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カテゴリ:紀行( 60 )

伊東重のこと

 羯南は多くの友人に恵まれた。
これも矢張り、羯南の磁場としての人間的魅力のゆえであろう
故郷弘前での一番の親友は医師でもある伊東重だろう。

 青森のいけださんのアドバイスで改めて、伊東重と羯南の資料を読み直した。
若き日々から晩年の亡くなる直前まで、羯南が伊東重に宛てた手紙が全集に収録されている。
ともすれば、失われてしまう個人の書簡がこれだけ見事に残っていること自体が、伊東の羯南への友情の深さだと思われる。
 伊東重は東大医学部でも将来を嘱望されたが故郷の両親への孝心篤く帰郷して開業、弘前の人々の為に医師てしての腕を振るった。

 いけださんと弘前の伊東家を訪れた日は、きしくも観測史上はじめてと言われるほどの豪雪の日だった。
新青森に着いたものの、奥羽線は全線ストップ、いけださんに手配して頂いたタクシーで二人で弘前に向かった。
 途中、大釈迦の辺りは猛烈な地吹雪でほとんど前が見えず。先行する車のテールランプを頼りの運転が暫く続いた。
 漸く弘前にたどり着いて、真っ先に伊東医院を訪ねた

 伊東重のひ孫にあたる当代の伊東先生をはじめ皆さんに、大変暖かくおもてなし頂き、伊東重について種々お教え頂いた。
 興味深かったのは、司馬遼太郎が隣にある、幕末にここを訪ねた吉田松陰を記念して保存されている松陰室を訪ねた時のエピソード。
 司馬さんは、感興極まり結局一晩松陰室の二階に泊まったという。

 幕末、ここを訪ねた松陰は、一夜、伊東梅軒と歓談し、漢詩を残している。

      男児欲略北夷陲

      難奈吾無百万師

      猶忻半日高堂話

      幸為此行添一奇

 当時、松陰は22歳、東北の旅を伴にした熊本藩士宮部鼎蔵は32歳、そして迎えた弘前の伊東梅軒は38歳だった。

 司馬さんが、松陰を主人公にした「世に棲む日々」では、しごくあっさりと、その旅程を紹介しているのにとどまっている。

  「松陰の東北旅行は、正月二十日に水戸を発したあと、会津、新潟、渡海して佐渡、さらに新潟にもどり、秋田、弘前、青森にいたり、そのあたりで冬はすでにすぎ、盛岡、仙台、米沢から関東に入り、日光、足利、館林をへて利根川の堤に出、堤上をあるくうちたまたま小舟をみつけ、たまたまその船頭が江戸へゆくというので乗せてもらった。
 両岸の田園はもはや菜の花のさかりである」
(司馬遼太郎「世に棲む日々」1969年)


 この小説、連載中、家で週刊朝日をとっていたので、読んだ覚えがある。
 本当は、この足取りを辿って、書きたかったのではないかと思われるが、大流行作家にそれは許されなかったのだろう。

 後に、街道をゆくの取材で、弘前を訪れ、「北のまほろば」を書いた時には、この松陰の漢詩からとって、「半日高堂ノ話」という章を書いている。

 司馬さんは、百数十年の時を超えて、若き松陰の息吹を聞いたであろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2013-03-03 07:45 | 紀行 | Comments(0)

羯南の中国行 2

 研究会では、まず最初の海外の旅をたどろうと昨年、沈陽、大連、旅順をまわった。
今年は弘前の陸羯南会の舘田会長をお誘いして旅程の最初の部分である天津、北京、そして万里の長城の出発点であり、中国の東北部から華北地域に入る入口である山海関をまわった。
 羯南は近衛篤麿に中国朝鮮への旅に誘われたときには参加を即断したわけではなかったようだ。篤麿の残した日記によれば、二度羯南を誘っている。
 羯南にとっては、自分の日本新聞社の経営状態もおもわしくなく、その資金繰りに頭を悩ませていた時期である。
 篤麿と共に明治三十一年に始めた日中関係の団体である東亜同文会の機関誌「東亜同文会報告」には、この旅の直前に行われたと思われる羯南の中国についての講演が採録されている。

