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カテゴリ:紀行( 60 )

梁啓超故居 その1

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北京も日本の住宅地図ほどではないがかなり詳しい地図が出来てきている。
あまりにも変貌してしまった古都なので、手元において土地勘をつけるためにパラパラ見ている。
名所旧跡のたぐいもそれなりに出ている。当たり前だが、旧城内に多い。
北京は、他の多くの都市と同じで中華人民共和国成立以降、その城壁を壊して都市の近代化を進めてきた。
城壁のあった後は大きな道路となり、旧城内は基本的には碁盤の目のようになっている。
しかし現実主義的 な中国の人たちは、碁盤の目の中を更に迷路のように路地を作りそこかしこに住居を作っていった。

故宮を中心に東側を東城、西側を西城と呼び、東城に梁啓超の旧居の記述を見つけた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-07 21:06 | 紀行 | Comments(0)

梁啓超の墓参  その2

梁啓超は、清朝末期、政治家、ジャーナリストで、その師であった康有為と
共に、1898年の戊戌の変に敗れ、日本大使館に助けを求めて日本へ
亡命した。結局辛亥革命の翌年の1912年に中国へ戻ったが、その間に
日本で受けた影響は大きなものがあったものと言われている。

亡命期間中に、日本の種々の人々と交友したが、その中に羯南もいた

細かい資料は、日本においてきてしまったので、ここでは割愛するが
興味を持たれた方は、彼の年賦や、<共同研究 梁啓超>
また、中国の研究者の方の最近の研究をご参照頂ければと思う。

犬も歩けば、ではないが、こんな形で、羯南にからむ
北京を紹介していければ、と思っている。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-06-29 22:47 | 紀行 | Comments(0)

梁啓超の墓参  その1

家内が慰問に来てくれたので北京の郊外にある植物園に出かけた

香山という地域で北京の北西にあり、大学地域、頤和園を抜け更に北西に上がる
もともと秋の紅葉が有名な地域だ

香山紅葉好

かって留学した時に教科書にもその美しさを謳う文章が載っていた

広大な植物園の奥に臥仏寺という釈迦の涅槃像で有名な寺がある
今はその寺を覆い包むように、植物園が形成されている

雨上がりの早朝、まだ人もまばらな植物園を奥に進んでいくと
<梁啓超墓>の指示板があった。
こんなところに、という意外の思いもあり、指示板のさすままに
進むと石づくりの大きな墓である

建築家であった息子の設計による、という墓石だが、なにやら
20世紀初期のヨーロッパの建築様式も感じさせる。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-06-29 22:40 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(旅順③)

旅順①②を踏まえて、研究会一行の踏査実績について簡単にコメントしたい。

1) 東鶏冠山北堡塁
 旅順港旧市街の北から北東約5km付近にある堡塁群(北から北東部へ松樹山、二龍山、一戸、東鶏冠山北)の中で、最強の堡塁と呼ばれたもの。乃木軍の最初の総攻撃は正面突破として、この堡塁群へ向けて行われた。

 この堡塁群は、ロシア・旅順守備隊最強といわれたコンドラチェンコ少将によって指揮されていたが、コ少将は12月15日、28cm榴弾砲の直撃弾を受け死去した。堡塁内に慰霊碑がある。

 堡塁内には、固焼き煉瓦をベトン(コンクリート)で塗り固めた頑強な兵舎跡が残り、小さな野砲等では全く歯が立たない理由がよくわかった。第11師団(善通寺)が占領したとの碑があった。

2) 一戸堡塁
 津軽出身の一戸兵衛少将(第6旅団長、当時少将でのちに大将)が、第2回総攻撃時に奪取した堡塁である。地図上では、東鶏冠山北堡塁の北西側のやや下った場所に位置するが、今回の踏査では現況を確認できなかった。

 満州戦跡保存会編『明治三十七八年 戦跡記念写真帖』(1920年発行)には一戸堡塁記念碑の写真があり、「『一戸堡塁』/明治三十七年八月以来第九師団及後備歩兵第四旅団ノ一部隊之ヲ攻撃シ同年十月三十日一戸旅団長躬(みずか)ラ戦ヲ督シ占領ス/陸軍大将 一戸兵衛書」との記述がある。

 元々はP堡塁と呼ばれていたが、一戸少将が奪取したことから、明治天皇の勅命で一戸堡塁と命名されたという。一戸少将は、8月の第1回総攻撃の時に、既に旅順の町を一望できる望台砲台近く迄達していたが、撤退命令を受け、やむなく引き返したという。
 

