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企画展 「『坂の上の雲』にみる陸羯南」

 私も行ってきました。

 羯南と子規をめぐる人物関係図や展示品に関係する時系列のコメントの下に、

・高木主筆が講演等で解説することが多い、「司馬遼太郎が青木彰氏へ宛てた陸羯研究を呼び掛けた書簡」
・「新聞『日本』創刊号」
・「司馬遼太郎が『街道ゆく北のまほろば』の取材時にみた羯南自筆の五言絶句の漢詩(名山詩)とその時の様子を伝える写真」

等が展示されていて非常に興味深かった。

また、ホールでの映像「司馬遼太郎が遺した言葉 正岡子規について」も興味深く鑑賞した。
映像の中で、司馬遼太郎がコメントしていた子規の「墓誌銘」も今回展示品の中にあり、より一層興味を引いた。

私の個人的感想としては、高木主筆の〝磁場〟を改めて感じる展示となっている。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2016-11-06 22:27 | その他 | Comments(0)

企画展「『坂の上の雲』にみる陸羯南」が開催

 本日、11月1日午前10時に、司馬遼太郎記念館を開館と同時に訪問した。
 今日から始まる企画展「『坂の上の雲』にみる陸羯南」をさっそく見学。たくさんの羯南や正岡子規の資料の中に、青木先生の「陸羯南研究ノート」を目の当たりにするにつけ、青木先生の羯南への“思い”に感じ入った。
 しかし、それ以上に、司馬遼太郎記念館に当企画展を提案し、実現した高木主筆の執念に感動する。
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by kuga-katsunan | 2016-11-01 22:44 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(94) 私立大学評判記(その83)

 伊藤欽亮は慶應義塾を明治12年(1879年)に卒業後、明治29年(1896年)まで、ほとんどを時事新報社に在籍した。『慶応義塾出身名流列伝』によれば、彼の手腕を「其筆にする処の慎重なる言論は、大いに社会の信用を博したりき」と評価している。

 また、前出の都倉武之氏(慶応義塾大学准教授)によれば、伊藤の性格は「真面目一徹、職務に熱心」であり、自分の信念に忠実なぶん、頑固であった。しかし一方、人柄は穏やかで人情味があったという。

 伊藤が時事新報社のトップになれたのは、福沢諭吉の信頼が厚かったからである。彼は明治23,24年(1890、91年)ごろから、編集長を担い実質的な社長(社長は中上川彦次郎)として全盛時代をむかえ、明治26年(1893年)からは編集長に加えて、得意な会計責任者を兼務した。

 福沢は毎朝、時事新報紙面の隅々まで目を通し、編集上の誤りや気に食わない記事を見つけると、すぐに伊藤に小言を言ったという。福澤は記事を書いた者が誰かは関係なく、猛然と伊藤を叱るのであるが、伊藤はそれに口答えせずに聞き、また連日、三田へ通って福沢の相談に応じていたとのことである。

 伊藤が社長として実際にしていたことは、社説を書くことではなく、紙面の構成を決めることだったようである。社説への関与としては、ルビを振ることであり、時には、短い記事や論説を書くことがあり、穏やかな筆致ながら、時々「肺腑を突く」ような鋭い指摘を加えることがあった。

 それ以上に、何よりも取材力の貢献が大であったという。もともと長州出身であり、伊藤博文、山県有朋、桂太郎と日ごろからパイプを持っていて、取材に無理がきいた。重要な取材には自ら出向いて行って、次官でも入れないような会議にも入って行けた。

 日清戦争時に外務次官だった林薫が、ある時重要会議に遅れて参加したら、すでに伊藤が列席しているのを目にしたと語っているとのこと。
 しかし、一方で、藩閥反対の立場にはゆるぎなかったという。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2016-05-21 09:37 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(93) 私立大学評判記(その82)

 前回(2015年12月)から4か月も経ってしまい失礼しました。その前回「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」の最終回で、伊藤欽亮に触れた。われわれにとって彼は、陸羯南から新聞「日本」を譲り受け社長となったにもかかわらず、三宅雪嶺以下、ほとんどの社員を追い出し、その後、新聞「日本」を葬った張本人としか映らない。

