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<羯南と古島一雄>(87) 私立大学評判記(その76)

 今回から「私立大学評判記(二十四)慶応義塾の学風(一)」に入る。
 古島一雄は、慶応義塾の大学・高校・中学校・小学校それら全体に漂う学風をテーマに、15回にわたって分析を続けて行く。学風こそ学校・大学の本質である。古島はそのことを理解していた。15回というこれまでにない回数を重ね慶応義塾の学風が掘り下げられて行くのである。

 古島は当回でまず慶応義塾についての一般的な世間での評価、それもむしろ悪評を取り上げ、その3つの疑問として投げかける。すなわち、慶応義塾が、(1)「拝金宗」、(2)「素町人主義」、(3)「常識教育」であるという疑いである。
 最初に(1)「拝金宗」から古島が述べるところを聞いてみよう。

 「世人は福沢氏を拝金宗の開山上人なりと云う、非乎。世人は慶応義塾を拝金宗の伝道場なりと云う、非乎。三田の市民は彼を見て日本一のシミッツタレと為し、芝の区役所は彼を以って多少インゴウなる親爺と為す。」

 学校経営が困難な点も多く、資金繰りに苦労していたことを考慮しても、痛烈な批判である。福沢諭吉と慶応義塾自体に世間では当時こうした見方があった。
次に、古島は以下のように続ける。

 「若し郷党の言う所、以って多少の信を置くものありとせば彼は確かに拝金宗の本尊なり。高橋義雄は拝金宗なる一書を著し、中上川彦次郎は井上伯の為に令嬢の靴の紐を結ぶ、若し其門下の為す所を見れば彼は確かに拝金宗の伝道者なり。彼の慶応義塾の評議員たる阿部泰造を見よ。ジユウ的人間とし恥ずかしからぬ見本にあらずや。夫の福沢氏が愛重したりし井の角を見よ。又た更に立派なる標本にあらずや。」

 福沢の教えを受けた門下生は“拝金宗”の実践者であり、上記の高橋義雄、中上川彦次郎、阿部泰造、井の角こと井上角五郎は代表的なお手本であるという。ちなみに、高橋義雄は三越の経営者であり、後に茶人として知られた。中上川彦次郎は周知のように三井財閥の中心人物であり、阿部泰造は政府で司法官僚として活躍、井上角五郎は政治家としても事業家としても多才であった。

 古島は最後に次のような疑問を呈する。

 「而して更に其門下の多数が如何に拝金主義を奉じて社会に立ちつつある乎を見れば、彼は確かに其宗旨の伝播に成功したりと云うべきなり。拝金宗の開山上人、是れ果たして彼の志なりし乎。」

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-07-27 07:31 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(86) 私立大学評判記(その75)

 今回も「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」が続く。
 古島一雄は寄宿舎の様子を次のように述べる。

 「掲示場に於いて最も人の目を惹くものは其掲示の文なり。仮令ば『静粛にすべし』と言はずして『静粛を保ち処』と云ふが如く凡て命令的文字を用いずして一に其公共心に訴えんと欲するが如き其用意の太だ周到なるを見る」

 このように古島は上から一方的、強制的にやらせるのではなく、「公共心」を引き出そうとするところを評価する。
 次に、大食堂が自治制度の下で運営されていることを寄宿舎の特色だと述べ、そして消費組合の存在を以下のように関心を寄せる。

 「甚だしきは其筆墨紙、シャツ、靴下の類を売る西洋小物屋的の一小店が消費組合と号せられて寄宿舎の一部に在り。而して此組合が一株五十銭廿五銭の払込より成り、株は其売買を許さるるが如き、稍々滑稽の観あれども同舎の生徒は却て之を以って多大の成功と誇れるが如き偶ま以って三田風の飽くまで三田風なるやを見るに足るべし。」

 上述のように、当時、既に学校生活に必要な物品を販売する売店が寄宿舎内に設置され、消費組合として存在していたことがわかる。これは他の学校にはなかったようで、「三田風」と言うように慶応の特色であった。 
 古島は最後に結論として、次のようにまとめている。

 「之を要するに慶応義塾の寄宿舎は私立学校中多く其此を見ざるるものにして其設備は最も完全なものと云うべく其制度は最も発達したりと云うを得べく、義塾夫れ自身に於いても『慶応義塾より奇食者を取去れば慶応義塾は全然ゼロにして独立自尊の光輝を発揚すべき唯一の武器を失えるものなりと』云えるが如く其自任の大なるを見るべし」