 佐野正時著『北の鷹-学習院長一戸兵衛大将の生涯』によれば、司馬遼太郎は魅力的な人物だと惚れ込み、太宰治は故郷の偉大な先輩と敬愛し、泉鏡花は「軍人は嫌いだがあの人は別だ」と、それぞれ一戸大将について、人格者として高く評価している。

3) 望台砲台
 東鶏冠山北堡塁の東側にあり(標高185m)、旅順市内や主な堡塁・砲台を一望できる。ロシア軍が降伏した1905年1月1日に第9師団(金沢)と第11師団によって占領された。

 現在でも2門のロシア軍の砲が置かれている。望台から旅順港自体は、白玉山の陰となって必ずしも十分に見渡すことはできなかった。

4) 水師営
 1905年1月5日乃木将軍とステッセル将軍が会見した場所である。尋常小学唱歌-第5学年用-『水師営の会見』で有名。

5) 高崎山(164高地)
 1904年8月15日に第1師団高崎連隊が占領したことからこの名前が付いた。高崎山の麓付近で車を降りたが、203高地の北3km旅順港は相当距離(直線距離で10km弱)がある。203高地は望めるがかなりの距離があった。

6) 203高地
 203高地は、1904年12月5日に乃木軍が占領した。旅順港を東南の方向に臨めた(直線距離で5~6km程度)。NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」第11回放映(2011年12月11日)で観た、203高地から望んだ旅順港よりは、実際は近く感じた。

 正に港内は「まるみえ」であった。高地に散乱していた砲弾などを集め弾丸型の記念碑(10.3m)を建立し、爾霊山と記して戦死者を弔った。乃木将軍の次男・保典もこの山の山腹で亡くなっている。

7) 白玉山
 ここからは、旅順港および旅順口、市街地を一望できる。眼下に見下ろす旅順口は、100m足らずしかなく、陸上砲台を考慮外とすれば、閉塞作戦が可能と思わせるものであった。

 第二次閉塞作戦で落命した広瀬中佐に心で手を合わせた。なお、ここには東郷平八郎と乃木希典が日本兵の慰霊のために建てさせた66.8mの塔がある(1909年完成)。

8) その他
 その他としては、大谷コレクションがある旅順博物館、旅順の駅舎、大連と旅順を結ぶ予定の都市高速鉄道(旅順南線)の建設中の状況等を視察した。

  しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2013-10-07 20:00 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(営口②)

 営口の街は、遼河の河口に開けた。
 街を歩いてみると、19世紀の洋館を思わせる建物がそこここに残っていた、
 交差点にあった日本人居留民団の倶楽部は、今は銀行の支店になっていた、
ちょうど改装中だった支店の中に入れてもらうと、壁のあちこちに古い写真が飾ってあった。
写真の中には、各国の領事館があり、また学校があり、そして今いる居留民団の倶楽部の昔の姿が残されていた。
 写真を見つめていると、自分が19世紀の街角にいるかのような錯覚に陥ったが、工事のドリルの大きな音で吾にかえった。
 夏休みの家族連れでにぎわう中国の田舎町は、平和の有難みを強く感じさせた。

 たかぎ

 
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by kuga-katsunan | 2013-08-29 17:07 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(旅順②)

 われわれ研究会一行は、東鶏冠山北堡塁、一戸堡塁、望台砲台、水師営、高崎山、203高地、白玉山などを一日で駆け抜けた。
 本稿では、まず、『坂の上の雲』(文庫本)の日露戦争・旅順に関する記述(文庫本(4);「旅順」、「旅順総攻撃」、同(5);「二〇三高地」、「水師営」)に基づき概要をまとめてみた。

 1)旅順攻略の目的
 日本陸軍にとっては、当初旅順攻略は主目的ではなかった。しかし、海軍の要請(バルチック艦隊が日本に到達する以前に、ロシア旅順艦隊を陸上部からの攻撃によって全滅させること)および陸軍にとっても海上輸送の安全性を確保するとの観点から、第三軍(司令官:乃木希典)が旅順攻略をおこなった。

 2)旅順攻略に関する日露両軍の投入戦力と人的損害
            日本軍         ロシア軍 
投入戦力      100千人 (注1)    35千人
死傷者      60,212人         18千人
戦死者      15,400人        2~3千人
 

 3)攻略経過
(1904年2月24日、3月27日、5月3日に第1~3次旅順口閉塞作戦
       (延べ21隻)実施)
1904年
8月15日 高崎山(164高地)占領(第1師団)

8月19日 第1回総攻撃(日本軍死傷者15,800人)
8月24日 第6旅団(旅団長:一戸兵衛少将)望台砲台に達する
       も反撃激しく、また撤退命令を受けたため退却(注2)

