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ロシアの羯南

 端午節の休みを利用して35年ぶりにペテルブルグとモスクワを回った。
前回は1982年の1月、まだソ連時代で、ブレジネフ末期、その後まさか
このような社会の変転をたどるとは夢にも思えない雰囲気であった。
 フランクフルトまで、Panam(この飛行機会社もなくなってしまったが)
の西まわりで世界一周のチケット12万という超格安で、一周の途中でヨー
ロッパをうろついた。フランクフルトから東へ、ウイーン、ブダペスト
そして黒海が見たいという単純な理由でルーマニアの東はずれの街、
コンスタンツアまで辿りついた。
 今考えると大胆だが、コンスタンツアに向かう列車で知り合った男性の
家に泊めてもらった。ルーマニアも社会主義という名前の独裁国家
チャウシェスク大統領の専横が極度に高まっていた時代。外人を勝手に
宿泊させる、というだけでスパイ行為を疑われるような社会で、その男性も
非常に大胆だったと思う。秘密警察の突然のチェックが入るからその時には
かくれてくれ(何語でお互い理解しあったか、こちらも不明)という話もあり
ドキドキの一泊だった。5歳位のジョルジュという男の子が、時ならぬ見る
からに違う来訪者に無邪気にはしゃいで可愛かったのを今も覚えている。
 1月の黒海のくらく荒れた海面を見て、首都のブカレストに戻った。

                           たかぎ

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# by kuga-katsunan | 2017-06-05 08:34 | 紀行 | Comments(0)

ワルシャワの羯南

 36年ぶりにワルシャワを訪れた。
81年の2月だったが、自主労組<連帯>の運動が盛んになってきた時期で、社会主義政権の末期
経済的には非常に厳しい状態に追い込まれていた。

 羯南は1903年の8月にワルシャワに来ている。

たかぎ 

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# by kuga-katsunan | 2017-02-06 04:00 | 紀行 | Comments(0)

Think Asia

 霞山会の機関雑誌のThink Asia の冬号に、近衛篤麿をめぐる人々の中の一作として
陸羯南をかかさせて頂きました

 ネットで見ることができますので、是非ご覧下さい


  http://www.kazankai.org/think_a/1701winter/#target/page_no=3


    たかぎ 


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# by kuga-katsunan | 2017-01-17 09:07 | ニュース | Comments(0)

シンポジウム 近衛篤麿とその時代

 12月10日、京都、立命館大学で開催されました。

「近衞篤麿とその時代―近衞篤麿と明治アジア主義―
「Think Asia-アジア理解講座」京都シンポジウム

明治28年、日本の勝利のうちに日清戦争が終結すると、欧米列強間の中国分割競争(「支那分割」)は激化し、日本も、中国、東アジアの分割に参加することになる。そしてそれと平行するように、日本国民は中国や中国人に対して蔑視感情を持つようになっていった。
このような日清戦争後の「支那分割」論の隆盛と対中世論の驕慢化を憂えたのが、五摂家筆頭近衞家の当主、近衞篤麿である。明治31(1898)年1月、近衞は論文「同人種同盟、附支那問題研究の必要」を雑誌『太陽』に発表、驕慢化した対中世論に警鐘を鳴らした。近衛は、欧米の人種主義に対抗するために、「同人種同盟」を説き、31年11月には、「支那問題の真相」を研究すべく、興亜団体、東亜同文会を組織した。近衞の周辺や東亜同文会には、主義主張は異にしながらも、日本にとって中国が重要な存在であり、「支那問題の真相」を研究することが焦眉の課題であると考える多くの人材が集まった。さらに、近衞は、張之洞、康有為等多くの中国人人士とも交わった。
昭和53(1978)年の平和条約締結以降、日中関係が最悪の状態にあると言われている今日、「支那問題の真相」を研究することの重要性を唱えた近衞篤麿という存在は、日中関係はいかにあるべきかとということを我々に問いかけているのではないだろうか。

▼日時:12月10日(土) 12:30開場 13:30開始
▼会場:立命館大学衣笠キャンパス敬学館
<特別講演>
名和 修(公益財団法人陽明文庫)
<報告者>
クリストファー・スピルマン(上智大学)「明治アジア主義の可能性」
嵯峨 隆(静岡県立大学)「近衞篤麿と近代中国の政治変動―人的交流を中心に―」
高木宏治(陸羯南研研究会)「近衞篤麿と明治言論人」
栗田尚弥(國學院大学)「同人種同盟論を巡って」
<コメンテーター>
山崎有恒(立命館大学)
<司会>
髙村總史(國學院大學)