 このように学校における寄宿舎の存在意味の重要性が指摘されている。すでに「慶応義塾の寄宿舎は慶応義塾其物である」との記述も紹介したように、寄宿舎こそが学風の醸成につながり、しいては学校存在のポイントとなる。実はこれは現代でも言えることである。
 古島は寄宿舎の存在という学校の本質を見抜いていた。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-06-26 09:26 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(85) 私立大学評判記(その74)

 今回は引き続き「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」である。
 古島一雄は以下のように続ける。

 「此寄宿舎が如何に完備の体を備ふるやは其階上を寝室となし其階下をを自習室となせるにても知らるべく。寝るには寝台あり。読書には椅子卓子あり。夜は電灯を点じて光を取るべく冬は蒸気を送って暖を取るべし。」

 寄宿舎は2階建てであり、2階にベッド、1階にはイス、机が備えられ、夜は電灯が灯り、冬も暖房設備が整っていた。学生が主体的に勉強できるようになっていた。
そして「寄宿舎に於ける規則は左の如し」として次のように記載されている。

 「起床 午前五時半
 朝餐 同六時半-七時半
 昼餐 正午十二時-午後一時
 晩餐 午後四時半-五時半
 門限 同七時
  但土曜日は午後八時
 自習 同七時-九時
 点検 同九時十分
 寝室消灯 同九時二十分
 自習室消灯 同十時」

 朝は早く、食事は3食付き、夕食時間が午後4:30~5:30とこちらも、消灯時間の午後9:30、10:00も、現在の感覚では早すぎるだろう。
そして、以下の内容から勉学の様子が伺える。

 「即ち午後七時より九時に至る自習の時間は、復習下調べを為すべき必要の時間にして普通部の一年生は特に大広間に於いて其後半の一時間を舎監が講話に面白く喋りつつゐるなり。其他修養機関には新聞クラブあり、演説討論会は毎土曜日の夜に開かれ、殊に其の討論会は所謂擬国会の元祖として誇る所なり。」

 熱心に学んでいた様子がわかる。舎監は卒業生が勤めた。舎監の話が面白かったとあるが、実は舎監にとっては講話が大変だったようだ。

 新聞クラブについては、「ここでは東京、大阪その他各地の諸新聞雑誌のうち修養に資すると思われるものを備え付けて舎生の閲覧に供していた」(『慶応義塾百年史中巻(前)』)ようである。

 また、演説討論会は三田演説会依頼の伝統でもあり、「普通生部と大学部生とが入り交じって大気焔を吐いたありさまはなかなかの偉観であった」(同上)とある。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-05-27 09:33 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(84) 私立大学評判記(その73)

 前回、学校の存続にとって共同体性が重要であり、その共同体性を支えるためには、学風の醸成と確立がポイントであることを指摘した。そして、学風の醸成・確立にとって、寄宿舎の存在が大きな役割を果たすことにも触れた。

 今回から、慶応義塾大学の「独立自尊」の学風を醸成した寄宿舎を詳しく見てみよう。これでようやく「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る。
 まず、古島一雄は次のように語る。

 「慶応義塾の寄宿舎は長さ六十間を有する三棟の建物より成る。建築は和洋を折衷し設備は全く洋風に倣う。舎を大別して六寮となし一寮各各々十八室より成る。室は三名乃至四名を容るべく、寮に長たる者を寮長と云い、室に長たる者を室長と曰う。皆な学生中の選挙に成る。其寮名を命じて友愛寮、清交寮、自信寮、確守寮と云うものは例の『修身要領』より適当の文字を選びたるものにして寄宿舎を監するものは三名の舎監なり」

 長さが六十間ということは約110メートルである。また、寮生数は全体で約400名となる。ちなみに、「学生生徒の在籍総数は明治30年前後が約1,000名で、33年から毎年2、300名ずつ増加し、38年には2,000名を超えている」(『慶応義塾百年史中巻(前)』)というから、寮生は、普通科や予科を含む全学生のおよそ3分の1から4分の1を占めていた。

 寮長、室長は学生から選挙で選ばれ、教員や外国人教師もいたが、寮生の一人として学生委員の指揮下にあった。当時、既に学生自治が確立していたのである。また、舎監は卒業生が勤めていたようである。なお、上記記事には、4つの寮名しか出てこないが、残りの2つは自立寮、進取寮である。【続く】

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-04-25 10:02 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(83) 私立大学評判記(その72)

 学校の存続にとって、次に重要なことは「共同体性」の確立である。
 それについて教育社会学者の天野郁夫氏が『大学の誕生(下)』(中央公論新社)で指摘しているが、ここではそれを敷衍して展開させていただく。