9月19日 第2回総攻撃(203高地も攻撃)
10月26日 第3回(第2回ともいう。)総攻撃
10月31日 第6旅団、一戸堡塁(P堡塁ともいう。)占領 

11月26日 第4回(第3回ともいう。)総攻撃(含む白襷隊)
11月27日 乃木将軍、攻撃の力点を203高地へ変更 
12月 4日 203高地へ28cm榴弾砲による集中攻撃
12月 5日 203高地占領

12月15日 コンドラチェンコ少将、東鶏冠山北堡塁内で戦死
12月18日 東鶏冠山北堡塁占領(第11師団)
12月28日 二龍山堡塁占領(第9師団)
12月31日 松樹山堡塁占領(第1師団)

1905年
 1月 1日 望台砲台占領(第11師団)、ロシア軍降伏

 (注1) 第1師団(東京)、第7師団(旭川)、第9師団(金沢、この中に一戸
     少将率いる第6旅団あり)、第11師団(善通寺)
 (注2)文庫本(8);あとがき四
                                      (つづく)
    しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2013-07-25 22:53 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(金州①)

 高木主筆を始めとする“羯南の遼東半島足跡を辿る”旅の一行六人は、初日、大連空港に到着するとマイクロバスに乗り高速道路で、金州へ向かった。

 金州は日清・日露の両戦争で戦場となったところである。

 また、正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として滞在した地であり、彼の句碑が建てられている。
(つづく)

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2013-07-21 09:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(営口①)

 昨年の、北京、天津、山海関に続き、明治34年7月から8月にかけての羯南、近衛篤麿らの足跡は、前回のしぶさわさんの記述のようにまずは営口に寄った。

 営口は当時、船の交通で奉天に向かうのが主要なルートだったため、その入り口の遼河の河口にある都市として、栄えていた
 軍艦は営口の沖合に停泊し、羯南たちは小舟に乗り換えて上陸している

 そこには、日本領事館と現地の横浜正金銀行、三井物産のメンバーが出迎えに出た

 領事館があったことも驚きだが、横浜正金銀行、三井物産の支店があったことから、この地がまさにビジネスの拠点の一つだったことがわかる

 明治に入って既に、34年がたち、若き近代国家日本も、基本的な海外ネットワークのインフラを持つ段階に来ていた。

 たかぎ
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by kuga-katsunan | 2013-07-20 05:42 | 紀行 | Comments(0)

羯南の遼東半島足跡を辿る(旅順①)

 有山輝雄『陸羯南』p.235によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行ったという。更に『近衛篤磨日記』pp.239~241によれば、同年8月9日~10日は旅順に立ち寄っている。

 同日記に基づき、より具体的に述べれば、8月8日午後10時、一行は芝罘(チーフー;現在の煙台)を出港し(ロシア船ナガダーン号)、9日午前6時に旅順に入港している。同日近衛篤磨らは三井物産の支店に、陸羯南他は長崎ホテルにそれぞれ宿泊し、夜は長崎ホテルにて日本人懇親会に臨んだ。そして翌10日には大連に向かった。

 そこでわれわれは、陸羯南の旅順での足跡に加え、『坂の上の雲』における旅順に関する記述を参考にして旅順踏査を実施した。旅順踏査の内容詳細については次稿以降で述べたい。

 しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2013-07-19 20:30 | 紀行 | Comments(0)

三代を生きたジャーナリスト 蘇峰

 有山先生のご推薦で、二宮にある徳富蘇峰記念館に向かった。

羯南のライバルというのも難しいが,羯南の生涯の短さ,蘇峰の生涯の長さを考えると単純に比較できない。
短い人生であるがゆえにその思想の輝きを持つ部分もあるが、逆に長い人生では、晩節の過ごし方の難しさも思いやられる。

二宮は、小田原と藤沢の間にある。

藤沢で、羯南の年賀状を見せて頂いた記憶がよみがえる。
駅から山の方に上がると、新緑が雨上がりに美しい。山側の邸宅が並ぶ一角に記念館はあり、蘇峰の資料が並んでいる。

http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/


大河ドラマで話題の新島譲夫人八重からの手紙も展示されていて、蘇峰が、新島襄の弟子だったことを知る。蘇峰の生涯での人との出会いの多さをあらためて知らされる。

昭和29年には、なんと日本テレビに出演までしている写真まで展示されいた。
蘇峰は、昭和32年11月に95歳で亡くなった。

三代を生きた彼は、十万冊の蔵書と四万八千通の書簡を受け取り、それが保存されている。
書籍収集の意義は、内藤湖南に教えられた、という。

羯南、三山の書簡を拝見した。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2013-04-21 21:48 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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