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<羯南と古島一雄>(82) 私立大学評判記(その71)

 学校の存続にとって、何がポイントなのかをまとめてみたい。

 まず、押さえておかなければならないのは、「学校は社会的存在」ということである。つまり、学校は人間の幸福のため、社会に必要な教育を提供することが求められる。

 したがって、学校そのものが、その時代の世界観・価値観の反映であり、いわば、時代を映し出す鏡でもあるのだ。

 さらに、社会的存在ということは、社会の要請、ニーズの変化によって、学校も変わることが求められる。

 未来学者のドラッカーは、会社は社会のために存続し、利益のためではなく、人間の幸せに導くために存在している、と述べているが、学校も同様である。いや、むしろそれ以上に学校こそが、人間の幸福のための根本的基盤として存在しているのである。

 歴史を振り返れば、明治時代前期、明治維新という時代転換期に存在した学校は、江戸時代、教育の中心であった儒学中心の藩校や私塾ではなく、西洋の学問や外国語を教える、新たに設立された私塾であった。もちろんその中には、慶応義塾も含まれている。
 

 明治中期には、日本が立憲国家となり、法律制度を支える人材が求められ、その養成機関として数々の法律学校が設立された。それが現在の中央大学、明治大学、専修大学等の前身であった。

 明治後期の法律系大学では、棲み分けが行われていた。それが、英米法の中央大学、フランス法の明治大学であり、専修大学は、当初、英米法の法律科が中心であったが、志願者激減のため、経済科中心に移って行った。

 大正時代になると、第一次大戦による経済発展を迎え、大学、専門学校卒業生への企業による需要が増大したため、官公私立の大学、専門学校が増設された。

 また、それまで大学の呼称を使用していたにもかかわらず、制度としては専門学校であった慶応義塾大学、早稲田大学等の私学は、大学令によりようやく正式な大学と認められた。 
 
 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-02-26 09:36 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(81) 私立大学評判記(その70)

 引き続き「慶応義塾の寄宿舎」(天耳生『慶応義塾学報』第70号)からである。本来、教育の中心であるはずの講堂(当時はここで授業をしていた。)について、以下のように批判されている。大事なところなので、少し長くなるが引用する。

 「元来学校の学風というものは、殺風景な講堂内の机の上で製造せらるべきものではない、もともと講堂といふものが学芸の売買場なので、理屈家は種々の鹿爪らしい理屈を付けて、講堂は神聖だのと、一応は有難いことをいって見るものの、実は矢ッ張り勧工場の様なもので、教師は売手で、生徒は買手、教師は講堂へ店を張て、生徒が之を買ひに来るといふ仕掛なのである。」

 「勧工場から学風が出たためしがない以上、また講堂から学風が湧て来る道理はあるまい。ケンブリツヂ大学や、オツクスフオード大学の学風はその寄宿舎に存するといふではないか、本来寄宿舎は学校の中心たるべき所なので、所謂品性の陶冶は、即ち此処で成就さるべきものである。」

 上記に語られているように「学風」が学校の存続にとって重要な要素となる。学風が学生間、また教員との一体感を生み、連帯感を強化する。また、それが学校の個性ともなのである。この「学風」という組織風土こそが学校の本質とでも言ってよいのかもしれない。

 学風は寄宿舎という学生同士が毎日、顔を突き合わせる場で、勉学に切磋琢磨するだけでなく、日常生活や“釜の飯”を共にし、全人的なかかわりのなかで育まれて行くものなのである。

 既に古島一雄が当時の授業をルポルタージュして述べていた(<羯南と古島一雄>(77))ように、講堂では教師が講義ノートを一方的に読み上げるだけの授業が行われていた。ここからは学風は生まれない。慶応の学風である「独立自尊」が醸成されたのは講堂ではなく、寄宿であった。
 天耳生は、以下のように述べている。

 「慶応義塾の本色がその寄宿舎に在るといふのは取りも直さず之なので、学校を一家と見れば、講堂はその店頭で、寄宿舎はその家庭である。慶応義塾が五十年来の教育主義は即ち此処で実現せられたので、慶応義塾の寄宿舎は慶応義塾其物であるといふことが出来る。若しも今此慶応義塾からその寄宿舎を取去れば、慶応義塾は最早ゼロで、今の偏狭固陋の教育主義に抗戦して『独立自尊』の光輝を発揚すべき唯一の武器を失ったものといわねばならぬ。」