   
  「東亜の平和」    附^満州開放の利益

と題された講演で羯南が説いているのは、日清戦争を機に南下して中国の東北地域に駐留してしまったロシアに対して、いかにして中国、朝鮮、そしてその先にある島国の日本の平和を守るかであり、老大国である清国を活かし、保全をして、北東アジアの安全保障を実現するかに主眼が置かれていた。      たかぎ
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by kuga-katsunan | 2013-01-20 07:30 | 紀行 | Comments(0)

羯南の中国行

 あっという間の年末だが、今年は弘前の羯南会の舘田会長様と、私達羯南研究会で北京、天津、山海関に羯南の足取りをたどった。

 東奥日報さんに紀行を掲載していただいたが、紙面の関係で縮刷バージョンとなった。
オリジナルをここに再度掲載させていただく。

「筑波大学時代の恩師青木彰先生と作家の司馬遼太郎氏が二人で取り組んでいた、弘前出身の明治時代の新聞人、陸羯南の研究を引き継いで、青木先生の教え子を中心に陸羯南研究会を行っている。

 羯南に関連する資料の収集、整理に加えて、羯南の足取りをたどる「羯南をゆく」の旅も仕事の合間をぬって出かけている。

 羯南は、故郷弘前を出てから、国内だけでも仙台、東京、北海道、鎌倉、富士山、京都とあちこちを動いている。

 彼は、こうした国内各地のみならず、二度海外にも出ている。

 一度目は、明治三十四年の七月から八月にかけて中国朝鮮へ、そして二度目はその二年後明治三十六年の六月から翌年の二月までの世界一周の旅である。」(続く)

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2012-12-08 05:30 | 紀行 | Comments(0)

青島の康有為

青島にすんでいる先輩のご案内で康有為が晩年住んでいた家を訪ねた。
 戊戌の政変の失敗、日本へ亡命した彼は、羯南や近衛篤麿の援助で日本に活動の根拠地を築こうとした。
 昨年復刻した東亜同文会の最初の機関誌東亜時論にも彼の弟子の梁啓超が文章を寄稿している。

 その後日本の対中政策の変化によって彼は再び日本を出て海外を流浪することになる。
香港に住んでいる頃、骨董街で彼の書を買おうかと思った。流浪の間、彼は支持者たちに書を書くことで糧を得ていたともいう。

 孫文らの辛亥革命の実現によって、中国に帰ることができたが、その主張は既に時代に追い越されていた。
 青島が旅路の果てとなったが、小高い場所にある家の窓から、黄海を眺めながら、彼の胸に去来したものは何だっただろうか。
 
 羯南や近衛は、彼の帰国よりも早く、明治34年の夏、山東半島の反対側の煙台に立ち寄っていた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2011-09-24 07:17 | 紀行 | Comments(0)

羯南とエジプト

いきなり私事から書き始め、たいへん恐縮でありますが、この三月、新聞社のカイロ特派員として三年間の任期を終え、帰国しました。

表題のテーマはたかぎ主筆からカイロ滞在中に与えられてはいたものの、一考するだけでも、あまりの突飛さに手を出しかねていたというのが実際であります。

 何せ、たかぎさんから与えられた材料は、陸羯南が明治三十六(一九〇三)年、米国・欧州旅行からの帰国の途、エジプトを通過したという史実、家族に宛てた絵はがきが残されているという二点だけです。

 それで、羯南の心情をくみ取れというのだから、無茶なものです。

 そうこうするうち、帰国も目前に迫った一月末のこと。

 日本学術振興会のカイロ事務所で不定期に開かれていた勉強会が開かれました。

 そのときのテーマが「エジプトの近代化と明治維新」。

 講師は、大阪大学で日本文化を研究したカイロ大学教授のイサム・ハムザ氏でした。

 氏の講演の趣旨は、欧米列強から遅れたエジプトと日本が、十九世紀から二〇世紀にかけて近代化に取り組みながら、なぜ現在のような違いが両国の間に生じたのか、というものです。


