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カテゴリ:トピックス( 163 )

毎日新聞社 古島一雄清談  昭和26年3月

  いしがみさんに見て頂いている古島一雄の死亡記事の入っていたのは、この本です。

  この本に入っていたのは朝日、読売、毎日、神奈川の4紙の死亡記事。

それ以外に何かの本の口絵であったと思われる古島の写真、その裏には<日本新聞時代の古島氏とその四先輩>という写真もついていた。

 この写真は若き古島を中心に左に羯南、右に雪嶺、下に杉浦、犬養?の四人がうつっている。

羯南の写真は初めて見るもので、和服に口髭をはやした40代ころのものと思われる。

 不思議なことに、更にこの本には古島のはがきも入っていた。

二枚は野田琢二あての昭和26年、27年の年賀はがき。

そしてもう一枚は秋田の住所で、鷲尾あての昭和26年4月のものであった。

 更に見返から裏表紙にかけて、筆で、鷲尾から野田あての献辞が書かれていた。

最後に驚いたのは裏扉に生写真がはりつけてある。

 二人の男性が古島の表札のある門の前で並んで写っている。

裏返してみると、

  昭和25年12月10日

  世田谷 経堂 古島邸

  門前に於て

           野田 琢二

           鷲尾 義直

 と墨書されていた。

 この家は、我が家から数分のところにあったようだ。

たかぎ 
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by kuga-katsunan | 2010-03-28 11:05 | トピックス | Comments(0)

<異才列伝>と小田桐弘前高校校長先生 

  今朝の読売新聞の日曜版2面に<異才列伝>というコーナーがあり、そこに羯南の紹介が出ている。

  筆者の永井一顕さんは、文章からすると弘前高校の出身のようで、高校生当時の小田桐校長先生のエピソードが紹介されている。

  小田桐校長先生のことは、稲葉克夫先生の著書<陸羯南の津軽>のあとがきにも書かれている。

「指折ると昭和19年、県立弘前中学校一年生の私に羯南の存在を教えたのは、戦時疎開で文芸春秋社から郷里の弘前に帰って来た担任の小田桐孫一先生だった。

秋十月先生は出征し、シベリア抑留生活が長かった。

帰国してダモイの渾名で有名だった。

第二十二代弘前高校校長をつとめた。」

 (稲葉克夫 「陸羯南の津軽」白神書院  2007年8月)

 非常に魅力のある先生だったことが、ひしひしと感じられる。

 私の叔父も招集で弘前の連隊にいたことがあるので、その風土については聞いている。

 じょっぱりの精神が生きていると思う。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-03-21 10:12 | トピックス | Comments(0)

立山観瀑集  国分青崖

  国分青崖は、詩と旅と書を愛した。

 彼が富山県の立山を吟行した漢詩集に

    立山観瀑集

 という詩集がある。

 この編者は、内山季友で、出版は富山県百塚村、昭和10年のことであった。


 内山は富山の豪農。その邸は内山邸として保存されている。

「幕末の慶応4年(1868年/明治元年)に建てられた屋敷は、江戸時代の典型的な豪農屋敷を今に伝え、いろり部屋や作業小屋等は、一般的な農家の特色を残しています。また、明治期に改装された表座敷や書院の一部は選びぬかれた材質が使用され、当時の一千石地主の繁栄が偲ばれます。

また、内山家は、多くの文人や政治家らも来遊するなど地方の名主として文化的教養も備えていました。とくに、七代当主であった内山逸峰(1701~1780年は)紀行文や多くの歌を残し、十二代当主の内山松世(1864~1945年)は衆議院議員や富山県教育長を歴任するかたわら、書や漢詩、茶道に優れました。屋敷や茶室一つひとつに風流の粋を注ぎました。このため、政治家や文人たちとの交流関係も広く、邸内には内山家と親交のあった有名な書家の作品を随所に見ることができます。

12,153平米を誇る広大な庭園には、樹齢100年を超える古木や名石、四棟の蔵や三つの茶室が配されています。十三代当主の内山季友が大正時代に植えたという、メタセコイア、ユリの木、朴の木、しだれ桜、桂などは旺盛な巨木となっており、それぞれの樹相を主張しています。内山家の広大な敷地の中で育まれ眺められて、野生を失わず、しかも庭木としての嗜みは見る者に感動を与えてくれます。

【所在地:富山市宮尾903 電話:076-432-4567】」

(和合バーチャルツアー)

