を見れば豈に多少の興味なからんや」

 すでに明治36年当時には、慶応と早稲田のそれぞれの特色が確立していた。そして、その伝統は現在にも引き継がれているのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-05-25 10:24 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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