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カテゴリ:紀行( 59 )

陸羯南生誕百五十年・没後百年の記念イベント参加

 9月1日午前:たかぎ主筆、やまだ氏、ささはら氏とともに、午後からの弘前文化センターで開かれる掲題のイベント「講演会・フォーラム」に備え、青森県近代文学館に於いて、9月9日迄の企画展「陸羯南と正岡子規」を観て予習を行った。
 
 ただし、前日の夜遅く青森入りした一同は、「りんご茶屋」というお店で聞いた「津軽三味線」の残響が頭の中で鳴り響いてはいたが・・・。

 午後、青森⇒弘前文化センター移動

・同日午後3時から、神奈川大学教授復本一郎氏による講演「陸羯南と正岡子規」
・午後4時10分からフォーラム「人間 陸羯南」
 を、一同拝聴(なお、会場は満席で立ち見の方が多く見られた)。

 復本教授は、子規が新聞「日本」の文芸欄で短歌革新運動を展開し続け、必ずしも全面的に短歌観が一致していなかった羯南が、これを認めたこと、及び生活の面倒まで見ていた寛大さを高く評価していた。

 また、シンポジウム(コーディネーター:前述の復本教授)では、

1)松山市立子規記念博物館の竹田美喜館長は、子規は、陸羯南のお陰で、新聞「日本」というマス・メディアを通じ(3回目から1面掲載)、古今集に始まる旧派を批判。子規は新派の論陣を広く形成出来、松山では皆、陸羯南に大変感謝していると絶賛した。

2)地元出身のルポライター・鎌田慧氏は、津軽人を「意地っ張り」で、「負けず嫌い」だが、「義侠心」に厚いと分析。陸羯南は、独立不羈(independent writer)の立場に立ち、世論をリード、国民の啓蒙・啓発に努めたと述べた。そして現在の新聞が、ややもすると世論の後追いをしているのでは、と疑問を呈していた。

3)九州工業大の本田逸夫教授は、陸羯南を、①文章・文才が素晴らしい(文章が簡潔で、作為がない。)②リベラル〈自由闊達、他者へ寛容)③視野が広い(和漢、西洋思想の才あり)④理想・信念がある等と分析した。

 9月2日は、朝6時半から、たかぎ主筆の案内にて、陸羯南ゆかりの地を巡った。即ち、狼森鷲ノ巣(おいのもりわしのす)にある「名山詩」or「厳城の詩」碑 * ⇒ 孫文に協力した山田良政顕彰碑(貞昌寺) ⇒ 津軽藩主の菩提寺である長勝寺 ⇒ 津軽藩洋学の祖・佐々木元俊および息子海軍「千島」艦軍医長佐々木文蔚の墓(宝泉院) ⇒ 中田家菩提寺(月峰院) ⇒ 陸羯南生誕の地 ⇒ 郷土文学館・図書館を精力的に巡った。

 *名山出名士 此語久相伝 試問厳城下 誰人天下賢
(名山 名士ヲ出ダス/此語 久シク相伝フ/試ミニ問フ厳城ノ下/誰カ人天下ノ賢ナルゾ)
意味:「名山の見える土地は素晴らしい士を出すという。このことばが世に行われて久しいが、しかし試みに問うに岩木山の秀峰を見るこの弘前城下から一体どんな天下の賢がでたろう。」(司馬遼太郎「北のまほろば」)


 そして最後に司馬遼太郎が1995年1月「街道をゆく41『北のまほろば』」で取材した石場家(重文)を尋ね、今回の旅行を締めくくった。 

 なお、今回のイベントに参加して感じたのは、 会場が満席であったように、地元の方の関心の高さと、これが一過性のものに終わることなく、このイベントをキックオフとして更に陸羯南の研究が進み、日本国の未来への方向性の指針として、陸羯南研究を活用して欲しいということである。                        しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2007-09-02 19:43 | 紀行 | Comments(0)

台風の中「北のまほろば」

8月4日午前7:00過ぎ。目覚時計より先に携帯電話に起こされた。さっそくたかぎ主筆である。今日、明日と、半年以上前から予定を押さえられていた、羯南をめぐる東北ツアーのはじまり。
 