 「共同体性」とは、教職員・学生・卒業生による連帯感や一体感のことであり、学風に組み込まれている。学校はそれにより、永続的な組織体を維持することができる。

 その「共同体性」を支える要素が3つある。その最大のポイントは、専任の教員集団の存在である。学校の中心となるのは、やはり教員である。教員は言うまでもなく教育の担い手であるとともに、学風醸成の中心でもある。

 これまで触れたように、明治時代、慶応義塾大学・早稲田大学と明治大学等の他大学との評価が分かれたが、その要因は専任教員集団の存在にあった。慶応・早稲田は彼らに給与を支給し、海外留学へ派遣するなど、教員の養成に余念がなかった。したがって、彼らも給与によって生活が安定し、フルタイムで教育・研究に専念することができた。さらに彼らは学生と一緒に寄宿舎で生活し、日常生活が教育の場となっていた。

 一方、他大学の教員は、弁護士業や官吏等の本業を持ち、無給で、しかも夜間という限られた時間しか与えられていなかった。

 現在でも、専任教員集団の存在が共同体性の最大要素であることは言うまでもない。ただ、いかに優秀な専任教員をかかえることができるかが学校存続のカギとなる。さらには、経営や事務業務を担う事務職員も重要となっていることを指摘しておきたい。

 また、2つ目の要素は、長期間にわたるフルタイムの学生の存在である。長期間・フルタイムの学生の存在が、彼らを学校への帰属意識を植えつけ、愛校心を強めていく。さらに、学風醸成の担い手となり、それが学校の個性化へつながっていくのである。

 明治期の慶応義塾大学では、大学課程として5年間、授業時間は午前、午後であった。しかも学生は学校敷地内にある寄宿舎で生活していた。前述<羯南と古島一雄>(80、81)のように、そうした環境の中で「独立自尊」の学風が培われていったのである。

 他大学の学生を見ると、夜間のパートタイム学生が中心であり、しかも寄宿舎はなかった。慶応・早稲田と比較すると、後手に回らざるおえない。

 さて、ここで学風の重要性に触れておこう。学風は連帯感と一体感を生み、共同体性を支える。そして学風は教員と学生との相互作用から醸成される。教員が中心となって引っ張り、学生が担い手となって主体的な活動に表現していく。そして、学風が醸成される場が寄宿舎であった。寄宿舎は学生の自治組織で運営され、教員も学生の作ったルールにしたがって共に生活した。寄宿舎は学生に自律と自立を養う場として、重要な教育機能を担っていたのである。

 ちなみに、現在でも寄宿舎を取り入れている学校がある。国際教養大学は、1年間、全寮制であり、それが英語教育に効果を発揮し卒業生の評価も高い。京都大学では、グローバル人材を養成するための大学院「思修館」を創設したが、そこは全寮制である。世界のリーダーを育成する学校として注目されているインターナショナルスクール・オブ・アジア軽井沢も全寮制である。 

 共同体性を支える3つ目のポイントは、愛校心を持つ卒業生の存在である。明治期、慶応も早稲田も経営の危機に陥ったが、その危機を救ったのが卒業生からの寄付金であった。また、立命館大学では、大正時代に大学昇格問題が起こったとき、卒業生が全国組織を立ち上げ、募金運動を行った。そのことが卒業生の絆を強め、母校への愛校心を再確認させることになった。

 
 ここが企業と異なる点である。現在も卒業生の存在は重要であることに変わりはない。慶応義塾大学は、日本の全大学の中で最も充実した校友会組織を持ち、寄付金や募金につなげている。

 学校存続の本質は、過去も現在も同じである。その基本を外れないで、地道に積み上げて行くことが、学校の永続につながっていくのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-03-30 09:24 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで⑥

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」等によって、安重根(1879-1910年)についてみてみたい。

 安重根は、朝鮮の独立運動家で、1909年10月、満州ハルビン駅で初代韓国統監の伊藤博文を射殺した暗殺者である(1910年3月処刑)。陸羯南がソウルを訪ねてから8年後のことである。

 角田氏は、韓国の知識層においては、閔妃暗殺が日本の国家権力による犯罪であると理解している一例として、以下の通り伊藤博文暗殺事件を引用している(p.429)。

 「・・・裁判の記録を見ると、「伊藤博文をなぜ殺害したのか」という溝淵検察官の問いに対して、安重根は終始「東洋平和を妨げる人物であるから」と答え、伊藤の罪科15ヵ条を列挙している。その第1条に「今より10年ばかり前、伊藤さんの指揮にて韓国王妃を殺害しました」とある。閔妃暗殺事件当時の総理大臣だから彼が責任者である―というのではなく、伊藤が指揮をとって閔妃を殺させた、すなわち日本政府の犯罪であった、という解釈である。」