 学校にとって「学風」の重要性というのは現在でも変わらない。次回、学校の存続にとって何がポイントなのか、もう少し深く掘り下げてみようと思う。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-01-21 10:16 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(80) 私立大学評判記(その69)

 「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る前に、今回は『慶応義塾百年史中巻(前)』から、明治36年(1903年)10月刊の『慶応義塾学報』第70号に紹介された「慶応義塾の寄宿舎」を取り上げよう。

 これはその年4月に大学部政治学科を卒業し、普通部教員兼寄宿舎舎監となった板倉卓造が、天耳生というペンネームで記述したものである。当時、慶応義塾の寄宿舎とはどのような意味があったのだろうか。実は、それが学校教育の本質につながるとらえ方なのである。
 まず、次のように始まる。

 「偏狭固陋の教育主義が横行する今の世に、若し私立学校存立の必要がありとすれば、そはこの偏狭固陋の教育主義に対して反旗を翻へすものでなくてはならぬ。是れ即ち私立学校の天職で、またその主たる存立条件である。慶応義塾が五十年来、『独立自尊』を標榜して、新教育主義を鼓吹しつつある所以のものは、即ちこの天職を全うせんが為めである。」

 「偏狭固陋の教育主義」とは、官立学校のように国家に奉仕する人間を養成するための教育を意味すると思われるが、それに対し、私立学校の雄を自負する慶応には、「独立自尊」という個人の自主独立の精神を 学風として培ってきたとする心意気を感じさせる。
 そして、以下のように続く。

 「しかしながら、一言に慶応義塾といへば何人も三田の丘頭に聳ゆる巍たる赤煉瓦の建物を連想するであろうが、慶応義塾の本色は、蓋しこの中央の建物よりも、寧ろ丘の北隅に横臥せる長方形の寄宿舎に存するのである。」
 

 慶応の教育の本質は、授業をする講堂にあるのではなく、生活の場である寄宿舎にあるという。古島一雄も同様な見方をしていた。
 次回はさらに掘り下げられていく。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-12-28 07:38 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(79) 私立大学評判記(その68)

 今回は「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」の最終回である。
 学生自治による食堂の運営は以下のように行われていた。

 「賄方に於ける十数名の行政官(名ヅケテ炊事委員ト云フ)は凡て寄宿舎生の選挙より成るものにして、之を分かちて仕入係、消費係、器物保管係、会計検査係、食事衛生係の五課と為す。仕入係は米肉野菜薪炭其の他一切の原料の仕入れを司り、消費係は原料の如何に消費されつつあるやを監督す。器物保管係、会計検査係は読んで字の如く。食事衛生係は食物器物食堂の清掃を保持するの責を有す」

 当時すでに学生による選挙という民主的制度が導入されていたことは注目に値する。
 さらに次のように続く。

 「此の五係の下数名の炊夫、ボーイ及び炊事監督人一名、書記二名を雇入れ、炊事監督人は水夫ボーイを監督すると同時に原料の買出し炊事一切の実務を指摘統括し、食事の献立は一週一回炊事委員会の議決に依て行はる」

 このように食堂の運営は学校側による管理ではなく、学生たち自らの手によってみごとに組織化され、経営されていたのであった。当時としては画期的であり、しかも慶応義塾が標榜する「独立自尊」が学風となって表れている。
 古島一雄は以下のように最後をまとめている。

 「是れ自治制度の大要にして、此制度が円満に行はれつつあるは一は塾風に適せるが為めなりと雖も、講堂に在て最も平凡なりし塾風が食堂に於いて著しく其特色を発揮せるは争う可らざる事実たりしなり」

 食堂の運営は明治33年(1900年)に寄宿舎が新築されて一層、整ったようである。その背景には、明治30年前後の学制改革をめぐっての若手教員の革新機運をきっかけに、学生にも活気が伝播し学生の自主的活動が盛んとなった。それは学生の学会やクラブの誕生、学生自治会の結成、野球部の活躍などに表れている。そして、その中心となったのが寄宿舎であった。(『慶応義塾百年史中巻(前)』)  

 次回はその寄宿舎を取り上げよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-11-27 09:15 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(78) 私立大学評判記(その67)

 「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」の続きである。
 前回、古島は慶応義塾大学の講堂で行われた朗読講義に失望したのであった。しかし、食堂を目にするにつけ、私立大学教育の将来に希望を見出すことになる。それが以下のように綴られている。少し長いが引用しよう。

