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カテゴリ:紀行( 60 )

ロシアの羯南

 端午節の休みを利用して35年ぶりにペテルブルグとモスクワを回った。
前回は1982年の1月、まだソ連時代で、ブレジネフ末期、その後まさか
このような社会の変転をたどるとは夢にも思えない雰囲気であった。
 フランクフルトまで、Panam(この飛行機会社もなくなってしまったが)
の西まわりで世界一周のチケット12万という超格安で、一周の途中でヨー
ロッパをうろついた。フランクフルトから東へ、ウイーン、ブダペスト
そして黒海が見たいという単純な理由でルーマニアの東はずれの街、
コンスタンツアまで辿りついた。
 今考えると大胆だが、コンスタンツアに向かう列車で知り合った男性の
家に泊めてもらった。ルーマニアも社会主義という名前の独裁国家
チャウシェスク大統領の専横が極度に高まっていた時代。外人を勝手に
宿泊させる、というだけでスパイ行為を疑われるような社会で、その男性も
非常に大胆だったと思う。秘密警察の突然のチェックが入るからその時には
かくれてくれ(何語でお互い理解しあったか、こちらも不明)という話もあり
ドキドキの一泊だった。5歳位のジョルジュという男の子が、時ならぬ見る
からに違う来訪者に無邪気にはしゃいで可愛かったのを今も覚えている。
 1月の黒海のくらく荒れた海面を見て、首都のブカレストに戻った。

                           たかぎ

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by kuga-katsunan | 2017-06-05 08:34 | 紀行 | Comments(0)

ワルシャワの羯南

 36年ぶりにワルシャワを訪れた。
81年の2月だったが、自主労組<連帯>の運動が盛んになってきた時期で、社会主義政権の末期
経済的には非常に厳しい状態に追い込まれていた。

 羯南は1903年の8月にワルシャワに来ている。

たかぎ 

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by kuga-katsunan | 2017-02-06 04:00 | 紀行 | Comments(0)

羯南の釜山(プサン)での足跡を辿る

 「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.254-256.によれば、羯南ら一行は、明治34年8月24日、仁川港を木曽川丸にて出帆。25日木浦(モッポ)。26日に午前6時半に釜山に着き、馬山(釜山の左隣、現在の昌原市)へ移動し当地泊。27日11時釜山着。龍頭山に上り、領事館入りし休息している(領事は、仁川より同行の能勢辰五郎)。当日17時には長崎に向け出帆している。

我々高木主筆以下一行4名は、現在の日本総領事館の所在地を確認した(写真参照)。

羯南が訪れた当時、領事館は龍頭山の麓にあった模様である(我々はそのすぐそばの釜山観光ホテルに宿泊)。 http://nekonote.jp/korea/park/pusanfu/index.html

なお、参考までだが、能勢領事の後任は、幣原喜重郎である。

しぶさわ

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by kuga-katsunan | 2016-08-10 22:45 | 紀行 | Comments(0)

合肥  李鴻章故居

 北京の李鴻章の邸宅が特定出来ないでいる。
彼の故郷、合肥に行く機会があったので、その家を訪ねた。
 合肥は、安徽省の省都、北京からは、高速鉄道で4時間、北京を出て、天津、済南を通って、次の停車駅が合肥だった。
 以前、上海に駐在していた頃、仕事で二回ほど行ったことがあったが、そのころ、2000年前後には、省都といえども、本当の田舎街で、外国経営のホテルもノボテルが出来て画期的、と騒がれていたレベルであった。それから12年、今回、高速鉄道の駅からタクシーでホテルに向かって驚いた。
 今や、高層ビルが立ち並び、高架道路も完備された近代都市となっていた。
 李大人の故居は、旧市街の中心地、観光客向けの歩行者天国の一角にあった。
 故居に行ってくれと頼んだタクシーの運転手は、歴史が好きなのかと聞いてくる。
下関の講和条約の時に、李大人を狙撃した男は、日本では英雄になっているのか、と厳しい質問をしてくる。講和交渉の使者を狙撃するのは、日本の感覚では英雄とはいえない、と答えると、日本の攻撃は奇襲が多いからな、と切り返してくる。
 一理あるので、つまっていると、目的地についた。
「ここで、よく歴史を勉強してくれ」
 と送り出してくれた。
 歩行者天国を歩いてゆくと、雨の朝とは思えない位、名所の前は人だかり。やはり合肥といえばここなのだろうか。
 どんな場所かは、昨年6月に行かれた方が、写真入りの詳細な旅行記を書いていらっしゃる。

http://4travel.jp/travelogue/10902052

 中国語のわかる方はこちらもご覧下さい

http://www.anhuitravel.com.tw/Anhui_Scenery/Anhui_Attractions/Attractions.aspx?cid=54&id=2967&t=1


