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カテゴリ:紀行( 59 )

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る①

 有山輝雄『陸羯南』p.225によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行っている。
 そして『近衛篤磨日記』pp.242~255によれば、上記旅行のうち、一行は同年8月15日~24日に仁川・京城(ソウル)に滞在している。

 同日記などによって主な見学先・訪問先を見れば以下の通り。
8月15~16日 仁川市内
17日 東大門、閔妃廟等
18日 昌徳宮(仁政殿等)、景福宮(勤政殿、思政殿、慶会楼等)
19日 漢城病院、慶運宮(皇帝、皇太子に拝謁)
20日 京釜鉄道起工式
21日 京城学堂、漢城新報館新築落成式 
22~24日 仁川市内

 以上の内容に基づき、北京在住のたかぎ主筆とともに、また韓国外国語大学の小澤康則教授の協力・情報提供も得て、羯南の京城(ソウル)での足跡をトレースしてみた。
 内容詳細については次稿以降で述べたい。
 
しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-01-20 22:09 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑦(最終)

***29日書画骨董街(琉璃廠)***

 琉璃廠は、天安門から南西2km弱(または地下鉄2号線・和平門駅から南新華街を南へ600m)の処に、南新華街を跨ぐように存在している筆、硯、印章、書画骨董等を扱う骨董街である。

名前の由来は、明時代に琉璃瓦を焼く窯があったことによるという。

清時代には科挙試験の受験生が、「文房四宝(筆墨硯紙)」を求め、書画骨董を売り買いする文人墨客などが集い、専門店街が形成されたという。

近衛篤麿日記p.235には「…□□□(店名不記)にて買い物をなし…」となっているが、これが書画骨董街(琉璃廠)の一店であったと考えられる。7月29日の午前中に立ち寄り、午後1時は帰寓しているのでそれほど長いした訳ではなさそうである。

 たかぎ主筆とわたしも、何店か冷やかしてみた。道の両側に大小の専門店が軒を連ね、かなりの大作から小物まで、非常にバラエティに富んでいた(怪しげな地下室にも案内された)。書画骨董にさほど造詣のない人でも、結構楽しめる穴場の観光スポットであると思われた。

 羯南ら一行は、翌30日に天壇停車場から10:20の列車で、天津に向かっている(午後4時天津着)。

しぶさわ

下写真
琉璃廠(東側)
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by kuga-katsunan | 2014-08-04 21:35 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑥

***27日恭親王訪問、醇親王訪問(不在)、粛親王訪問***

 恭親王とは、愛新覚羅 溥偉(あいしんかくら ふい、1880-1936年)のことで、愛新覚羅 奕訢(あいしんかくら えききん、道光帝の第6子)の孫。溥儀(宣統帝)が即位し、政権を担当した醇親王体制下では冷遇され、満州国においては役職に就かず。

 醇親王とは、愛新覚羅 載ほう(あいしんかくら さいほう、1883-1951年)のことであり、清朝最後の皇帝である第12代宣統帝・溥儀とその弟・溥傑の実父、第11代皇帝・光緒帝の弟。

羯南らが、訪ねた時、義和団の乱によるドイツ公使殺害に対する謝罪使としてドイツへ派遣されていた。

溥儀が満州国皇帝になることに反対したため、漢奸とならず中国共産党政権下でも生活が保障された。

邸宅である醇親王府は、西側の庭園(明珠花園)が後に宋慶齢(孫文の妻、中華人民共和国名誉主席)の公邸(現在は「宋慶齢故居」)。東側邸宅部分は国家宗教事務局に転用されているが、清朝の大規模皇族邸がほぼ完全な形で残されている稀少な例となっているという。

 粛親王とは、愛新覚羅 善耆(あいしんかくら ぜんき、1866-1922年)のことであり、太祖ヌルハチから数えて10代目の子孫。義和団の乱から辛亥革命勃発までの10年間に枢要大臣を歴任し、近代化改革を促進。日本より招聘した川島浪速を北京警務学堂の創設にあたらせるなど親日家。川島浪速とは義兄弟の関係を結び、第14王女顕玗(けんし)を川島の養女(日本名川島芳子)とした。

羯南らが、歴史上の重要となる人物や関係者に会う、または合おうとしていたことがよく分かる。

下写真(上)
恭王府

下写真(中)
宋慶齢故居

下写真(下)
醇親王府の碑

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-31 23:31 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る⑤