 「吾人は幾多失望の念と幾多不平の念に駆られつつ恨を講堂に残して将に辞し去らんとするやフト寄宿舎なる文字の目を射るものあり。即ち請ふて先ず食堂に入る。ただ見る。幾百の食卓列を為して整然たる処、独立自尊の大額は掲げられて正面の一端に在り」

 「一卓十五人を座せしむべく、卓に卓長あり整理の責に任じ、呼ぶにボーイあり。命を聞く飛ぶが如し。堂は優に四百人を容るべき大建築にして能く其の清潔と静粛を保ちたるのみならず、其の賄いの方法が全く寄宿舎生の自治に依りて経営せられたるは吾人の甚だ快とせし所にして、講堂に於いて得たる不平の念は食堂に於いて其の幾分を慰藉したりしは、吾人又喜んで之を白状せざるを得ず」

 なぜ古島は食堂に目がいったのか。それは「従来、何処の学校に於いても寄宿舎失敗の歴史を尋ねれば、毎に賄征伐なるクーデターより来らざるなし」にあるという。

 当時の学生は寄宿舎(学生寮)で生活をするのが常であった。その寄宿舎の食事は運営の難しさから賄業者によって運営されていた。しかし、当時はまだ集団給食事業という近代産業としては確立されておらず、また業者が経費をピンハネすることもあって、食事の内容が貧弱で、学生の要求を満たすものでないことが多かった。そのことに学生が不満を持ち、それが「賄征伐」といわれるかたちで爆発したのであった。

 具体的な内容はさまざまであり、用意された米を全部食べてさらに要求したり、机をたたき茶碗や皿を投げつけて壊したり、時には暴力沙汰にまで行き着くことがあった。そして、賄征伐を起こした学生に対する処分は厳しく、単に謹慎処分から退学に発展することもあった。

 その代表例が、まさに陸羯南の司法省法学校時代である。彼はこの賄征伐にかかわり退学処分となった。ちなみにその時一緒に放校となったのが、原敬、福本日南、加藤恒忠、国分青崖である。

 このように現在では理解しにくいが、当時は賄征伐が頻発し、食堂の運営は非常に困難であった。もちろん慶応義塾大学も例外ではなく、賄征伐で苦労した歴史がある。しかし、古島が見学に行った時期にはすでに賄征伐を克服し、学生自治によりみごとな運営を行っていたのであった。

 その自治の方法については、次回詳しく見てみよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-10-25 11:03 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(77) 私立大学評判記(その66)

 「私立大学評判記(二十三)慶応義塾の講堂と食堂」に入る。本テーマでは、明治30年代の慶応義塾大学での授業と学生生活の様子について取り上げられている。今回はまず授業の様子から。古島一雄は当時の日本全体の大学教育を次のように批判する。

 「教授ありて教育なしとは今日学校の大患にあらずや。知識の供給を知って品性の陶冶を知らざるは今日教師の通弊にあらずや。学校は生徒を顧客とし、生徒は先生を勧工場の商品と為す」

 そして、以下に続ける。

 「生徒の学校に行くと云うものは只だ聴講券を代金を支払ふて講義の買出しに行くのみ。生徒は先生を尊敬する所以を知らず。先生は生徒を愛する所以を知らず。」

 さらに以下のように述べるが、いずれも現在に通ずる批判である。  

 「焉んぞ先生の薫陶あらんや。焉んぞ人物の養成あらんや。故に其先生の講義の如き生徒に十分の理会を与ふる親切心もなければ、生徒も亦た必ずしも其内容を吟味せず、只だ先生が口より発したる音声を紙に写し取りて之れを暗誦し以て其の試験なるものに応ずるのみ今の試験なるものは理解力の試験にあらずして記憶力の試験なり。」

 さすがにその講義方法は現在の大学には残っていないと思うが、記憶力の試験は今でも相変わらずである。
 次に古島が実際体験した慶応義塾大学での授業の様子が語られる。

 「其先生なるものは只だ機械的に自己の手帳を朗読すれば生徒は只だ無意識に一生懸命之を筆記するのみ。彼れ一句是れ一筆。先生口を動かせば生徒手を動かす。故に講堂に在て聴くべくものは先生が朗読の声と生徒のペン先の紙上に触るる簇々の響きのみ。何等の趣味もなければ何等の感興もなく、而かも先生が『何々をリョウテイするや』と読むるや、或は了定と書くもあり、或は諒定と書するもあり、其量定と筆記するものは甚だ稀なり」

 古島は明治政府のための大学である官学より、国民・市民のための大学になりうる慶応に期待を寄せているので、上記の授業方法が彼からしたらことのほか歯がゆくてしょうがないのである。それで以下のように述べるしかなかった。
 