  内山季友は、十三代の当主であった。

 そしてこの内山家の蔵から、日本画報のセットが発見された。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-03-07 21:47 | トピックス | Comments(0)

陸羯南の掛け軸と消息文のオークション顛末

京都の思文閣に於ける陸羯南の掛け軸と消息文のオークション結果ですが。。。

入札の結果がでました。

残念でしたが、思いも寄らぬ高金額で、他の方が落札されました。
我が研究会も、主筆の想いから結構頑張った金額を入札したのですが、
それよりも、1.5倍の金額で落札されました。
そのほかに出品されていた、秋山好古の掛け軸の落札金額もびっくりするほどの金額でした。

きっと、そのうち、どこかの美術館で、
「坂の上の雲」関係として、まとめて展示されるような気がします。
その時に研究させてもらいましょう。

とにかく、今回は残念でしたが、ここしばらくは、
「坂の上の雲」関連でいろんなところで、
新しい発見物があったり、
今回のようにオークションに出品されたりしそうです。
あちこちにアンテナをはりましょう。

ささはら
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by kuga-katsunan | 2010-03-01 01:24 | トピックス | Comments(0)

陸羯南の掛け軸と消息文

陸羯南の掛け軸と消息文がオークションに。

「第14回菜の花忌」(2010年2月13日(土) 会場:東京・日比谷公会堂)の
お手伝いに行った際、関係者の方から、
「今、京都の思文閣で、陸羯南の掛け軸と消息文がオークションに出ている」との情報をいただきました。

直ちに、たかぎ主筆が調べ、カタログ等を取り寄せました。

そして、「とりあえず、現物を京都まで行って見てきてほしい」との指令が出ました。

このため、2月20日に京都の思文閣を訪ね、掛け軸と消息文を見せていただきました。

掛け軸は、「楡関」七絶二行 で、これまで直筆を見てきた書家としての立場から見ても、
落款も含めて、筆圧も捌きも直筆で間違いないと思えました。

消息文は、本田種竹宛ての書簡で、すでに軸装されてあり、
闊達な筆走から、これも間違いなく直筆であると思います。

これまで、昭和62年10月27日から11月23日まで、
松山市立子規記念博物館にて開催された、
「拓川と羯南」展にのみに出展されたことがあるとのことです。

(現在、いづれも、個人の所有となっているため、写真を撮ることが出来ず、
今回の報告では、作品をアップ出来ません)

さっそく、たかぎ主筆に連絡したところ、
「せっかく京都に行ってくれたのだから、入札しておいてよ」
との事で、面食らいながらも、現在の入札状況等を探ったりしました。

オークションのスタート金額は、30,000円でしたが、すでに数件の
入札があるらしく、悩むところです。

実は、今回のオークションは、「坂の上の雲」ブームにのったもので、
正岡子規の句稿や秋山好古の掛け軸なども出品されていて、
セットで入札している人(団体)もいそうです。

最後は、もちろん、たかぎ主筆の一声で、入札価格を決め、
札を入れてきました。

入札の締め切りは、きょうの夕方で、結果は、明日判明するとのことです。

入札の結果によりますが、今後、主筆から執筆陣に新たな連絡があるかもしれません。

今は、実際の掛け軸と消息文を手にして、
解説を書ける日が来ることを楽しみにして祈る事にします。

ささはら
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by kuga-katsunan | 2010-02-21 22:27 | トピックス | Comments(0)

弘前新聞と東海健蔵

 新年の東奥日報に<北の文学連峰 本県文筆家の系譜>のシリーズの中で、斎藤三千政弘前ペンクラブ会長が<陸羯南と佐藤紅緑>という連載をされている。

 佐藤紅緑に入る前に、没後100年の時の東奥日報の平成十九(二〇〇七)年一月一日、陸羯南の「生誕百五十年・没後百年」を記念した特集記事を紹介されている。

  「偉大な足跡 いまも心に」

のヘッドライン以下の記事を賞賛されていらっしゃるが、私も初めてこの紙面を拝見した時には、非常に感銘が深かった。

 羯南の伝統が今も生きている、ということにまず驚き、改めて地元への影響の強さに感じ入った。

 弘前にあって羯南ゆかりの人々のシリーズをはじめ、多くの著作を残された川村欽吾氏のことは何回か紹介させて頂いたが、先日メルボルンに駐在している旧友が一時帰国した際に、改めて同氏の<赤石定蔵と陸羯南>を再読した。