 しかし一方で、彼は当記事に登場するように、世間では高く評価される人物であった。彼はいったいどのような人間であったのだろう。少し詳しく調べてみたい。

 明治42年(1909年)に、実業之世界社から発行された『慶応義塾出身名流列伝』(以下『名流列伝』と記載)という本があり、そこでは当時、慶應義塾を出て、実業界はじめ各界で活躍する480名が登場している。ここに伊藤は日本新聞社長として、顔写真入りで2ページにわたって紹介されているのである。この『名流列伝』と、慶応義塾大学准教授の都倉武之氏がWeb版に書かれた「伊藤欽亮の時代」(『時事新報史』)を参考に、以下、伊藤の人物をまとめてみよう。

 まず伊藤の経歴について『名流列伝』では、次のように述べられている。

 「安政4年8月山口県阿武郡萩町に生る。郷里の小学校を卒業するや法律研究の目的を以って東上せり。是れ明治8年にして爾後其研鑚に身を委ね、其後慶応義塾に入る。」

 生年は陸羯南と同じである。上記では、小学校卒業後、明治8年(1875年)に法律研究の目的で上京と簡単にしか記述されていない。しかし、都倉氏によると、まずは海軍士官を夢見て上京し、近藤真琴の攻玉社に学んだとある。近藤は日本の航海術の基礎を築いた人物であり、彼を慕って彼が創設した中等学校である攻玉社へ入学したようである。

 しかし、理由は不明であるが、海軍の夢をあきらめ、明治10年(1877年)6月に慶応義塾へ転じたのである。ちなみに、明治10年6月といえば、西南戦争のまっただ中である。伊藤は当時19歳であった。
 
 慶応義塾では同級生に犬養毅がいた。また、伊藤は在学中、数学の成績が抜群で、毎回満点をとっていたという。もともと論理思考、科学的思考に強かったことがわかる。経営者としては適性があったようだ。

 また、犬養らと「猶興社」という団体を結成し、条約改正問題を盛んに議論し、演説会を行ったとのことである。政治問題に関心が高く、主導的にも行動していたようである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2016-04-30 10:04 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(92) 私立大学評判記(その81)

 「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も今回で最後となる。
 古島一雄は最終に向けて、このように語る。

 「再び下りて犬養、伊藤、高島、村井時代を見よ。福澤氏は万来舎を塾中に設けて生徒と共に其長広舌を揮うて藩閥政府を攻撃し、犬養等は猶興社を塾中に建てて政治を談論し、尾崎等は幼年寮に在て新聞を発行す。内には演説会堂を設けて公然政治を論議し、外には交詢社を建てて大政党の基礎を作る。」

 犬養とは解説するまでもなく、犬養毅のことであり、ジャーナリストから政治家となり、総理大臣にまで上り詰めるも、五・一五事件で凶弾に倒れた。伊藤は伊藤欽亮のことであり、陸羯南研究にとっては因縁ともいえる人物である。彼は時事新報編集長を経て、日本銀行へ行き、その後、周知のように羯南を継いで、新聞「日本」の社長となった。しかし三宅雪嶺等の有力者が離反し、倒産に至らしめることになる。

 高島は高島小金治のこと。大倉喜八郎のもとで、実業家として活躍した。村井は村井保固のことであり、福澤諭吉の推薦で森村組へ入社した。後に森村市左衛門らと日本陶器(現在ノリタケカンパニーリミテド)の創設にかかわるなど、実業家として活躍、社会事業にも尽くした。

 その当時、慶応義塾では政治活動が最高潮に達していたのである。また、ここから万来舎、猶興社、演説会堂、交詢社の由来がわかる。
そして最後に、古島は次のようにまとめている。

 「慶應義塾は此に至りて全く薩長藩閥に対する政治学校の面目を備え、福澤も亦た一面在野の後藤伯と結び、一面私かに大隈、伊藤、井上に謀り以って其大野心を試みんと欲せしなり。此時に方て彼の教育主義豈に独り常識のみならんや。況んや町人主義をや。況んや又た拝金の思想をや。彼は富に覇気満々たる政治上の大山師たりしなり。」

 後藤は後藤象二郎のことであり、大隈、伊藤、井上はそれぞれ大隈重信、伊藤博文、井上馨であり、説明の必要はないであろう。

 慶応義塾はこの時期、実質的に政治学校であり、福澤も政治への思い入れが強かった。古島はこの事実を見れば、慶応義塾が世間の言っているような常識主義、町人主義、拝金主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-12-26 10:15 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(91) 私立大学評判記(その80)

 今回で「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も3回目となる。
 前回から時代が下り、町人主義批判への反論を、古島一雄は次のように加える。