 「其最も官学に抗し其最も私塾的に発達したる慶応義塾に於いては、何等か其特色を保つべき教授の方法あるべしと信ぜしなり、然るに其尤も平凡なる尤も普通なる方法に依て、シカモ最も下手なる朗読講義を聞かされたりしが為め吾人は多大の失望を買はざるを得ざりしなり」

 しかし、古島は慶応の学生生活にあるべき教育の姿をみるのである。それは次回に述べよう。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-08-29 08:23 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(76) 私立大学評判記(その65)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」の最後となる。
 古島一雄は次のように続ける。

 「斯る偶然の出来事に依て慶応義塾と高等商業学校は一堂の中に戦ひたりしも是れ一部局の争のみ、若し更らに眼を放てば実業界の各方面は皆な此二校出身者の戦場ならざるはなし」

 ここから明治30年代半ば、既に実業界では両校出身者が中心となって活躍していたことがわかる。この両校の社会的評価は以下のようであった。

 「人は言ふ三田派は団結の心に富み、一橋派は一致の力を欠くと。一橋出身の之を弁ずるものは曰く、是れ実に官学の弊処なり。矢野氏力めたりと雖も官立は到底官立たるを免れず。官学に遊ぶものは株式会社に在るが如く、私塾に学ぶものは合名会社に在るが如し、同じく一の会社なり。而かも気風の差を見るが如しと」

 すでに両校の学風が異なることも知られていた。慶応出身者は卒業後も母校への愛着が強く、OBの関係が濃密であり、団結心があると見られていた。一方、高商出身者は慶応に比べれば団結心が薄く、これは官立学校一般の傾向であったという。

 「人は又言ふ高商の出身者は平素の訓練あり。故に直に実践に用ゆるに足り、慶応義塾の出身者は実践に馴れざるを以て、出営の後尚ほ多少の訓練を要すと。慶応義塾の出身者為に弁じて曰く、我れは兵卒を作らずして将士を作る。故に直に珠算を把て戦う能はざるも、他日謀を帷幄の中に巡らして勝を千里の外に決するものは彼れに在らずして我にあらんと」

 商高のカリキュラムは簿記等の実務科目が多く現場の即戦力となったが、慶応のカリキュラムは経済学や法律科目が中心であり、実務科目はほとんどなかったので、卒業後に実務の訓練が必要となったのである。

 
 しかし、それについては、慶応は現場の実務者を養成するところではなく、経営戦略をたてられる管理者や経営者を養成するところであると古島は弁護する。ここには両校の教育内容の違いが社会的評価に明確に出てくる。

 そして、古島は「知らず商界覇を称するも遂に孰(いず)れに在る乎」と、つまり今後は両校のどちらが実業界を席巻するかわからないと述べた。その見かたは正しかった。

 既述したように商高でも、学生の実務教育に反対する闘争があり、カリキュラムに経済学や法律科目を充実させて行った。その後も、両校ともに優秀な人材を輩出し続け、現在に至っていることは周知の事実である。
 

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-07-26 11:05 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(75) 私立大学評判記(その64)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」が続く。
 古島一雄は、中上川彦次郎と益田孝の派閥抗争を具体的にまず以下のように語る。

 「中上川氏は銀行を自家の本営となし、波多野氏を挙げて之が副将たらしめ、更に朝吹氏を護らしめ、高橋氏を挙げて呉服店を監せしむ」

 波多野氏とは波多野承五郎のことであり、三井銀行の理事であった。また、朝吹氏とは朝吹英二であり、三井財閥の鐘ヶ淵紡績や王子製紙の役員を歴任した。高橋氏は、三井銀行に入社後、三井呉服店(三越)に移り経営改革を断行した高橋義雄のことである。いずれも慶応義塾卒で、福沢諭吉の愛弟子である。

 次に古島は三井銀行には次のような慶応義塾卒の人材がいたとして紹介している。それは、大阪支店長平賀敏、横浜支店長矢田績、神戸支店長小野友太郎、広島支店長柳荘太郎、長崎支店長丹幸馬、三池支店長高山長幸、深川支店長、岩本述太郎である。
 さらに、三井呉服店に日比翁助、本店秘書係長に安富衆輔、本店出納係長に坪井仙次郎がいた。

 一方、益田の率いる三井物産については、高等商業学校卒業の以下の面々がいたとする。竜動支店長小室三吉、香港支店長犬塚信太郎、大阪支店長福井菊三郎、新嘉坡支店大野市太郎、横浜支店北村七郎、口ノ津支店河村貞二郎、京城支店小田切捨次郎、芝罘支店長平野寛一郎。