***25日/頤和園(万寿山、昆明湖など)、円明園***

 近衛篤麿日記p.232.によれば、25日は「万寿山に赴く・・・船形石造の楼閣上に於て午餐を喫し、・・・イタリヤ守備兵に小船を出さしめ、湖上(昆明湖)を一周し、・・・玉泉山に至り、冷水を汲み・・・円明園の古跡を訪ね・・・ドイツ兵の占領したる万寿寺をみる・・・」とある。

羯南が訪れた1901年は、義和団事件が起こった翌年であり、外国兵が各地区を占拠していたことが文面からも分かる。

万寿山、昆明湖を含む頣和園は、総面積290万㎡で、全面積の3/4が昆明湖。北京最大の皇家園林(皇室とその一族の庭園)で、世界遺産である。1750年に第6代皇帝の乾隆帝が造成したが、1860年の第二次アヘン(アロー)戦争で、英仏連合軍が破壊した。

1884~1894年、第11代光緒帝(西太后の甥で、西太后の傀儡といわれている。)が再建した。再建には、海軍経費の15年分を要したため、北洋艦隊の再建予算を流用し、このことが日清戦争敗戦の要因の一つとも言われている。

西太后が、頣和園(穏やかさを養うの意)と名づけた。
しかし、1900年に8ヶ国連合軍で再び破壊され、西太后が1902年に再度再建した。

従って、1901年に羯南たちの観た万寿山付近はかなり破壊されていたか、再建中であったものと推測される。

羯南たちが、昼食をとった船形石造の楼閣は、「清晏舫(せいあんぼう)」と呼ばれ、全長36mの石の船である。神仙世界の蓬莱島へ向かう宝船だという(現在は立ち入り禁止)。

玉泉山は、昆明湖から西に1km足らずのところにあり、昆明湖の水源。乾隆帝が、「天下第一泉」と賞賛したという(周辺は静明園という)。

円明園は、皇家園林である3山(万寿山、玉泉山、香山)、5園(円明園、頤和園、静明園、暢春園、静宣園)の内、第一といわれたが、1860年の第二次アヘン戦争で、英仏軍から徹底的な破壊と略奪と放火を受け廃墟となっている。この時に大量の書画骨董、宝石、黄金とともに、乾隆帝編纂の「四庫全書」(中国最大の漢籍叢書36000冊=10億文字)も失われたという。

羯南たちはきっと欧州列強、とりわけロシアの脅威を改めて再確認したであろうと想像される。

しぶさわ

下写真(上)
昆明湖にある清晏舫(石船)

下写真(中)
昆明湖畔から万寿山を望む。

下写真(下)
円明園内の西洋楼遺址区
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by kuga-katsunan | 2014-07-30 20:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る④

***23日故宮(大雨のため景山には行かず)***

たかぎ主筆と私は天安門(故宮の南側)から故宮に向かった。

故宮(古い宮殿の意)は、かつて紫禁城と呼ばれた。紫禁城とは、天帝が住んでいる星(北極星)を紫微星ということから紫宮と呼び、禁城(庶民が出入りできない城)との2語を掛け合わせたものだという。

1406年に建設を開始、1421年に明の永楽帝が南京から北京へ遷都した。その後1644年に清に引き継がれた(現在の建物は清朝時代のもの)。北京の故宮(博物院)には93万点(この他台北の故宮博物院に64万点)の宝物がある。

故宮は、乾清門を境に、外朝(オフィシャルスペース)と内廷(皇帝一家のプライベートスペース)に分けられる。72万㎡の敷地に15万㎡の建物、周囲には幅52mの筒子河(とうこが)という濠、高さ10m城壁に囲まれている。

羯南が故宮をどのように詳しく観たかは不明だが、1933年からの中華民国政府による宝物の南方への疎開前なので、豪華な宝物を十分堪能できたのではないだろうか?

下写真(上)
外朝入口の午門、両側は修理中であった。

下写真(中)
北東角の楼閣(遠く北西角の楼閣)を望む。

下写真(下)
羯南が行けなかった景山(故宮北側)から故宮を望む。

しぶさわ

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by kuga-katsunan | 2014-07-29 07:48 | 紀行 | Comments(0)

〈梁啓超故居その3〉

故居があるはずの北河沿胡同をやっと見つけて、北に上がって行った。
狭い道に左右に古い家が並んでいる。
地図や百度百科という中国の調べものサイトによれば、そろそろという場所
まで来たが、それらしい建物が見当たらない。
ただ、右手の普通の家に「梁啓超書斎」という小さい看板がかかっていた。
ご丁寧に 「個人の家なので問い合わせ無用に願います」 という貼り紙も
ある。書斎が此処ならその向かいが住居かと思い、道の反対側を見ると、
これもまた小さく「四合院」のパネルがかかっていた。
中を覗いてみると、小さな部屋に別れて幾つかの家族が別れて住む、
伝統的な四合院だった。
今や、梁啓超を偲ぶのは向かいの家に掲げられた書斎の表示だけ。
彼の子供たちも、墓を作った長男の建築家をはじめ、中国の現代史に名を
残しているが、時ははや二十一世紀も十数年を過ぎて、皇帝英雄文人が
あまた輩出した北京では、順番に歴史の暗闇の中に消えて行くタイミング
なのかもしれない。
燕京の名前の由来となった、燕たちが胡同を飛び去って行った。