 大の日本びいきのハムザ氏のことであり、また時間的な制約もあったため、講演では「日本は欧米から自分たちに足りないものを取り入れ、近代化の基盤にした。

  エジプトは本当に必要なのかどうかも考えずに、何でもかんでも持ってきて、後には、がらくたしか残らなかった」と、ユーモアを交えて結論づけました。

 聴衆の大半はカイロ在住の日本人で、残りは日本語・日本文化を学ぶエジプト人の学生です。その結論に、会場は笑いの渦に包まれましたが、実は、この結論にこそ、羯南の当時の心情を読み取る鍵があるのだと私は思ったのです

  はまぐち
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by kuga-katsunan | 2009-08-08 00:53 | 紀行 | Comments(0)

大連だより  末永純一郎の墓所

  20年来の中国畑の友人のかたが北京に駐在していらっしゃる。
先日、大連出張のおりに、末永純一郎の大連の墓所について調べてきてくださった。

  ご自分のブログでご紹介いただいているので転載させて頂く。

<今回大連に行ったついでにお知り合いの調査に協力しました。

 それは100年前に大連で新聞を発行した人のお墓を探すと言うものでしたが、やってみると色々と新たな出会い、発見がありました。

 先ず大連駐在の日本人で一番歴史に詳しいと言われているKさんとお目に掛かりました。
現在要職に就いておられますが、学生時代は東洋史を専攻されたとのこと。
実は私も高校生までは史学科志望でしたので、非常に興味深くお話を伺いました。

『大連の歴史は僅か100年、それでも資料は膨大。仕事が無ければ色々できるんだけど。』

ということで、サラリーマンの私としても同感でした。

 また本年78歳のおじい様(中国人)ともお会いしました。
ホテルのコーヒーショップの中国人スタッフが全く気付かないほど、その物腰と言い、日本語と言い、日本のおじいさんそのものでした。
 20年前台湾に駐在した際、このような方(自分の祖父や父と同じ雰囲気を持っている)とお会いしましたが、大連でお会いできるとは思いませんでした。
 大連の小中学校で日本語教育を受け、現在も日本人同窓生と同窓会をやっておられるとか。また日中友好のために、日本人との積極的な交流を目指す会の理事もされています。

 勿論戦前の日本人墓地の場所、その後変遷などにも詳しく、多くを教えて頂きました。

 上記お二人のアドバイスで図書館も訪ねました。

 旧満鉄図書館に行くと、何でも知っている感じのおじさんが色々と教えてくれました。

 探す資料は全て大連図書館にあるということで、立派な本館にも行きましたが、残念ながら資料は整理されておらず、また100年前の新聞などは傷みが激しく、現物の閲覧は適いませんでした。

 しかしマイクロフィルムで保存している漢語誌を一部見せてもらい、初めて一級資料を眼にしました。

 そこには1912年の日本と中国の様子が広がっており、歴史を志した頃の感情が蘇り、感慨深いものがありました。

自分は一体何がしたいのか、昔は一体何を考え、そしてここまで来たのか、自らを再認識するきっかけを作る旅となりました。>

(香港老板茶荘:11月30日)

http://hkchazhuang.ciao.jp/diary/2008011bj.html

大連の写真はこちらになります

http://hkchazhuang.ciao.jp/gallery_bj/dalian2.htm

  なんと、末永純一郎の発行していた新聞<遼東新報>は、満鉄図書館に所蔵され、その資料はそのまま、今の大連図書館に引き継がれているのだ。

  明治34年7月から8月にかけて、近衛篤磨と陸羯南も、中国、朝鮮をめぐる視察の旅で大連を訪ねている。

  新聞日本が無くなったあとも、羯南の志を継ぐものたちは、台湾、朝鮮、そして中国へと雄飛し、アジアの各地で新聞を作り続けた。

  舞台は、いよいよ海外へ。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2008-12-14 22:17 | 紀行 | Comments(0)

湖畔に眠る<日露戦時旬報>  諏訪市中央図書館

  こなか君に富山の駅まで送ってもらい新潟方面の特急に乗った。

前夜、ながい先生に富山から諏訪にはどう行けば良いか、と聞いたところ、考えたこともない、という返事で<やっぱり一度東京に戻るのかな>、と。

  おり良く車掌さんが通りかかったので聞いてみると、糸魚川と直江津の二つルートがあるという。どちらが早いか見てもらい結論は、糸魚川から大糸線で南小谷へ抜け、そこから特急あずさに乗ってが早いですよ、それでも4時間はかかるという。