 私は前日夜から盛岡の嫁の実家に泊り。 車を借りて、盛岡駅に午前10:00に到着する ひのさんを出迎え。台風の激しい雨の中、まずは青森近代文学館で行われている特別展「陸羯南と正岡子規」へ。「今、盛岡を出ました」と主筆に電話を入れると、すでに先ノリで文学館の図書室にいるとのこと。まったく熱心である。
 
 東京から旅の行程を考えると、どうしても盛岡、弘前、青森とすべて「東北」とひとくくりに考えてしまうのだが、盛岡~青森は170km。東京~静岡よりも遠いのだ。 ひのさんとはかれこれ10年近く前から「菜の花忌」等々で顔見知りなのだが、パーソナルなことはなにも知らず、「ご実家どこですか?」「何学部でしたっけ?」などと、とぼけた会話で青森までの2時間以上の行程をやり過ごす。
 
 近代文学館は青森中央インターを降りてすぐのところ。車をとめるて建物に向かうとすぐに特別展の看板が目にはいった。主筆と合流。すでに主筆はひととおり見終わっているらしく、スムーズなご案内。今回の特別展は図録がWEB上に公開されており。40数ページにわたるPDFファイルをプリントアウトして事前に「予習」してきたので、意外と展示物がすんなりと頭にはいってくる。(これから行く方「予習」お奨めです)
 
 羯南が欧州旅行中に、妻てつに送ったポストカードが図録に載っている以上にたくさんあり、それがまたデザインも多彩。日本の写真報道の第1号といわれる「日本画報」も興味深い。後ほど文学館の黒岩館長にお話を聞くことができ、展示してある号以外も見せていただいた。当時の事件や世相を映した写真や絵を見てみると、1枚の写真で伝わるものの多さにあらためて驚かされる。ちなみにこの「日本画報」(ほぼ全号)コレクションはweb検索で古書店から入手し、驚くほど安価だったとか。ちょっとした「お宝発掘」である。
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 小一時間のつもりが3時間も文学館で過ごし、このままでは弘前の文学館が閉まってしまうとあわてて出発、旅の昼食も早メシで済ませ、4時ごろに弘前郷土文学館へ。カーナビのおかげで迷うことなく便利である。弘前文学館に入ってしばらくすると、僕らの後ろに文学館のスタッフの方がニコニコして立っておられる。振り返った主筆と顔を合わせると、「いやどーも」と。ここでも主筆はすっかり有名人である。企画展示「政論記者陸羯南 生誕150年・没後100年展」はこじんまりとしながらもポイントを押さえた展示。青木先生の書いた「陸羯南へのおもい」などもある。
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 記念事業実行委員会の舘田事務局長にもご挨拶し、ここでも「顔が利く」主筆のネットワークづくりに敬服! 施設の閉館時間も迫ってきたので退散。羯南の生家のあたりに行ってみようと弘前の市内を散策した。台風も通り過ぎたのか、雨もあがり、今日は「ねぷた祭り」の当日なのだが、山車(?)はそこここにあるものの街は意外と静か。祭りのさわりだけでも見て行きたそうな二人の空気を読めぬふりをして、一路、盛岡へ。(ひのさんは学生時代、友人たちと弘前ねぷたに跳ねに来ていたそうだ)
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 帰路、八幡平のあたりでまたしても雨。少し予定より遅れで嫁実家に到着。さっそく庭で宴会。主筆に「クガカツナンの・・・」と挨拶されてキョトンとしていた嫁の両親も、主筆の豊富な話題と、「飲めといわれれば、、、」という ひの嬢の「男前さ」にすぐに打ち解け、盛岡の夜はふけていった。後半はいつものように覚えていない。

 翌朝、元気に目を覚まし。9時過ぎにはもう原敬記念館へ。ここ5~6年、盛岡にもすっかり詳しくなって、道や店などもジモティなみになっているのだが、ここは初めて。羯南関係では手紙が一通あった程度だが、改めて原敬という人物にふれることができた。そういえば原敬もジャーナリスト出身なのだ。