 ご存じの通り、赤石は弘前の東海家に生まれ、母方の赤石家を継いだ。
彼には兄健蔵、弟勇蔵がいる。

 定蔵は、明治17年東奥義塾を卒業し上京、東京専門学校(早稲田大学)に入学、19年20歳の時に東京で開催された津軽同郷人会で羯南と出会う。

 この縁で、定蔵は羯南の東京電報に入社することになるが、弟の勇蔵は羯南の長女と結婚することになる。

気になったのは、弘前に残った兄の健蔵のことである。

 健蔵は、インド藍の輸入で急速に財をなし、東海商店を拡大する。

その後、彼は明治30年には弘前新聞を創刊する。これも実は羯南の影響があったのではなかろうか。

弘前市議会議員、議長を歴任した健蔵は、昭和19年に82歳で亡くなった。

 太平洋戦争開戦の直前、彼の創刊した弘前新聞は、戦時報道統制によって、八戸合同、青森日報、東北タイムスの県内日刊紙とともに、東奥日報へと統合。

 定蔵が社長を勤めた台湾日日新聞も日本の植民地支配の終焉とともに終刊となった。

 勇蔵は海軍技術将校としてイギリスに留学、横須賀で軍艦の建造にあたったが、極楽寺の羯南終焉の別荘から通っていたという。

 明治、大正、昭和と、この三兄弟は、弘前、東京、オーストラリア、台湾、イギリスと生き抜き、ある意味、大日本帝国とその運命を伴にした。

たかぎ

 
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by kuga-katsunan | 2010-01-17 20:06 | トピックス | Comments(0)

<鉄道敷設後の陸奥国>と新幹線新時代

 今年、青森に新幹線が延びる。

 1月4日の東奥日報の社説には、標題の、羯南が明治23年に同じ東奥日報に寄せた<鉄道敷設後の陸奥国>という社説が引用されている。


http://www.toonippo.co.jp/shasetsu/sha2010/sha20100104.html


  羯南の時代から110年。

 鉄道の開通と新幹線の全通。時代は違うが、その効果は似た部分があるともいえる。

 21世紀はアジアの時代でもある。

いみじくも羯南の号が沿海州を想起させるように、日本全体も、アジア、そしてロシアのシベリア地区の成長力と協働することの重要性も増してくる。

日本海を中国、朝鮮、ロシアとともに囲む内海と考えた時、青森は、その中心地の一つに位置するといえないだろうか。

 東京電報以来、羯南のもとで育った成田鉄四郎が、東奥日報の二代目主筆時代に書いた<陸奥湾の将来>所収の諸論文を読み返してみようと思う。

 また羯南とともに、東亜同文会活動に挺身した青森出身の成田与作の著作が、<樺太及沿海州>であったことも一つの方向を示しているのだろう。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2010-01-10 22:07 | トピックス | Comments(0)

羯南登場 NHKドラマ「坂の上の雲」

  司馬遼太郎はその代表作「坂の上の雲」の中で、羯南を描いている。


  「子規が東京でひとりうごきできるようになったのは、叔父の加藤恒忠の尽力によるが、加藤よりもさらにかれのために力になったのは加藤の友人の陸羯南である。羯南は子規にとって生涯の恩人だった。
   羯南
 本名は、実。
 旧津軽藩士の次男である。
 明治九年に上京して、当時司法省が秀才養成のためにつくっていた司法省法学校(東京大学法学部の前身)に入った。そのとき加藤恒忠もこの学校に入った。
 ほかに、原敬がいる。
 国分青厓、福本日南もいる。
 この当時、この学校は校長以下薩摩閥で運営されており、その運営態度が羯南にとって気にくわず、ついに校長と衝突して放校になってしまった。
 其の後北海道にわたったが、ほどなく東京に帰り、太政官(政府)文書局の翻訳官になり、フランスの法律関係のものなどを訳していた。ほどなくやめ、新聞「東京電報」の社長になり、やがて新聞「日本」をおこし、明治四十年病没するまで明治の言論界の巨峰をなした。
 子規がたずねていったときは羯南はまだわかく、翻訳官のころだった。
 羯南は後年、当時を追想して、
「ある日、加藤がやってきておいのやつが田舎からやってくる、わしはその面倒をみねばならんのだが、すでにフランスゆきがきまっているから、君にそれをたのみたい、といった。やがてその少年がやってきた」
と、いっている。
 初対面のときの子規の印象は、
「十五、六のまだほんの小僧で、浴衣一枚に兵児帯といった、いかにも田舎から出てきたばかりという書生ッコだった。そのくせどこかむとんじゃくなところがあって」
 と羯南はいう。
「加藤の叔父がゆけというからきました」
 というほか、子規はなにもいわなかったらしい。羯南はその素朴さが気に入った。羯南はことばの鄭重なひとで、
「いかにも加藤君から話はきいております。ときどきあそびにお越しください」
 と、羯南のいう小僧にいった。しかしそれ以上は双方に話題がなく、羯南はしかたなく、
「私のほうにもおなじおとしごろの者が書生をしております。ひきあわせましょう」
といった。羯南のおいであった。小僧には小僧を配するがいいとおもったのだろう。
 ところがその羯南のおいと話しはじめた子規の様子は、初印象の小僧ではなかった。
「ことばのはしばしによほど大人びたところがある。相手の者はおなじくらいの年齢でもまるで比較にならぬ」
「叔父の加藤という男」
と、羯南はつづける。
「私よりは二つもわかい男だが、学校のころから才学ともにすぐれて私よりは大人であった。さすが加藤のおいだとおもった」
 子規はのち、羯南の世話になり、そのことを思いだすといつも涙が出る、と言い、その友人夏目漱石にも「あの人ほど徳のあったひとはない」と語っている。」