 たしかに東京へ帰るより遠い。

 途中の糸魚川から上諏訪への沿線は大雪の銀世界であった。しかし太陽は輝き、一種夢幻の世界であった。
 
 諏訪は吹雪かと思ったが、駅につくと快晴、嘘のような上天気である。諏訪湖は陽光を浴びて輝いていた。

 新聞日本のオリジナルがどこに所蔵されているかは、国会図書館のDBでわかる。おそらく各図書館の申告制なのだろう、附録、号外の所蔵を含めて非常に細かく記載しているところもある
諏訪には何故か明治37年1月から羯南が日本新聞社を売却した明治39年6月までの新聞が所蔵されていることになっている。
 では同時期に附録として掲載されていた<日露戦時旬報>、<日本画報>も一緒に所蔵されているのだろうか。電話で問い合わせたのだが不明だったので足を運んだ。

 地下の所蔵庫から取り出されてきたのは、4ケ月ごとに原寸大の紙箱に納められたオリジナルの新聞日本であった。

 最初の箱、明治37年1月ー4月、を開けると、メモが入っていた。そこには几帳面な字体で<日本週報>、<日露戦時旬報>の所蔵が書かれていた。
 内容を確認してみると、<日露戦時旬報>は、明治37年2月11日の日露戦争開戦の日の第一号から<日本画報>に移行する第十一号までがリスト化されていた。

 <日露戦時旬報>は、復刻版には掲載されておらず、神奈川県近代文学館、静岡県立図書館に第二号から第十一号までの所蔵は確認されていたが、何故かどちらにも<第一号>は幻となっていた。

  慌てて、コヨリで綴じられている新聞をくると確かに<第一号>はあった。しかもペ-ジの下の部分が切り開かれていない、さらの状態であった。図書館の方にお願いしてコヨリを解いて頂き<第一号>を取り出した。
e0106376_11281760.jpg


たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-12-29 08:41 | 紀行 | Comments(0)

旅路の果て 大連から前橋へ 遼東日報のこと

 日本新聞の関係者の多くが、台湾の台湾日日新聞で再び活躍をしたことは前に紹介したが
もう一人、大陸に雄飛したのが末永純一郎である。
 彼の実弟末永節(みさお)のことについては、福岡のおおうち君が末永節の晩年に接していた方にインタビューしてくれているのでご紹介できるチャンスがあると思うが、兄の純一郎のことである。

  http://katsunan.exblog.jp/5708889/

 彼は大連に居を移し、<遼東日報>という新聞を出しはじめた。
私自身、中国には10年以上住んだ経験があるので、まるで旧知の人間に会うかのような親しみを覚える。

 彼の作っていた<遼東日報>を何とか見られないかと思っていたのだが、東大の明治新聞雑誌文庫の司書の方がデータを見つけて頂いた。

 何故か、この東大でもなく、国会図書館でもなく、群馬文書館にあるという。
この文書館は、前橋にある。
  
 前橋は高崎から在来線に乗り換えてたどり着く、県庁所在地としては交通が便利とは言い難い。駅前の交番のお巡りさんも<群馬県立文書館?>という反応だったので、諦めてTAXIのお世話になった。

 文書館の方も、最初この<遼東日報>を発見できず不安になったが、あちこちと探して頂くうちに、ひょんなところに格納されていることがわかった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-12-22 06:23 | 紀行 | Comments(0)

葉山 パッパニーニョ 陸羯南の娘たちの家

 葉山の御用邸前のバス停を左にゆるやかな坂を上がったところに<パッパニーニョ>という名前の喫茶店がある。店に入ると、壁にはサッカーの神様ペレ、そしてドイツの星、ベッケンバウアーがにこやかに写っている写真が飾られている。サッカー少年だったやまだ君が見たら腰を抜かしそうな写真ばかりである。

http://www.pappanino.com/shop.htm

 この店のHPの右側に小さく写っている昔の板塀が、実は羯南の娘たちが暮らした家だった。かって羯南の研究者たちが、その論文のあとがきで書いている<葉山の家>がここである。

