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「孤高の新聞『日本』」公開講座

連続する猛暑日の最中、8月1日の公開講座は大盛況のうちに終了。
当日は満席の上、時間も大幅に延長するなど充実した内容の講座となった。
お忙しい中、駆けつけていただいた加藤祐三先生のブログに、講座の内容がわかりやくすく丁寧に記述されている。参加できなかった方は是非ご参照あれ。

http://katoyuzo.blog.fc2.com/

加藤先生は、都留文科大学元学長、横浜市立大学名誉教授・元学長、ご専門は近代アジア史、文明史。この研究会(高木主筆)の大きな成果である「東亜時論」復刻に際して、『戦前の中国時論誌研究』に所収される先生の論文を転載・収録させていただいた経緯がある。
ブログのタイトル「月一古典」は、先生が学長時代に学生に贈るエールとされた「三訓」のひとつ。

やまだ
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by kuga-katsunan | 2015-08-06 20:35 | Comments(0)

孤高の新聞「日本」企画展

開催一週間後の土曜午後、学生と思しき6~7名の男女混合チームなど、会場内は意外と若い年齢層が目立ちました。
展示も「自らの理念にのみ立脚した言論報道機関たる『独立新聞』をつくる」という羯南たちの若いエネルギーを感じる構成でした。
なにより当時の新聞をベンチャー産業という視点で捉えたことで、「日本」の数々の試みや、そこに集まってきた若者たちの姿が、前の時代への反骨精神と未知への挑戦という、今も変わらぬ青春劇として、妙に納得できた次第です。
司馬遼太郎から青木彰への手紙も、実物が初めて公開されています。写真は図録の一部です。本物は是非現地でご覧ください。
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やまだ
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by kuga-katsunan | 2015-06-30 00:30 | Comments(0)

閔妃暗殺を読んで④

 角田房子著、「閔妃暗殺-朝鮮王朝末期の国母」によって、閔妃のプロフィールをみてみたい。

 閔妃は、1851年閔致禄の娘として生まれ、8歳で両親を失っている。

 第26代高宗の王妃選定について、大院君に次ぎ発言権を持っていたのは、大院君夫人であった。大院君夫人の生家は第3代太宗夫人に起源を有する閔氏であり、その一族である閔妃を推薦した。

 大院君は、嘗て金氏の勢道政治によって国運が傾いたことから、名門の出身だが親も兄弟もなく、勢道政治の危険性が低いと考えられる閔妃を気に入った。

 1866年、閔妃は15歳で大妃となった(高宗は14歳)。

 1873年高宗21歳(閔妃22歳)の時点で大院君は失脚、高宗の親政が始まった。同時に閔氏一族による勢道政治の幕開けとなった。これ以降、大院君と閔氏一族は20年以上にわたり権力闘争を繰りひろげ、これに改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争も加わった。

 閔妃は小柄で華奢な体つきの美女で、物腰は優雅、頭脳明晰、学識抜群といわれた。しかし彼女は自分の意見に従わないものを許せない、愛憎とも激しい女性であり、反対派は徹底した弾圧を受けた。

 一方、高宗は、我儘で気弱で閔妃に寄りかかっていった。閔妃は相手が高宗だからこそ、思うがままに生きて、歴史に名を残す王妃となった。

 1876年の日朝修好条規(江華条約)を始め、欧米と修好通商条規を締結、高宗と閔妃は門戸開放政策を推進していった。

 1882年の壬午軍乱(興宣大院君らの煽動による兵士の反乱で、閔妃一族や日本公使館の襲撃等を行った事件)で、命を救われた閔妃一派は清国へ傾斜していった。

 1894~95年の日清戦争後の三国干渉による日本の威信低下により、閔妃は今度は親露政策に傾き、95年10月8日暗殺された(韓国では「乙未事変」という)。殺害された時、閔妃は43歳であったが、25~6歳にしかみえなかったという。

 1897年1月に閔妃の諡号を「明成」に、同10月に国号が大韓帝国に、閔妃は皇后となった。そして同11月に明成皇后の国葬が挙行された。

 当時の日本としては、殺害もやむなしかもしれないが、韓国国民が怒る気持ちも分かるような気がする。

しぶさわ
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by kuga-katsunan | 2015-03-21 10:42 | Comments(0)

煙台秋景

羯南と篤麿の中国訪問の最後の地は、山東半島の港街煙台だった。
明治34年8月10日、ロシア側の勧めで、大連から煙台まで二等巡洋艦  サビアカ号で送ってもらっている。
この巡洋艦は3年後の日露戦争の海戦にも参加することになるが、この時はその後の運命を日露両側の人々とも知らない、のどかな交歓の船旅であった。