 「更に下って牛場時代となり、鎌田、谷井時代となり、豊川時代となり、柏田時代となるや。塾規は漸く整頓し、福澤氏亦矢野等の官途に就くを許すに至り。人生官吏となるの必ずしも罪悪にあらざるを知りと雖も、民間政論の勃興と共に藩閥の官吏たるは隆参の意味に於いて解せられ。」

 牛場とは牛場卓蔵のことであり、時事新報の記者、山陽鉄道総支配人となり、実業家、政治家として活躍した。また、鎌田は鎌田栄吉であり、第4代の塾長である。後に政治家となって文部大臣に就任したこともあった。谷井は谷井保のことだと思われる。紀州藩出身で、鎌田と共に慶応義塾に入学したという記述が見られたが、それ以上のことはよくわからなかった。

 豊川とは、豊川良平のことであり、第百十九銀行(現在の三菱東京UFJ銀行の前身)の頭取、三菱合資会社の支配人を歴任し、実業家、後に政治家として大いに活躍した。柏田は柏田盛文であり、東洋自由新聞の創刊にかかわり、後、政治家、さらに第四高等学校校長となった。
 
 この頃には、福澤諭吉も塾生が官吏の道へ進むことを許していた。しかし、自由民権論が活発になるにしたがって、やはり官吏への就職は、「降参」といわれるほど慶応義塾内では嫌われた。
そして、古島は以下のようにつなげる。

 「ミル、スペンサー、ベンザム、ボックル、ギゾーの著書に養われたる彼等は、講堂に出ては民権の大義を説き、稲葉山の老木に攀じては自由の真理を論じ、慶応義塾は純然たる政治学校として其面目を発揮したるにあらずや。」

 もちろんミル、スペンサー、ベンザムは現在でも哲学者としてよく知られている。また、ボックルは『イギリス文明史』の歴史学者、ギゾーは歴史学者、政治家として当時活躍していた。こうした西欧理論を学んだ学生は、それを活かして大いに政論を戦わせていた。さながら慶応義塾は政治学校であったという

 一方、次のような福澤のエピソードもあった。

 「当時美澤某なるものあり入塾して始めて福澤氏に見るや、氏突如として其族籍を問う。某答ふるに農家の産なるを以ってす。氏手を激して曰く休めよ休めよ帰ってドブロクを造るに如かずと。顧みて傍人に言って曰く『百姓の子は学問しても役に立たぬ理』と。当時福澤は米人某氏の遺伝論を信ぜしなり。此時に当たって彼の塾中果たして一人の町人主義ありし乎。」

 この逸話のように福澤には、この当時、遺伝子論の影響で、農民に対して偏見があった。
 したがって、以上のようなことを鑑みると、古島は慶応義塾が町人主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-11-21 09:01 | その他 | Comments(0)

日本鉄道史

老川慶喜著(2014)「日本鉄道史 幕末・明治編」中公新書のpp.176-178に、「青森県人 陸羯南の予言」という項があるので、ポイントを紹介したい。

・1891年9月に日本鉄道が全通するまで、青森-東京間の移動は
陸路・徒歩:20日
馬車:12日(運賃は22~23円)
海路(函館経由):4~5日(1日1便で輸送力に限度あり)

・日本鉄道(青森-東京間)では
26時間40分
運賃:下等=4円55銭、中等=9円10銭、上等=13円65銭

以下p.177をそのまま引用する。

「・・・陸羯南は『東奥日報』(1890年7月13日)に「鉄道敷設後の陸奥国(承前)」を寄稿している。そのなかで、日本鉄道の全通によって東北地方は「利益を享受」するが、「利益の傍らには必ず弊害」があると警鐘を

鳴らしていた。陸によれば、その弊害とは「生産と消費の不釣合」に他ならなかった。すなわち、鉄道が開通し交通の便がよくなると人々の需要が増加する。しかし東北地方は「農産水産」の地なので、需要を他の地方

に仰がねばならない。試みに「農産水産」の年額を150万円、他の地方に仰ぐ「需要品の総額」も150万円とし、前者は増加しないが、後者は2割ほど増加すると仮定する。すると「需要品の総額」は180万円となり、青

森県は30万円を失うことになる。・・・」

と予言したという。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-11-12 23:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(90) 私立大学評判記(その79)

 今回も「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」である。
 古島一雄は世間の慶応義塾に対する素町人主義批判への反論に続き、拝金主義批判への疑問を以下のように呈する。 