たかぎ

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by kuga-katsunan | 2014-07-27 21:56 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る③

***22日/孔子廟、国子監***

孔子廟(下写真の上)
1302年皇帝フビライが漢民族の知識階級を懐柔するために築かせたといわれている。山東省曲阜の孔廟に次ぐ規模(22千㎡)。明、元、清時代の科挙合格者の石碑もあり、日本では天満宮といったところか。写真でもわかるが、孔子像の下には絵馬のようなものが多数ぶら下がっていた。
最近、中国共産党も儒教社会主義を提唱し始めているという。中国と日本を含めた周辺諸国においても、孔子のいう仁(人間愛)と礼(規範)による理想社会を実現し、近隣諸国相互に仲良くしてほしいと思う。

国子監(こくしかん、下写真の下)
1306年に建設された中国の最高学府。支配階級のモンゴル人に漢語を、漢族にモンゴル語を教えるのが目的。孔子廟の隣に立つのは、当時の建築規定「左に廟、右に学」に従ったもの。
湯島天神と東大、あるいは北野天満宮と京大の関係みたいなものですかね。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-24 22:17 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る②

*** 7月21日北京天壇停車場に到着 ***

天壇の東南側に天壇停車場はあったようである。

現在このあたりに駅はない。一番近い北京南駅(この駅から天津行の新幹線が出ている、所要時間:30~40分)から北東へ2km程度。

因みに天壇は天安門から南南東へ4km弱の位置にあり、明、清時代の皇帝が五穀豊穣を願って祭祀を行った、現存する中国最大の祭祀施設(総面積273万㎡の公園であり、世界遺産)。

天壇は、圜丘(かんきゅう)、皇穹宇(こうきゅうう)、祈念殿(きねんでん)からなり、

 圜丘は、皇帝が毎年冬至の日にここに上り、天帝にその年の出来事を報告した所

 皇穹宇は、皇帝の位牌がおかれた円形の建物

 祈念殿は、皇帝が正月に豊作を祈願した、3層38mの高さで、直径30mの円形木造建築物

である。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-24 21:01 | 紀行 | Comments(0)

羯南の北京での足跡を辿る①

 有山輝雄『陸羯南』p.225によれば、明治34年7月10日~8月30日までの間、近衛篤磨・陸羯南等5名は清国・韓国旅行を行っている。
 そして『近衛篤磨日記』pp.230~235によれば、上記旅行のうち、一行は同年7月21日~30日には北京に滞在している。

 同日記などによって主な見学先・訪問先を見れば以下の通り。

7月21日/晴/炎熱安眠を得ず/
       午後2時過ぎ、天津から北京天壇停車場に到着
   22日/午後雨/警察学校、孔子廟、国子監など
   23日/大雨/故宮(大雨のため景山には行かず)
   25日/晴/頤和園(万寿山、昆明湖など)、円明園
   26日孔子廟   
   27日恭親王訪問、醇親王訪問(不在)、粛親王訪問
   29日書画骨董街(琉璃廠)
   30日10時20分北京天壇停車場発(午後4時天津着)

 以上の内容に基づき、北京在住のたかぎ主筆とともに、羯南の北京での足跡をトレースしてみた。
内容詳細については次稿以降で述べたい。

 しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2014-07-22 23:02 | 紀行 | Comments(0)

梁啓超故居 その1

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北京も日本の住宅地図ほどではないがかなり詳しい地図が出来てきている。
あまりにも変貌してしまった古都なので、手元において土地勘をつけるためにパラパラ見ている。
名所旧跡のたぐいもそれなりに出ている。当たり前だが、旧城内に多い。
北京は、他の多くの都市と同じで中華人民共和国成立以降、その城壁を壊して都市の近代化を進めてきた。
城壁のあった後は大きな道路となり、旧城内は基本的には碁盤の目のようになっている。
しかし現実主義的 な中国の人たちは、碁盤の目の中を更に迷路のように路地を作りそこかしこに住居を作っていった。

故宮を中心に東側を東城、西側を西城と呼び、東城に梁啓超の旧居の記述を見つけた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-07 21:06 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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