 <葉山町一色の陸家に行くには、坂をのぼらなければならない。

のぼりきって左手に門があり、門柱に

  「陸四郎」

と、樸実な書体で表札がかかっている。
 陸という文字を見るだけで、遠い世の羯南が不意にあらわれるような懐かしさが感じられてしまう。>

(司馬遼太郎  「 ひとびとの跫音」  中央公論社)

 司馬さんがここを訪づれた時は、陸四郎さんも、そして羯南の娘たちも元気で、この地に暮らしていたのである。

 ご主人に教えて頂き、庭のほうにまわってみる。
 旧若狭藩主酒井家の隠居所を移築したという建物は今でもそこに明治の人々が生きているかのような佇まいである。

 縁側には、古い本棚があり、そこには戦前の改造社とアルスの子規全集が並び、その下には司馬さんが編集委員をつとめた戦後版・講談社の子規全集が並んでいた。

 そして、なによりも全10巻が完結するまで多くの時間をかけた、ここのかっての住人たちの心やさしき父である羯南の全集が娘たちを庇護するかのように並んでいる。
これらの本が出るたびにその出版の関係者が運んできたのだろうか。

 そしてその和室の奥、床の間の前には、大変古びた<碁盤>が置かれていた。

この碁盤からは、今でも羯南の碁石を置く鋭い音が聞こえてくるような幻聴が、遠い葉山の海岸の波音とないまぜになって響いてくるようであった。

たかぎ





  
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by kuga-katsunan | 2007-12-09 07:59 | 紀行 | Comments(0)

羯南と雪嶺  その故郷

名山 名士を出す
 此の語 久しく相伝ふ
 試みに問う 厳城の下
 誰人か 天下の賢なるぞ
       
          羯南
 
 「名山の見える土地はすばらしい士を出すが、弘前からどんな天下の賢者がでたろうか」。ふるさとへの愛惜の念がにじむこの詩を読むと、羯南の日々の心象風景に常に山があったことが想像できる。
   ×    ×    ×
 金沢は思いのほか山が近い。天気がよいと、白山の峰がくっきりと空に浮かぶ。白山を源流とする手取川などの水系は大地にしみわたって土地を潤し、野菜をはぐくみ、うまい酒を生む。人々は、無意識のうちに白山を意識して暮らしていることに気付く。

 金沢出身の三宅雪嶺も、その幼少時代、朝に夕に白山をのぞみながら日々をおくった。
 「日本人はたいていふるさとの山を持っている」(深田久弥)なら、羯南と雪嶺もまた、ともにふるさとの山を胸に抱いていた。

 ところで、先に、雪嶺の研究者が地元にあまりいないことを指摘した。
 その理由のひとつに、比較的若い時期に、雪嶺が金沢を離れたことが、あるいはあるかもしれない。が、雪嶺の逸話にはふるさとへの思いの強さをうかがわせるエピソードも多い。

 例えば、兼六園の冬の風物詩として知られる「雪つり」を懐かしみ、東京では雪が降らないにもかかわらず好んで家の庭に雪つりをさせていたこと、冬には必ず石川県の味覚である「かぶら寿司」を妻に作らせては賞味していたこと、どちらかというと人には会いたがらない傾向があったが、「金沢から来た」という人には、喜んであったこと、さらには、金沢を訪れると必ず生家跡を訪れ、老松の下で昔をしのんだこと、などである。

 石川県を地盤とする地元の北国新聞にも、「愛郷心と愛県心」「大金沢人と大名古屋人」「北国新聞の任務」など数多くの記事を寄稿した。また、講演もよく行い、北陸人の優秀性を褒め、県民に積極的な生き方を説いたという。

 北国新聞が1934年(昭和9年)に15000号発刊記念として金沢で開いた講演会では「北国人の再検討」と題して雄弁を振るい、地元の人を激励している。

こなか
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by kuga-katsunan | 2007-10-15 20:04 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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