 「下って矢野文雄時代となり、更に三田に移って藤田茂吉、箕浦勝人、波多野承五郎等がギゾーの文明史を読み得て始めて卒業者となりし時代を見よ。其先輩たる九鬼、渡邊、肥田の諸輩が官途に就くや、意気地なしの骨頂と罵り、留まって義塾の講師となり、其清貧に安んじたる門野等が、如何に名誉あるものとして尊敬せられたるぞ。」

 明治時代中期、慶應義塾では、卒業し官吏となって金と地位を得るより、母校の講師として収入は少なくも、清く正しくあることが理想とされた。

 ちなみに、矢野文雄は慶應義塾の大阪分校の校長、評議員を務め、後に郵便報知新聞社社長、政治家となった。また、藤田茂吉は郵便報知新聞社主筆となり、その後、立憲改正党の政治家として活躍し、箕浦勝人は郵便報知新聞社社長となり、後に政治家へ転向した。波多野承五郎は時事新報主筆を経て、朝野新聞社長に就任し、その後政治家となっている。

 一方、九鬼隆一、肥田昭作は前回にも紹介したように、当時、官吏として活躍していた。ただ渡邊治は官吏となった様子は確認できなかった。
 そして、古島は次のように続けている。

 「当時慶応義塾を卒業したるものは少なくも百円の月給には有付きしなり。然るに塾中の者皆曰く、願わくば学成って三田の講師たらん已むを得ずんば民間の政治家乎。若し夫の官吏たるは一生の恥辱なりと。此時に方て彼等の塾中果たして一人の拝金主義ありし乎。」

 古島は慶応義塾の卒業生にとって、金に目がくらんで官吏になることは、「一生の恥辱なり」というほどであったという理由で、拝金主義を否定する。

 当時、慶応義塾を卒業したら100円の月給が得られたという。当時の1円は現在でいうと2万円に相当する(ただし、さまざまな換算方法がある。)。ということは月収200万円、相当な高給であるが、さらに官吏となれば、それ以上の高額給与が約束されていた。例えば、奉任官6等で150円(現在の300万円)、5等ともなれば200円(400万円)あった。

 一方、慶應義塾の講師の月給は10円(20万円)から50円(100万円)であった。慶応卒業生の多く者は講師を目指したという。そうでなければ政治家へ、決して官吏になろうとはしなかった。したがって、拝金主義ではないと古島はいうのである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-10-28 09:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(89) 私立大学評判記(その78)

 今回から「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」に入る。
 古島一雄は、まず素町人主義への反論を次のように述べる。

 「試みに新銭座時代に見よ。障子は破れて之を繕ふ松下禅尼もなく、品川帰へりの王郎は時々剣を抜き畳を斫て莫哀を歌ふ。朱鞘の大刀は斜めに壁間に掛けられ、焼藷の皮は貧乏徳利と伍して机上に堆し、トコトンヤレ節でザツトのイツトを読む毛脛の偉男子もあれば、夏になれば屁子一貫の赤裸々にてウエーランドの経済書を輪読する連中あり。」

 慶應義塾大学がまだ新銭座にあったとき、塾生は士族出身であり、帯刀していたようである。身なりにかまうことなく、ひたすら勉学に励んでいた様子がうかがえる。勇ましくも可笑しくもある。

 「砲撃一発東台の天に轟くや塾に在るものは只だ小泉信吉のみ。アトハ面白半分の戦場見物、帰へり道でのおでん燗酒に余勇を鼓して兵児の謡を歌ふもあれば、附焼団子の弾丸に黒砂糖の硝薬、是は近頃の脇差と自ら酬ゆる下戸もあり。夜は横丁の黒犬を斬りて腕前を試めし、朝は夜着を被つて天下の前途を諭す。」

 戊辰戦争で上野が戦場となったとき、塾生はみな面白半分で見物に行ったのだが、小泉信吉一人だけが学校に残って勉強していたという。しかし、天下国家を論じあったとあるように、政治への関心が高かったことがわかる。    

 「之を前にして小幡篤二郎あり、松山棟庵あり、之を後にして荘田あり、吉川あり、朝吹、永田、肥田、門野、岡本、草郷、九鬼、渡邊、濱野、中上川、小泉等あり、先生は三百年の当弊を打破せんと意気込み。生徒は時代の暁鐘たらんとす。群豪雲の如く意気天を衝く。此時に当て彼等の塾中、果たして一個素町人的根性を有せしものありし乎」