 原敬記念館で主筆は後藤新平・斉藤実 生誕150年の情報を入手し水沢行きに興味を示し始めた。 せっかく東北まで来たのだからと、そこをまた察しないフリをして近所の鶯宿温泉へ。岩手・秋田方面の温泉にもだいぶ詳しくなったのだが、市内から近場ということではここは泉質・湯量・清潔さともに良くヒットである。

 御所湖を眺めながら戻ってきて、昼は昨日「早メシ」のリベンジとばかり、駅ビル・フェザンの最強回転寿司「清次郎」へ。2000円で新鮮な東北 海の幸を堪能して、解散。オツカレサマデシタ。主筆はやはり水沢で途中下車していたのですね。。。 かめたに
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by kuga-katsunan | 2007-08-09 13:04 | 紀行 | Comments(0)

ごとごと(後藤)言わずに  心配(新平)するな  

 青森、弘前、盛岡、又しても台風の中、羯南を一緒にたどった、かめたに君、ひのさん、と別れて、水沢へむかった。

 水沢は、後藤新平の故郷である。

品川弥次郎、谷干城、近衛篤磨、と強いバックアップを持った羯南が近衛の突然の死に、次の後援を求めたのが、この後藤新平だったようだ。

 有山先生の<陸羯南>では、近衛家への借金の肩代わりを、後藤新平へ求めようとする羯南の苦闘する手紙が引用されている。

<新聞社の方之事情ハ此春後藤と内談ヲ重ね、

愈々近衛家之方ニ而抵当解除ニ相成候上ハ

更ニ後藤之方へ抵当ニさし入れ可申内約ニそれを目当ニ無理算段致し

辛うじて今日迄維持致居候>

(明治38年5月31日 富田鉄之助宛書簡  全集第10巻  みすず書房)

 仕事がら、キャッシュフローに苦労する話は日常茶飯事だが、羯南も、本当に追い詰められていたものと拝察される。
同じ書簡集に、後藤新平からの手紙も、ニ三、掲載されているが、明治31,32年とする書簡もあるので、それなりの付き合いを重ねてきた関係だったのであろう。

 後藤新平は、掲題に掲げた警句のように、度量の大きい政治家であったが、もともとが医学を学んだ理系思考の人物だったようで、金廻りの方は実にキッチリしていたものと思われる。

水沢の街は<後藤新平・斉藤実 生誕150年>の旗であふれており、羯南もあわせてこの三人が同い年であったことに気づかされた。
後藤が羯南について語っている文章はないのだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-08-08 03:32 | 紀行 | Comments(1)

司法省法学校

  官立宮城師範学校を退校した羯南は、弘前に帰るわけにもいかず、東京へ向かった。
明治9年3月、羯南20歳の春であった。

  有山先生の著書によれば、当初東京師範学校へ入ろうとしたが、宮城師範学校からの通達で果たせなかった、という。このいきさつがなかったら羯南が自分たちの母校の先輩になっていたかと思うと不思議な気分もする。しかし、師範学校に行っていれば、新聞人羯南もいなかったかもしれない。

  やみくもに東京に出てきたものの、八方塞がりであった羯南にとって朗報であったのは、司法省法学校の生徒募集であった。官費で勉強できる学校は、師範学校と軍関係の学校というのが通念だが、この法学校も官費学校の一つであった。

  当時の地図を見ると、司法省のすぐ隣に法学校があり、丸の内1丁目8番、丸の内は山手線の内側というイメージが強いが東京駅をはさんで反対側もごく一部丸の内がある。今の八重洲北口を出てすぐのあたりになるが、こころみに歩いてみても駅周辺の再開発の波が激しく一面の工事現場となっていた。

  前田蓮山の書いた<原敬伝>(高山書院、1943年)には、当時の法学校の寮の部屋割が出ている。4人から6人部屋に分かれていたようだが、原は第1室、子規の叔父である加藤恒忠は第11室、羯南は第21室でルームメイトに国分高胤、後の青厓がいた。福本巴、後の日南は第30室以降だったようだ。