煙台は当時、東に位置する島の芝罘が港となっており、翌11日その港に上陸した。
煙台という名前も、明の時代に倭寇襲来の報せを狼煙をあげてつげる台があったことから由来している。
侵略者としての日本の名残が地名に残っているという皮肉を感じる。
篤麿は、同地の日本領事館に一泊。
別便できた羯南、松崎、坂東らは、12日に到着している。
製糸工場を見学したり、地元の日本人会の招待を受け日本食の饗応だったという。
13日は、煙台を見学、14日、立神丸で朝鮮に向け出帆、三泊四日の滞在だった。

ここは、遼東半島を臨む対岸であり、日露戦争に向けての海戦が想定された地域の一つだったのであろう。

今回は、空気の悪い北京から飛行機に乗って50分で着いてしまう。
海岸の街の、綺麗な空気を満喫した。
最近の北京で流行っている、中国語に、洗肺という言葉がある。
読んで字の如く、転地して空気の良いところに行くことだ、という。
中国ワインの故郷でもある、煙台は、そうした北京からの旅行客でにぎわっていた。
久しぶりの波の音に、肺とともに心も洗われる新鮮さだった。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-11-16 16:27 | Comments(0)

子規博物館・記念講演報告

既報の通り、8月3日(日)子規記念博物館において、高木主筆の講演が行われた。
講演タイトルは「羯南の『日本』、子規の『小日本』」。
博物館の第60回記念特別企画展「子規と『小日本』~新聞界の旋風~」の記念講演として企画されたもの。
講演では、陸羯南研究会発足の経緯から、これまでの研究成果が披露された。
子規文学にとって「小日本」編集主任の経験や、ひいては羯南との関係がいかに大きかったかを再認識する機会となった。
当日は遠路弘前より、陸羯南会舘田会長、東奥日報の松田氏もご臨席。台風11号と12号の狭間で雨模様の中、危ぶまれた来場者も、中学生らしき学生からお年寄りまで、ほぼ満席となる大盛況となった。
当日の講演内容は、子規記念博物館発行(季刊)の「博物館だより」に掲載される予定。やまだ
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by kuga-katsunan | 2014-09-07 12:44 | Comments(0)

丸山眞男手帖  休刊特別号 発行

 丸山眞男手帖は、丸山眞男のお弟子さんたちが中心に集まっていらっしゃる丸山眞男手帖の会の会誌である。 会の趣旨・経緯は、代表の川口さんがHPに掲載されていらっしゃいますので、転載させて頂く。

       -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「当会は1996年に設立され、97年4月の創刊以来、雑誌『丸山眞男手帖』を発行してきました。
そもそもの発端は、96年8月にさかのぼります。
8月15日に丸山先生が亡くなられた後、丸山先生が私共に話をして下さったさまざまな事柄をこのまま埋もれさせるのは余りに惜しい、幸いテープに録音したものがあるので、それらを起こし発表することができたら、と考えました。
みすず書房元編集長小尾俊人、法政大学教授飯田泰三両氏等のご助言をいただききながら、故安東仁兵衛(元現代の理論社代表)、間宮陽介(京都大学教授)、島田紀子(アーティスト)、吉川正洋(医師)、牛田尚子(88年の会:オブザーバー)の5氏と相語らいまして、「丸山眞男手帖の会」を設立し、『丸山眞男手帖』創刊号~33号を刊行してまいりました。『丸山眞男手帖』の刊行を通じて、丸山先生の著作を読み、その思想と業績を理解し、継承してゆこうという、全国各地のさまざまな場(研究会やサークルなど)のひとつとなることができたらと考えています。
また、丸山先生の没後4周年にあたる2000年8月15日から「復初」の集いを開催、講演会やパネルディスカッションを行っています。
今後も『丸山眞男集』『丸山眞男座談』未収録の論文、座談の発掘・掲載、さまざまな角度からの丸山眞男論の掲載や参考文献の定期報告を行っていきたいと考えています。

丸山眞男手帖の会代表 川口重雄」
         -・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・

 今般、同会休会にあたり、休会特別号が、8月15日に出版された。
http://members3.jcom.home.ne.jp/mm-techo.no_kai/techo/index.html

 ご縁があって、 「陸羯南と丸山幹治・眞男父子」 という拙文を出稿させて頂いた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-08-30 16:52 | Comments(0)