 改めて、彼の生涯を振り返ると、清末の苦しい時期に、渾身の力を振り絞った政治家だったことがよくわかる。
 羯南たちが、北京で会った時も、義和団の乱、北清事変の後始末で苦悶している時期で、会談の内容が残っているわけではないが、実質的に明治天皇の名代でもある近衛篤麿一行をむかえ、日清戦争、北清事変と負けが連続している老大国を背負いながら苦渋の面談ではなかったかと思えてくる。
 羯南たちに会ったのが8月、9月に北京議定書を締結し、10月30日には大喀血、11月7日に亡くなった。78歳という長命、民族に尽くした生涯といえる。
 彼の伝記を書かれた岡本隆司先生が、彼の絶唱を引用している。
    「秋風の宝剣
     孤臣涙す
     落日の旌旗
     大将の壇
     海外の塵氛
     なお未だやまず
     諸君作す莫かれ
     等閑に看るを」   (岡本隆司 「李鴻章」 岩波新書 2011年11月)

 上海時代に、李大人の愛姫、丁香の邸宅だったレストランに何回か行ったことがある。
当時はその広壮さに、李大人を羨んだものだが、改めてその生涯を見る時、此の位はかるいものだと想い直してしまった。

たかぎ 

  

   
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by kuga-katsunan | 2015-11-07 23:05 | 紀行 | Comments(0)

弘前 郷土文学館  陸羯南展

 中国の旧正月の休みを利用して拝見した。

 日頃資料として所蔵はされていますが、なかなか展示される機会のない羯南関係の資料が数多く展示されており壮観です。

 「明治維新後、のちに陸羯南を名乗る中田實は、身を立てるために、東奥義塾、宮城師範学校、司法省法学校に学びました。そこで得た経験が、新聞『日本』で生かされました。国民主義を唱える『日本』は、政府の政策に反対して、しばしば発行停止処分を受けましたが、これに屈することなく、 『日本』は発行を続けました。この日本新聞社には羯南の人物と仕事に共感し、全国から秀才が集まりました。正岡子規がその一人で、羯南は病床にある子規に惜しみなく援助を続けました。子規は夏目漱石に、羯南のことを「徳の上から言ふて此のような人は余り類がない」と伝えています。羯南と子規の間には文人同士の深い繋がりがありました。  羯南は、晩年に清韓視察や世界一周の旅をし、50歳で亡くなっています。今回の展示では『日本』での業績をはじめ、世界一周の足跡を、当時の書簡や写真で紹介しています」(同館ホームページより)

  http://www.hi-it.net/~bungaku/

 本展は、来年1月3日まで開催。春の桜、夏のねぷた、秋の紅葉、冬の雪と四季を通じて、羯南の展示が楽しめます。

 6月からの横浜の日本新聞博物館での展覧会、その後、弘前市立博物館へと移動する予定になっています。まさに来年に向けて羯南イヤーの幕開けとなりました。

 郷土文学館の展示は、3月31日まで増設コーナーも含め展示されています。

「 新聞『日本』のダイジェスト版『日本附録週報』の俳句欄では、正岡子規自ら選句をするというので人気がありました。日本新聞社に籍を置いた正岡子規は、『小日本』廃刊後も『日本』第一面の俳句欄を受け持ち、河東碧梧桐や佐藤紅緑らの俳句、短歌も掲載されました」
                         (同館ホームページより)

 全貌をご覧になりたい方はお急ぎください。

 これまで全体を見ることが難しかった羯南が欧米視察の旅先から家族に送った世界各地の絵葉書も掲載した図録も必読。

  たかぎ
 

  
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by kuga-katsunan | 2015-03-21 09:26 | 紀行 | Comments(0)

京城の幻影

羯南と篤麿の一行は、中国の旅の後に朝鮮半島に上陸している。

今回の私の旅では、北京からソウルに飛びその足跡をめぐったが、奇しくも中国文明の伝播の道と同じように歩いたともいえる。

民芸運動で有名な柳宗悦は、朝鮮美術の核心をいちはやく見出だし、その文化の象徴ともいえる光化門の日本人による破壊に反対した。

「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕(たんせき)に迫ろうとしている。
お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。
どうしたらいいのであるか。

光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。
お前は苦しくさぞ淋しいであろう。
私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢(あ)いに行こう。」
(失われんとする一朝鮮建築のために、1922年)