 また、本店石炭課長に河村良平、参事に藤瀬政次郎、福井邦太郎、東京支店に田村実、中山兵馬、大庭敏太郎、大井寛治、さらに芝浦製作所に太田黒重五郎、同族会に成瀬隆蔵がいる。

 そうして、以下のように語っている。

 「此の如く両軍の英士猛将綺羅星の如く各々其陣地を扼して砲列を敷きたりしが故に、中上川対益田の争は一転して慶応義塾対高等商業の争いとなり、三井なる大会社は今や此二校競争の犠牲に供せられんとするの奇観を呈したり」

 しかしこの派閥抗争が三井財閥にとって、決してマイナスにはならなかった。古島は次のように述べる。

 「然れども此競争は陰険なる卑劣の競争にあらずして、実力の競争となり、革新の競争となりしかば、大改新を要せし三井其物に取っては千載の好機たりしやも亦た知る可らず」

 中上川・益田抗争は正々堂々の、イノベーションの競走であり、三井財閥の発展期にあって大いにプラスに働いたのであった。

 
 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-06-28 11:14 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(74) 私立大学評判記(その63)

 「私立大学評判記(二十二)慶応義塾と高等商業学校(下)(三井に於ける両校の混戦)」に突入する。

 今回は三井財閥における慶応義塾と高等商業学校の卒業生たちの派閥争いの話である。
 古島一雄は、まず次のように始める。

 「其義弟たる益田氏が三井家の重役として其枢機を握りたるは、矢野氏が桂庵事業を行うに至大の便益ありしは、高等商業学校出身者にして現に三井物産社に在るもの百十人の多きを算するを以て、其一班を知るべきなり」

 三井財閥の重役で、三井物産の立役者である益田孝は高等商業学校出身者を採用し、一大派閥を築き上げた。一方の派閥の領袖、中上川彦次郎について、古島は以下のように語っている。

 「然るに慶応義塾の出身者たる中上川彦次郎が井上伯の推薦を以て一たび三井家に入るや、益田対中上川の暗闘は端なく此の大会社の中に始められたり」

 中上川は三井銀行のトップとして、慶応義塾出身者を採用し活用した。 
 現在にもつながる大卒の一括定期採用のルーツをここに見ることができる。
 

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-05-28 09:52 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(73) 私立大学評判記(その62)

 「私立大学評判記(二十一)慶応義塾と高等商業学校」も今回が最終回となる。

 矢野次郎は18年間にわたりトップとして高等商業学校の発展に尽力してきたが、しかしながら当校での最後は、不幸にも追い出されるように去ることとなった。

 直接の契機は明治24年(1891年)の定期試験騒動であった。試験科目の地理と簿記について、本科2年生がそれは本来、補習科の性質のものであるとし、試験科目から除外するよう陳情したが、学校側はこれを認めず、学生側全員の試験ボイコットに発展した。これが矢野校長の辞職勧告に及び、ついに明治26年(1893年)、校長を追われることになった。当時、49歳であった。

 実は、この事件の伏線には、次の2つのことがあった。ひとつは、矢野の独断専行への反発である。彼は初代校長就任以来、長年にわたって君臨し、学生の卒業許可や就職先を彼個人の意見で決定したので、それに対する学生側の反発が高まっていた。また、教員の中にも矢野の専制に不満を持つものもいた。

 もうひとつは、学生側の書生派と前垂派の対立があった。書生派は天下国家を論じようと気概のある一派であり、一方、前垂派とは商家の若旦那を気取った学生一派である。書生派は、当時の不平等条約の下での日本の貿易が外国人商人に壟断されていることに憤慨し、専門知識を得ることで対抗すべく商業教育の高度化を要求していた。

 だが矢野の教育方針は「あくまで前垂式商業教育の技術的方面に習熟した学生、人に使われる人間を養成すること」にあり、教育内容も実用中心であった。ここにも学生の不満が充満していたのである。

 矢野は初代校長から度重なる廃校の危機があったのにもかかわらず、私財を投じてその危機を乗り越え、当校を発展させてきた。彼にとって当校は自分の分身のような存在であったであろう。

 往々にして長期にわたりトップに居座ることは、独断専行となりがちであり、矢野もその例外ではなかった。その後、矢野は日本麦酒株式会社取締役など歴任し、明治39年(1904年)には貴族院議員となっている。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2014-04-28 10:16 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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