北京・孔子廟での東亜同文会北京支部歓迎会

近衛篤麿の日記によれば

「明治34年7月26日
午後四時半、同文会員の招待により孔廟に赴く。
会するもの三十人計、余興として満州旅人の武芸あり。
終わりて一同撮影し、夫より宴に移り、中西正樹一同に
代りて歓迎の辞を述べ、余これに答へ、餘は雑談にて帰寓。」

東亜同文会は、明治31年に近衛、陸を中心に発足し
中西は初期のメンバーであり、北京支部の主任であった。

中西については

「1858*-1923 明治-大正時代の大陸浪人。
安政4年12月12日生まれ。美濃(みの)(岐阜県)岩村藩士の子。
明治の初めに上京し小学校教師となる。
明治17年外務省留学生となり天津領事館,北京公使館で修学。
のち中国各地を探検・調査し,日清(にっしん)・日露戦争に際し軍に
側面協力した。
大正12年1月10日死去。67歳。
駿河(するが)(静岡県)出身。本姓は柳沢。」
(講談社、日本人名大辞典 2009年)

との記述あるが、興味深い人物である。

明治31年に康有為、梁啓超らが、宮崎滔天、平山周、山田良政らの
助けにより個別に日本に亡命した際に、日本で出迎えた人物としても
名前がみえる。

また明治33年の国民同盟会の発足に関しても、東亜同文会側の主要
メンバーであり、近衛、陸に影のように寄り添っている。

この東亜同文会北京支部の三十人の名前が、注に載っているが、もう一人
アッと思ったのが、川島浪速である。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-27 21:32 | Comments(0)

松山 子規記念博物館   第60回特別企画展

   子規と「小日本」   -新聞界の旋風- 

8月2日から31日まで、愛媛県松山市の子規記念博物館で
<第60回特別企画展 子規と「小日本」-新聞界の旋風->
の特別展が開催される。
日清戦争の直前に、新聞日本の関係紙として、子規が編集長となって
発行された<小日本>の初めての展覧会だ。

以下、松山市のホームページから

「趣旨
子規記念博物館では、毎年新たなテーマで特別企画展を開催しています。 
 今回の特別企画展で取り上げる新聞「小日本」は、今から120年前の
明治27年2月11日に発行された家庭向けの文芸新聞です。
子規が勤める日本新聞社の新聞「日本」の発行停止処分に備え、
新たな読者を開拓するために発行されました。
その編集主任に抜擢された子規は、紙面の編集や企画、連載小説の執筆
交渉などに力を注ぎました。
 今回の特別企画展では、今年、新聞「小日本」が創刊され、120年が
経過したことを記念し、子規の仕事や同紙を彩った文士たちを紹介する
とともに、「小日本」が後の子規の人生に与えた影響を探ります。」

 日頃、なかなか一堂に会することのない珍しい資料も出品されるとの事。

恥ずかしながら、8月3日に記念講演として、
「羯南の「日本」、子規の「小日本」の演題でお話しをさせていただく予定。

詳しくは、松山市のHPをご覧ください

https://www.city.matsuyama.ehime.jp/hodo/201407/60kikakutennannai.html

以上

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-25 23:43 | Comments(0)

梁啓超故居 その2

梁啓超故居は、果たして今はどうなっているのかと、休日にふと思い立ち、探しに出かけた。
家を出るとうまい具合にタクシーが通りかかった。
運転手さんに地図を見せると、「梁啓超の家?」 という反応である。
「とりあえず近くまで連れて行ってやるから、後は、その辺りの人に聞いてみろ!」と言う。

東直門南小街という中位の大きさの道に着いた。
反対側に東直門医院があり、向かいが海運というバス停である。
バス停の少し北側に左に曲がる小さな道がある。そこを入って行った。
古い路地なので、お年寄りが多い。
土曜日の朝、みなさんのんびりと通りに小さな椅子を出し、新聞を読んでいる。
まさに今の中国の人々の生活空間が広がっていた。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-07-13 20:45 | Comments(1)

〈北京〉

5月下旬に北京に赴任してから、1ケ月がたった。早くも盛夏が続いているが、その分、空気はまずまず。

羯南は、明治34年7月から8月にかけて 近衛篤麿と一緒に中国、朝鮮を歴訪している。

113年前の、彼らの旅の足どりを辿る試みは、2011年から続けてきた。

今度は腰を落ち着けて、これまで行けなかった足どりの細部を解き明かしてみたい。 

 たかぎ
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by kuga-katsunan | 2014-06-25 23:42 | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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