 またウイッキペディアによれば、「伊藤の死により韓国併合(1910年8月)の流れは加速され、暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたという見方もあるが、当時の朝鮮族、ならびに今日の韓国では、後の朝鮮独立運動(1919年3月の「3・1独立運動」)にもつながる抗日義士であったとして、安重根は英雄視されている。一方、北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成の抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班(資産家)という出身に矛盾があり、愛国的ではあったものの解決策を持たず、手段も目標も誤った人物であったという評価に留まっている。」という。

 さらに、「地球の歩き方D13 ソウル(2014-15)」ダイヤモンド社によれば、ソウル市内にある「安重根義士記念館」のコメントとして
 「・・・市民の募金によって創建された。独立運動家として韓国人の間で尊敬されているが、当初は併合反対だった伊藤を無計画なテロで殺したため結果的には併合を速めたことなど、マイナス面についての展示は見当たらず、評価は分かれる。」とある。

 なお、日中、日韓関係の悪化からハルビン駅構内にも「安重根義士記念館」が2014年1月に完成・オープンしている。これに対し、菅官房長官は、平和に資するものではなく「極めて残念で遺憾だ」と述べ、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」との政府見解を示したが、その後「死刑判決を受けた人物」にトーンダウンしている。

 このように日韓での安重根の評価は、大きく異なっている。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-26 23:12 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで⑤

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、三浦梧楼が閔妃暗殺を決意するに至った日本の事情等についてみてみたい。

 朝鮮は1876年に日本との間に日朝修好条規を結び、その後順次欧米諸国にも門戸を開放していった。

 一方日本は、朝鮮へ国権拡張を企図していたが、欧米諸国の朝鮮への利権獲得競争は、激しさを増していく。

 このような中、日清戦争(1894年7月~1895年3月)の勝利によって朝鮮での優位性を確保したはずの日本は、その後の三国(仏、独、露)干渉によって、朝鮮における立場が悪化していった。

 具体的には、以下のとおりであり、閔妃暗殺(1895年10月8日)後でも欧米列強の朝鮮進出は止まらず、日本の朝鮮における立場は一層厳しくなった。

1)1896年3月、京仁鉄道敷設権 アメリカモールスへ
*1894年日朝暫定合同条款によって日本に許可されたものを、朝鮮政府が勝手にアメリカ人に売却したものである。その後日本が譲受し、1900年京仁鉄道合資会社(社長:澁澤栄一)によって完成している。

2)1896年4月、威鏡北道慶源鐘城鉱山採掘権 ロシアへ

3)1896年7月、京義鉄道(ソウル=義州)敷設権 フランスへ
 *1905年、日露戦争の物資輸送のため、日本によって開通している。

4)1896年9月、茂山・鴨緑江・鬱陵島伐木権  ロシアへ

5)1897年3月、江原道金城郡堂峴金鉱採掘権 ドイツへ

 井上馨に代わって、在朝鮮公使となった三浦梧楼(1895年9月1日着任)は、着任以前から、日本の各界から朝鮮へかける期待に応えるのは、(ロシアへ傾倒を深めている)閔妃暗殺以外にないと心を決めていたという。

 なお、韓国のKSB・TVドラマ「明成皇后」では、伊藤博文が暗殺を指示(黙認)しているような筋立てになっている(第121話)が、角田氏は「伊藤博文が、閔妃暗殺を企てたとは考えられない。閔妃暗殺事件と日本政府との間に直接の関係はない」といっている。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-25 23:20 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで③

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、高宗(閔妃の夫)の実父である大院君(興宣君是応、1820-1898年)が権力を握る迄の朝鮮王朝の権力構造の歴史について、概観してみたい。

 1392年李氏朝鮮・李成桂(太祖)が高麗を滅ぼし、首都をソウルに定めた。国教を仏教から儒教・朱子学へ転換した。この儒教の教えが先祖を敬うという風習を残したといえる。

 15世紀頃から、官僚機構は両班(武班と文班)に分かれ、この家に生まれたもののみ科挙の受験資格が認められ、この両班が権力闘争を繰り返した。

 22代正祖の時代には両班の争いが下火になったが、代わって勢道(セド)政治が横行した。勢道政治とは、王の信任を得た人物あるいは集団が政権を独占する状態をいう。日本の藤原家が実権を握った摂関政治に似ているかもしれない。