この20年前に羯南たちは、この門をくぐり、その110年後に私たちはその美と風格に圧倒された。
けだし宮殿は、中国文明の同根の観はぬぐえないが、一方この門は不思議なことに朝鮮独特の風合を持ったものであった。

この巨大な文明の灯台の光が我が国をどのように照らしたか、もう一度、京都御所等を歩き考えてみたいと思う。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2015-02-06 22:23 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る(最終)

「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.245.によれば、羯南ら一行は、8月21日は京城学堂に行き、漢城新報館落成式に出席している。

京城学堂は、漢城病院の向かい側にあった模様で(1903年5月30日京釜鉄道㈱作成の「韓国京城全図」で確認できる。)、今の明洞の繁華街にあったことになる。

 平和政策研究所の2014.6.13付レポート「日韓歴史認識の構造」によれば、

「京城学堂は1896年に日本組合教会(キリスト教)系の大日本海外教育会が朝鮮に創設したものである。この団体は朝鮮半島のみならず中国大陸にも近代教育振興のために学校を建設している。

その資金は、日本政府の補助金に加えて、当時の政財界(伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一など)からの寄付によって賄われた。

 特に、渋沢栄一は熱心な支援者であったようで、彼に提出されたと思われる京城学堂の報告書が『渋沢栄一伝記資料集』に残されている。

その資料によれば、入学者の中には、没落した両班家系の子弟が多く含まれていたと報告されている。つまり当時の朝鮮の支配層から疎外され不満を抱いていた人々の子弟である。

このような疎外感や不満が、彼らをして日本を背景に官界への進出を後押ししたであろうし、また日本も親日派の育成にそれを利用したものと思われまる。

 京城学堂の卒業生は200名ほどだったが、そのうち履歴書で確認される範囲だけでも40名が親日派官僚として朝鮮総督府に入っている。

そして、この学校は民間で設立されたが、日本にとっても重要な位置づけの学校であったことから、1906年には官立第二日語学校に格上げされた。

 このようなことから、日本の支配層もこの京城学堂を大きな関心を持って見ていたようである。まず、先ほども触れた渋沢栄一は次のように述べている。

「商業上より観察して、京城学堂の拡張をはかるの今日の急務なるを認むる者なり」(『太陽』5巻5号)。

渋沢は単に資金援助を行うだけでなく、直接、韓国に訪問した際、京城学堂に立ち寄り、学生に奨学金を手渡して未来を語りつつ励ましたという。

 また、大隈重信は「京城学堂出身者の者にして京城、或は仁川に於ける日本商估の店頭に、或は朝鮮人に接し、或は日本人を迎へて商業を営める者を見るは、現に利益の点よりも得る所頗る大なるのみならず、政治上の関係に於て、亦た極めて利益あるを疑はざるなり」(『渋沢栄一伝記資料集27』)と述べている。

 伊藤博文に至っては「日本人の事業にして真に奏効したのは京城学堂のみ」(岡田哲蔵『本多庸一伝』)と語り、その意義を高く評価している。・・・」

ということで、この学校に対するわが国の期待の大きさが伺えるとともに、統治にはやはり現地の優秀な人材が必要であったことが確認できた。

漢城新報本社の場所は特定できなかった。漢城新報は、1906年に大同新報と合併し、京城日報(1930年の地図「京城附近」によれば、京城日報本社は現ソウル新聞社辺りにあった模様。)となったが、1945年に廃刊。

廃刊時の社員がソウル新聞となって、事業を引き継いでいる。

翌22日16:40京城を後にし、18時過ぎに仁川到着、23日は仁川市内で教育衛生大会参加、歓迎会等で過ごし、24日の13時仁川を出帆し、木浦に向かっている。

しぶさわ

写真:京城学堂があった明洞地区の現況(小澤教授と)
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by kuga-katsunan | 2015-02-05 22:50 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る⑤

「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.244-245.によれば、羯南ら一行は、8月20日は京釜鉄道の起工式に出席している。

京釜鉄道起工式は、京仁鉄道線の永登浦(ソウル駅から南西約8km)で行われた。

ウイッキペディアによれば、京仁鉄道は、当初、アメリカ人モーリスが、朝鮮政府から敷設権を獲得し建設を開始したが、労働争議、支払い争議問題で頓挫した。そこで、建設半ば180万円で日本の澁澤栄一らの京仁鉄道合資会社に売却された。これを澁澤栄一らが完成にこぎつけ、朝鮮半島最初の鉄道となったという。

モーリスは京城=釜山の鉄道敷設権も獲得していたが、資金難のために敷設権を日本が譲り受け、京釜鉄道を設立し、1901年に着工した。羯南らはこの起工式に出席していたことになる。