  羯南にとってここで得たのはフランス語の語学力、法律知識、そして最大の財産はこの終生続いた友人たちであったのだろう。若き日の羯南たちの武勇伝もいくつか残っている。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-07-10 22:23 | 紀行 | Comments(0)

官立宮城師範学校

 羯南は、明治7年地元弘前の東奥義塾を退学し、仙台に設立された宮城師範学校へ入学した。

 <宮城県史>11巻教育に師範学校が紹介されている。

<官立宮城師範学校は、明治6年8月18日の文部省布達によって、大阪師範学校と同時に、東京師範学校に次いで仙台に設置することに決定し、初代学校長として藩士であった大槻文彦が任命された。>

  教育の近代化を矢継ぎ早に進める明治政府は、各地に師範学校を展開していった。対象学区は

 新潟県、柏崎県、置賜県、酒田県、若松県、長野県、相川県、新川県(第六学区)
 宮城県、磐前県、福島県、山形県、水沢県、岩手県、秋田県、青森県(第七学区)

で、入学生徒の年齢が20歳以上35歳までであったことを考えると、18歳で入学を許された羯南は最年少の部類であったのだろう。

 <12月生徒の学業を試験し、下等小学第七級に進めたものが13人、元級に止まったものが27人、発音が正しくないために退校されたものが6人もあった。>

 46人中、進級できたのが13人だったというのは、その教育の厳しさを伺わせる。

 仙台在住の同窓の友人たかはし君に案内して頂き、宮城師範学校の跡地を訪れた。藩校である養賢堂のあった跡地に建てられた学校であり今の県庁の前庭の部分にあたるという。今は県庁に来訪する人々のための駐車場になっている。植木の中に、白いモニュメントのようなものを見つけたが、それは旧県庁舎の塔頭であった。今となっては学校を偲ぶ縁はない。

 県財政厳しきおりから、この駐車場も4月から有料になったという。杜の都、東北地方の首都も経済の荒波にさらされている。誇り高き仙台商人も他県からの攻勢にさらされて落城のうきめにあうところも増えてきているという。しかし日本中、どこへ行っても同じような町並みになってしまうことは、本当の意味での日本の底力を削いでしまうことになるのではないのだろうか。

たかぎ

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by kuga-katsunan | 2007-07-02 23:38 | 紀行 | Comments(0)

羯南 終焉の地

  <鎌倉別荘物語>(島本千也、私家版、1988年)という本がある。鎌倉に別荘をもった人々のエピソードを綴った作品だが、その中に羯南も紹介されている。

  <極楽寺に没した明治期の言論人>とされているのだが、彼の<浦とま屋>は当時の住所で<極楽寺561番地>、島本氏が明治期の別荘所有者の資料を調べたところによれば、所有者は<陸四郎>となっていたという。四郎は長男に夭逝された羯南が妻の兄の四男を養子にしたもので、羯南亡きあと継母と七人の義理の姉たちをよく面倒をみたと言われている。羯南の四女ともえが、高松亨明(弘前大学名誉教授、<陸羯南詩通釈>の著者)氏に会った時に言っている。

 「四郎が父の養子になった時は、まだ分別のつかない少年の頃で、今考えると可哀そうなことをしたもんだと思いますよ。でもね父の没後も色んなことがありましたが、四郎は本当によくやってくれましてね。」(陸羯南全集月報10、みすず書房 1985年4月)  

  羯南はこの場所の見取図を描いている。極楽寺村字姥ケ谷と書かれており、海の前に<洋人二三の別荘>を挟んで森に囲まれたあたりだったようで、そのうち一つは後に有島生馬の別荘になったということで、今でも海岸べりに有島の表札のかかった別荘がある。

 ではその有島家の別荘から高台を見上げてみると、江ノ電の線路をはさんで、いかにも現代的なログハウスが並んでいる。羯南自身も<松風濤声の外耳に入るものなし>と言っているように、当時は静かな海浜の別荘地帯のはしりの場所であっただろうが今となっては往時を忍ぶ縁もない。

 四郎は晩年姉の何人かと葉山に住んでいたという。今は染井霊園にある父の大きな墓のかたわらで、静かに眠っている。彼は、朝倉氏、大谷吉継、酒井家が治めた敦賀藩士の末裔であった。