 学生には逸材がそろい、彼らは時代の政治変革を目指していた。したがって、慶應義塾大学は素町人主義とは言えないと、古島は結論づける。

 ちなみに、ここに登場した人物を紹介しておこう。小泉信吉は塾長を務めた人物で、実業家(横浜銀行支配人)でもあった。小幡篤二郎は塾長となり、福沢諭吉の片腕であった。松山棟庵は慶應義塾医学所校長となり、東京慈恵会医科大学の創立者でもある。荘田は荘田平五郎のことであり、三菱財閥の重鎮であった。

 吉川は吉川泰次郎であり、実業家として日本郵船二代目社長となった。朝吹は朝吹英二のことであり、三井財閥の「四天王」と呼ばれた。永田は永田一二であり、ジャナリストとして数社の新聞社の主筆を務めた。肥田は肥田昭作のこと、文部官僚となり、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長となった人物である。

 門野は門野幾之進のことであり、慶応義塾で教頭を務め、後に千代田生命保険初代社長となった。岡本は岡本周吉であり、本名を古川節蔵といい、慶応義塾初代塾長となった。草郷は草郷清四郎のことであり、実業家である。九鬼は九鬼隆一のこと、文部官僚として重要な役割を担った。

 渡辺は渡邊治のことであり、大阪毎日新聞社長となった。濱野は濱野定四郎であり、塾長を務めた。中上川は中上川彦次郎のことであり、三井財閥で「三井中興の祖」と言われた人物である。

 政官財各方面へ、時代を動かしていた人物たちである。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-09-26 11:17 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(88) 私立大学評判記(その77)

 今回も引き続き「私立大学評判記(二十四)慶応義塾の学風(一)」である。
 前回、慶応義塾大学についての一般的な世間での評価として、(1)「拝金宗」を説明したが、今回は、(2)「素町人主義」、(3)「常識教育」を取り上げる。
 古島一雄は、素町人主義について以下のように述べる。

 「世人は福沢氏を以て素町人主義なりと云う、非乎。世人は慶應義塾を以て町人養成所なりと云う、非乎。ぞろりとしたる着流しに雪駄ちゃらちゃらの帽子なし。是れ福沢氏の風采たるを知らば彼は如何にも町人らしからずや、非乎。」

 福沢諭吉自身の身なりが町人のようだという。さらに、福沢には次のような言説が見られるという。

 「袴は廃せよ屁子帯は締めるな」「一人前の家に住み一人前の衣食が出来てから始めて一人前の口をきけ」「月給取りは士族の後家が公債証書の利子に衣食するが如し、新知識のハイカラで旧思想の前垂連を打破せよ」

 これらは商人としての生き方を示すものであり、いかにも町人らしい教訓であると、古島は指摘する。
そして、以下のようにまとめている。

 「彼の門下実業界に在るもの千百を以て数ふ。彼を素町人主義の本尊なりとすれば、彼は又よく此の主義の目的を達したるものと云うべし。素町人主義果たして彼の志なりし乎。」

 確かに慶応義塾大学の卒業生は実業界に就職した者が多い。しかし、古島は素町人主義が本当に福沢の思いだったのかと疑問を呈する。
さらに、彼は常識教育について、次のように続ける。

 「世人は福沢氏を以て常識教育の祖師なりと云う、非乎。世人は慶應義塾を以て常識の教育所なりと云う、非乎。其宇宙を観しては単に天然の微妙に帰し天を怨むな天に謝するなと説けるが如き。其人世を観しては善悪は絶対的の標準なし。只人の好悪に依て定まる。小むづかしき理屈や高尚なる手段は無益なりと説けるが如き。其外諸生を諭しては理論を去て実際に着けと云うが如き。学問に齷齪たらんよりは早く虚世の道を脱せよと勧むるが如き。彼は如何にも常識本位論者にあらずや。」

 引き続き常識教育の成果を簡単にまとめれば次のようになると述べる。

 「其門下生が一寸学問もあり、一寸小知恵もあり、一寸文章も書ければ、一寸話も出来、一寸小金の才覚も出来れば、一寸端唄の一つも唸なれ、何をさしても一寸間に合ひ、応接振りもシトやかに人の機微を損なはず、万事に抜目がなくて融通が利き、お世辞上手の世渡り上手、所謂常世の才子風、所謂常世の紳士気質なるを見るべし。」

 そして、以下のように問う。

 「之をして若し常識教育なりと言うを得れば彼は又た其祖師たるに恥じざるなり。嗚呼嗚呼是れ果して彼の志なりし乎。」

 果たして、慶応義塾大学は世間の評価のように、「拝金宗」「素町人主義」「常識教育」なのであろうか。次回、古島はそれを確かめて行く。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2015-08-27 09:25 | その他 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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