その後、京釜鉄道は、建設中の1904年に日露戦争が勃発すると、軍事物資の決戦輸送のために突貫工事で建設され、一部河川などはフェリーで輸送する暫定的なものながら1905年に全線開通し、日本の対露戦勝に貢献した(なお、同社は1908年に韓国統監府に売却、清算されている)。

この鉄道は戦略的に大変重要な地位を占めていたこととなり、この起工式典出席は今回の一連の旅行の大きな目玉の一つだったのかもしれない。

しぶさわ

写真上:旧ソウル駅舎

写真中:KTX(韓国高速鉄道、仏TGVの技術導入、最高速度305km/h)とたかぎ主筆

写真下:2014年5月~運行開始したITX-セマウル(主要幹線で運行、最高速度150km/h)

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by kuga-katsunan | 2015-02-04 23:00 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る④

「近衛篤麿日記」(第4巻)p.243.によれば、羯南ら一行は、8月19日に漢城病院、慶運宮(皇帝、皇太子に拝謁)に行っている。

南山図書館のホームページの沿革を見ると、
「1922/10 京城府立図書館開館(中区明洞2街25所在、旧漢城病院の建物を図書館として改修)」
とあった。現在25番地は、明洞地区の繁華街(原宿の竹下通りのような感じ)の一角になっていた。

次に「慶運宮」は、李氏朝鮮第14代国王・宣祖(ソンジョ)が、1593年に荒廃した景福宮のかわりの臨時の王宮とし、第15代国王・光海君が「慶運宮」と命名した。しかし光海君が昌徳宮に移ると廃墟となった。

1895年に第26代国王・高宗の妃・閔妃の暗殺された後、高宗は慶運宮を改修し、居住した(1897~1907年は初代大韓帝国皇帝)。そして第2代皇帝純宗が「慶運宮」を「徳寿宮」と改名し、現在に至っている。

羯南らはこの初代皇帝・高宗と皇太子(第2代皇帝純宗)に拝謁していたことになる。高宗はあまり政治に関心がなかったようなので、羯南らも心もとなく感じたことであろう。

しぶさわ

写真:明洞地区25番地の漢城病院跡(小澤教授とともに)
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by kuga-katsunan | 2015-02-03 22:35 | 紀行 | Comments(0)

羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る③

 「近衛篤麿日記」(第4巻)p.243.によれば、羯南一行は、8月18日昌徳宮(仁政殿他)、景福宮(勤政殿他)、慶会楼等を巡っている。

たかぎ主筆と小生も、順に巡ってみた。

昌徳宮は、李氏朝鮮第3代王太宗(テジョン)が1405年に建てた離宮。1592~1598年の文禄慶長の役で焼失し、1615年に第15代王の光海君が宮廷として再建した。景福宮が再建される迄、歴代の王が政務を執ったという。1997年ユネスコ世界遺産に登録された。仁政殿は昌徳宮の正殿。

景福宮は、李氏朝鮮初代の李成桂(イソンケ)が1394年に建てた王宮。16~19世紀までの270年間は、文禄慶長の役や満州王朝(後金、清)の侵入により焼失し放置された。その後1995年に光化門と興礼門の間にあった旧朝鮮総督府庁舎(1910年築)の解体を含め復元・補修が進んでいる。

南側の光化門、興礼門と続く北側に韓国最大の木造建築物である勤正殿がある。勤政殿で王の即位式、大礼が行われた。その奥に王が政務を執った思政殿があり、更にその奥に②でも述べた香遠亭・閔妃の乾清宮がある。

慶会楼は北に向かって思政殿の左奥にあり、韓国最大の楼閣である。科挙の最終試験にも使われ、景福宮随一の美しさと言われている。

篤麿のこれらの宮に関する記述は淡々と描かれているが、この時期景福宮はまだ復興が不十分なものと推定され、このままではあっという間にロシアに占拠されてしまうと感じたに違いない。

また、景福宮、昌徳宮、宗廟(李氏朝鮮歴代19代の王と王妃の廟)などは、ソウル市街の北部にあり、日本の平城京・平安京の大内裏が都の北部にあったこと(北けつ型)と共通するところがあると感じた。

なお、光化門から南へ延びる大通りには、第4代世宗大王(セジョンデワン)の銅像、李舜臣将軍の像(文禄慶長の役の際に水軍を指揮)があり、この二人が、現代でも韓国の英雄であることが分かった。

しぶさわ

写真上は、昌徳宮の仁政殿

写真中は、景福宮の勤政殿

写真下は、慶会楼
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by kuga-katsunan | 2015-02-01 11:52 | 紀行 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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