たかぎ

  
 
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by kuga-katsunan | 2007-06-10 22:04 | 紀行 | Comments(0)

天田愚庵の庵

5月19日、たかぎ主筆と福島県いわき市に復元された天田愚庵の庵を訪ねました。
天田愚庵は江戸末期から明治の歌人・僧侶。陸羯南の親友として知られ、羯南と正岡子規を引き合わせた人物です。愚庵にはもう一つの顔があります。彼は、清水次郎長を世に送り出したプロデューサー。次郎長の養子にもなった彼の著書「東海道游侠伝」から、「清水の次郎長」が世間に知られることになりました。

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さて、愚庵については、またの機会にゆだねることとして、現地の報告です。
地元の天田愚庵研究グループ「愚庵会」の柳井守一さん=写真左=と小野田博さん=写真右=が、庵を案内してくださいました。1966年、京都・伏見桃山の庵が取り壊されると聞きつけた愚庵会が、移設を提案し、いわき市内の松ケ岡公園内に、当時のままの形に再現されました。地元の運送会社がトラックを出し、建材その他を運搬したとのこと。

六畳+四畳半+三畳間の高床式の庵は、愚庵のデザインによるものです。庭には、一本の柿の木があります。子規の歌作に大きな影響を与えたとされる柿の木(の子孫)との由。愚庵研究の第一人者、地元の故中柴光泰氏の自宅(いわき市)から移植されたものです。茅葺きの屋根は、愚庵没後100年の2004年にふき直されています。

「愚庵会は高齢化が悩みの種」など小一時間ほど、愚庵にまつわるお話を聞きしたあと、柳井さんが愚庵ゆかりの地を車でいろいろ案内してくださいました。ついつい足が伸び、美空ひばりの記念碑が建つ塩屋崎灯台に到着。この地を舞台にした映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、たかぎ主筆が学生時代学園祭で上映した思い出があると聞き、奇妙な因縁を覚え彼の地を後にしました。

ひろかわ
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by kuga-katsunan | 2007-05-28 02:56 | 紀行 | Comments(0)

弘前の桜と「生誕150年没後100年記念事業」

4月28日、日本一有名な弘前の桜にかこつけて、陸羯南研究グループが過去最大規模にて郷土文学館&図書館訪問。

一行は
たかぎ主筆
あまの顧問
いぬい
つかもと
ゲストとして青木塾一期生のむろた
主筆友人の在京テレビ局元北京特派員のK氏
たかぎ主筆の長女Aさん。

さらに桜見学専従コースの、
故青木先生奥さま
青木塾一の桜評論家であるしばざきと同塾一期生・はなやまの夫妻
いぬいの奥さまとご長男を加えると
なんと12人という大デレゲーションとなった。


一行は同日昼前に弘前城にて集合。数日前まで雪もちらついていた弘前だが、この日は雲一つ無い快晴。桜は全体的にはまだ5分咲きといった印象だが、天守閣そばのしだれ桜は満開。数多くの観光客がシャッターを押していた。
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(管理人、しだれ桜の前にて失礼)

また冠雪の岩木山がすばらしく、「名山名士を出す」といった羯南の言葉にも思わずうなずいてしまう。
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さて訪問先では郷土文学館の専門員・井上雅敬さんの出迎えを受けた。文学館では今、羯南生誕150年・没後100年展を開催中。展示ゆえ写真では紹介できないが、かなり大きなスペースを割いて直筆の書や関連の書籍などが展示されていた。
(青木彰師の「陸羯南研究に関する司馬遼太郎からの手紙」に関する一文も紹介されていた)

記念館に隣接する図書館の一室にある同実行委員会の事務局を訪問。事務局長の舘田勝弘さん、郷土のフリージャーナリスト・工藤幸夫さんに会う。が肝心の稲葉先生はご欠席。
聞けば有山輝雄の新刊本に刺激され、当面執筆に専念したいとのコト。