(司馬遼太郎「坂の上の雲」文春文庫)


  11月29日から始まったNHKドラマ「坂の上の雲」。

 今夜の第三回、いよいよ、羯南が登場する。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-12-13 09:58 | トピックス | Comments(0)

羯南とエジプト 4

 さて、少し前説が長くなりました。しかし、羯南がエジプトで、何を考えたかを想像するには、現在のエジプト社会を理解することから始めるしかありません。非常に雑な説明ではありますが、エジプトが二千年もの間、外国に支配され続け、現在もその格差社会の中で「支配されることに慣れきっている人」が大勢いるということを理解ください。

 羯南が訪れたエジプトはどんな時代だったのでしょうか。一九〇三年、エジプトは英国の支配下にありました。一八六九年には、スエズ運河が開通。アジア支配を強めていた英仏など欧州列強にとって、地政学上、その戦略的重要性は、かつてないほど高まっていたと言えます。

 そもそも、十八世紀末のナポレオン遠征も英国とインドの通商路を分断するという意図で始まったと言われています。最終的に、ナポレオン軍は、英国とオスマン・トルコの連合軍に敗れるのですが、この遠征をきっかけに、エジプトは、オスマン帝国のくびきを逃れ、自らの指導者にアルバニア人でオスマン帝国の将軍だったムハンマド・アリを選ぶことになります。後に、オスマン帝国にエジプト支配の世襲を認めさせ、事実上の王朝を樹立したアリは「富国強兵」「殖産興業」に着手します。日本の明治維新に相当するエジプトの近代化はアリが総督(パシャ)に就任した一八〇五年に始まったと言ってもいいでしょう。
 
 アリは軍の近代化と農業改革を進めるため、学者やエリート階級の子弟を欧州に派遣します。しかし、オスマン帝国の影響を引きずっていたのでしょうか、こうして派遣された人はトルコ系ばかりでした。また、シリアやギリシャ、オスマン帝国との相次ぐ戦争は、エジプトに近代化を急がせ、最新式の織物工場や造船所の建設は、フランスやイタリア人技術者の手にゆだねられました。さらに、大規模な農地改革はエジプトの伝統社会を瓦解させ、ギリシャ人やアルメニア人ら特権商人を生むことになったといわれます。アリら指導者階級は、このころから民衆の支持を失っていったと言えます。

はまぐち
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by kuga-katsunan | 2009-12-06 21:15 | トピックス | Comments(0)

ブログ開設3周年  松山市立坂の上の雲ミュージアムの展覧会 

  早いものでつかもと君と弘前に行ったさいにスタートしたこのブログもあっというまの3周年です。

  明日29日からは、NHKで青木先生の積年の悲願であったドラマ「坂の上の雲」も始まります。

  以前、東奥日報さんの報道でもご紹介しましたが、来年3月から松山市立坂の上の雲ミュージアムでは、
新聞日本をテーマにした展覧会が、来年3月のスタートに向け準備されています。

  新聞日本を真正面にすえた展覧会は今回が初めてで、陸羯南をはじめ、彼のもとに集まった数多くの逸材たちも紹介されるようです。

  これを機会に今まで歴史の影に隠れていた事績や人物、歴史的資料にあらためて新たな光があたることを期待しています。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2009-11-28 08:03 | トピックス | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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