 この勢道政治の中心になったのが、安東金氏一族である。23~25代の王后は、金氏一族から選ばれ国家の要職を独占し、王族を虐待した。

 そして25代哲宗が亡くなった瞬間、王室の最高位は、23代王純宗の子であり、24代王憲宗の父である翼宗(孝明世子)の妃である趙大王王妃(神貞王后)となった。

 趙大王王妃は金氏でなく趙氏であったため、大院君と組んで大院君の第2子である命福を、1864年第26代の王(高宗)に就任させることに成功した。高宗はこの時11歳であったため、大院君が権力を掌握することができた。

 形式的には1864~1866年までは趙大王王妃の垂簾政治(簾の内で摂政として政治を行うこと)後、大院君が実権を握った。

 大院君の業績として、プラス面では、有能な人材の登用、官制改革、小作人制度撤廃等がある。一方、マイナス面では、1865年~多額の財源を使い、景福宮の再建工事の実施、1866年のキリスト教徒大弾圧、極端な鎖国政策等である。大院君には権限の濫用、独裁が認められた。

 このため、高宗が21歳になった時(1873年)、大院君は失脚した。代わって実権を握り、勢道政治を行ったのが、閔妃とその一族である閔氏である。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-16 23:15 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで②

 閔妃暗殺の首謀者で駐韓公使の三浦梧楼と陸羯南の関係についてみてみたい。

 三浦梧楼(1847-1926年)は、長州出身ながら藩閥政治に反対の立場をとった政治家である(西南戦争で城山を陥落させた元軍人、最終階級は陸軍中将、学習院院長、枢密院顧問官等を歴任)。

 有山輝雄(2007)「陸羯南」吉川弘文館,pp.92-95によれば、陸羯南は、『東京電報』(新聞『日本』の前身)入社の経緯について、(領事裁判権を残すような)条約改正交渉への反対運動などで「浪人仲間に入らんとの念」を抱いたという。

 浪人仲間とは「不平将軍」と呼ばれていた陸軍フランス派の谷干城、三浦梧楼らのグループと若手知識人の杉浦重剛、高橋健三、宮崎道正ら乾坤社同盟のことである。

 乾坤社、不平将軍、実業者は『東京電報』のパトロン(資金提供者)であり、一方彼等は自分達の機関紙を求めていたという。

 また、春原昭彦(2001)「陸羯南」『日本の新聞人⑩』日本新聞博物館,11号によれば、「この新聞には条約改正問題をめぐり、政府の欧化政策に反対する三宅雪嶺、志賀重昴、杉浦重剛、三浦梧楼、谷干城らの支援があったが、その立場は単なる西洋排撃ではなく、日本の主体性を保持しつつ欧州の文明を取り入れるべきだとするもので、陸は"国民旨義”と言っている」とある。

経営学的にいえば、経営者(陸羯南)と株主(三浦梧楼、谷干城ら)の関係といえよう。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-13 03:13 | その他 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで①

 たかぎ主筆と本年1月にソウルを往訪、陸羯南の足跡を辿った。それに関連して、角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」新潮文庫,1993年を読んだのでその内容の紹介と若干の感想を述べてみたい。

 結論として角田氏は、「謎が多い事件ではあるが、資料に基づく限り、1895(明治28)年10月8日、第26代王・高宗の王妃である“閔妃”を暗殺したのは、駐韓公使の三浦梧楼である。」(p.430)としている。そして閔妃暗殺(乙未)事件と日本政府(含む伊藤博文、陸奥宗光)との間に直接の関係はないという(p.439)。

 一方、韓国知識層の今日までの一貫した見解は、「暗殺隊の主力は日本軍で、その総指揮は日本の公使であり、国家権力による犯罪である」という。また伊藤博文を射殺した安重根は、伊藤博文の罪状の第一に韓国王妃の殺害を挙げている(pp.428-429)。なお、韓国のKSB・TVドラマ「明成皇后」でも伊藤博文が暗殺を指示しているような筋立てになっている(第121話)。

 この辺りが日韓の歴史認識の“ズレ”と言えるかもしれない。

 さて、次稿以降、②三浦梧楼と陸羯南の関係、③高宗の実父である大院君(興宣君是応)が権力を握る迄の朝鮮王朝の権力構造、④閔妃、⑤三浦梧楼が閔妃暗殺を決意するに至った日本の事情、⑥安重根について、順にみてみたい。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-10 22:23 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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