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館田さんのお話によれば、地元でも陸羯南の名前をしらないどころか、漢字が読めない人も多く、今回の記念事業をキッカケに県民と共に勉強するつもりで知名度を上げていきたいとのこと。

具体的には9月2日の命日をクライマックスにその前後で講演会やフォーラム。また記念俳句大会を計画している(俳句については弟子の正岡子規から習っていたそうだ)。

正岡子規との関係では7月14日から「陸羯南と正岡子規展」を市の近代文学館と共済。
また9月に弘前市長が松山市長を訪問し「坂の上の記念館」のフォーラムに出席するという。

工藤さんからは地元のシンポジウムにて我々のことを「東京の応援団」ということで紹介されたと伺った。次回は団旗でももっていかねばならないか。。。

我々としてはなんとかこの事業をきっかけに陸羯南の名前が広まってほしい。またそれが新たな研究の広がりに繋がっていくはずだ。

なお、同事務局では企業・個人による募金を募っている。一口1000円。問い合わせは
電話・FAX:0172-32-4855

執筆陣は別途塾のホームページに記載するのでそちらを見て欲しい。「東京の応援団」として事業の成功を祈るものである。

つかもと
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by kuga-katsunan | 2007-05-01 00:14 | 紀行 | Comments(0)

海軍軍医佐々木文蔚

 海軍軍医佐々木文蔚は、前出の津軽藩洋学の祖、佐々木元俊の息子である。
再び稲葉先生の論文によれば

<嘉永五年1852年生まれで、羯南より五歳年長で稽古館英学寮より東京帝国大学医学部に進んだ。
 のち明治二十五年十一月三十日瀬戸内海にて海軍がフランスに発注完成した「千島」艦軍医長として乗艦、本国へ回航中、英船ラヴェンナ号と衝突、乗組員とともに殉職した。
 軍医大尉で墓は西茂森の寶泉院。>

 <日本>はこの事件をどのように報じたのであろうか。

ゆまに書房の復刻版の紙面によれば、第一報がのっているのは、十二月一日の第2面の左下の欄、電報の欄である。

 <沈没溺死      松山   三十日午後一時四十五分

今朝未明 和気郡堀江沖に於て英船ラヘナ号と衝突し軍艦千島号沈没し
乗組員溺死多し>

 この時代、通信社が既に機能しており、この種の地方の事件が随時送られてきていたのであろうか。同じ欄には、高松発の県会問題、ロンドン発の貨幣会議の景況が並んでいる。ロンドンのニュースの最後には(ルートル)と書かれており、これはロイターのことだろうか。

 羯南はこの時点で自分の親族が、千島に乗艦していたのを知っていたのであろうか

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-03-04 07:37 | 紀行 | Comments(0)

日本新聞社の位置

  先日、陸羯南研究会経営分科会を毎日新聞社で開催した後、折角なので日本新聞社のあったあたりに行ってみようという話になった。

  日本新聞社は、旧住所でいうと東京市神田区雉子町32番地にあったという。
講談社版の子規全集の月報の中に<日本新聞社の位置>と題する一文があった。(子規全集月報22(3巻),講談社,"1977,11)

 <日本新聞社の位置,神田区雉子町32番地,団団社の社屋,青ペンキ塗りの明治の初めにできたという木造の洋館,31番地は宮本仲宅,淡路町2丁目から佐柄木町21番地,雉子町30番地を靖国通りが貫通,淡路町交差点よりやや九段寄り,宮本家は小川町1丁目>

  文中の団団社は、明治初期から続いた<団団珍聞>を発行していた社屋で、日本はその社屋を譲り受けた。余談だが、<団団珍聞>は、実に面白い雑誌で、これはこれでじっくり読み込んでみたい作品が並んでいる。

  当然当時の洋館はあとかたもなく、今はそれとおぼしき場所にはビルが立ち並んでいる。当時は政友社もこの裏手にあり、人の行き来も盛んで、壮士風の人々の出入りも盛んだった、という。日本新聞での議論が高まると向かいの牛鍋屋に席を移して、談論風発夜が明けるまで続いたという。この雰囲気を伝える文章はないだろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-02-25 20:55 | 紀行 | Comments(2)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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