▼主催:霞山会、立命館大学 アジア・日本研究所
▼後援:公益財団法人陽明文庫、京都新聞

 篤麿公をめぐる言論人の中で、羯南の部分に集中して報告させて頂きました。

 詳しくは、霞山会発行の「Think Asia」の次号の記事をご覧頂ければと思います。

 どのテーマにとっても、中国の存在が大きく、現代から、この時代状況を照射するという試みも
今後必要かなと思います

  たかぎ
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# by kuga-katsunan | 2016-12-13 13:31 | ニュース | Comments(0)

ミシュレと司馬さん

 12月10日、立命館大学で開催される「近衞篤麿とその時代」というシンポジウムで近衞篤麿と羯南について話をさせて頂く予定です
 あれやこれやと準備をしている中で、学生時代に読んだミシュレを読み直してみたくなり、娘に北京まで持ってきてもらいました。
 パラパラとめくっているうちに月報が出てきて、この巻の編集担当の桑原武夫先生と司馬さんの対談が掲載されていました。ああ、こんなところにも、と司馬さんの足跡の広さに改めて感心。

 「フランス革命史」を読まさせていただき、驚いたのは、文章のうまいことですね

          (世界の名著 第37巻 ミシュレ 中央公論 1968年1月) 
 
 と冒頭で褒めています。もちろん、日本語訳を褒めているわけですが、桑原先生門下の多田道太郎、樋口勤一、京都大学人文研究所の両助教授が翻訳していたわけで、薫陶が行き届いていたことが分かります。

 興味深いのは、ミシュレの講義を聞いた詩人ハイネが
「ミシュレ先生は、学生のあいだで象徴先生と言われている」
 と伝えているエピソードです。

 「ミシュレは歴史のあいだから、ぴゅっぴゅっと象徴を選ぶのですね」

と桑原先生は語り、マラーを暗殺したことで歴史に名前を残している少女シャルロット・コルデの例をあげています

 「この子がほとんど白ずくめの着物を着ていたということ。その白のトーンにこの可憐なきむすめの純真な、清潔な愛国心の感じが出ているのです。純真とか可憐ということはひとことも書いてないですよ。」

 この話に司馬さんは

 「すぐれた象徴をつかまえることができるひとというのは、これはやはり天才ですね」

とうけています。

 司馬さんの作品を読んでいて、まさにこうした象徴をつかまえて、いろんな人物が生きかえってきているような場面があちこちにある。ミシュレを読みながら、こんな歴史の森の中にわけいっていた先人の歩き方を学んだりしていたのかな、と思ったりもします。

 たかぎ 
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# by kuga-katsunan | 2016-11-07 02:17 | トピックス | Comments(0)

企画展 「『坂の上の雲』にみる陸羯南」

 私も行ってきました。

 羯南と子規をめぐる人物関係図や展示品に関係する時系列のコメントの下に、

・高木主筆が講演等で解説することが多い、「司馬遼太郎が青木彰氏へ宛てた陸羯研究を呼び掛けた書簡」
・「新聞『日本』創刊号」
・「司馬遼太郎が『街道ゆく北のまほろば』の取材時にみた羯南自筆の五言絶句の漢詩(名山詩)とその時の様子を伝える写真」

等が展示されていて非常に興味深かった。

また、ホールでの映像「司馬遼太郎が遺した言葉 正岡子規について」も興味深く鑑賞した。
映像の中で、司馬遼太郎がコメントしていた子規の「墓誌銘」も今回展示品の中にあり、より一層興味を引いた。

私の個人的感想としては、高木主筆の〝磁場〟を改めて感じる展示となっている。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2016-11-06 22:27 | その他 | Comments(0)

企画展「『坂の上の雲』にみる陸羯南」が開催

 本日、11月1日午前10時に、司馬遼太郎記念館を開館と同時に訪問した。
 今日から始まる企画展「『坂の上の雲』にみる陸羯南」をさっそく見学。たくさんの羯南や正岡子規の資料の中に、青木先生の「陸羯南研究ノート」を目の当たりにするにつけ、青木先生の羯南への“思い”に感じ入った。
 しかし、それ以上に、司馬遼太郎記念館に当企画展を提案し、実現した高木主筆の執念に感動する。
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# by kuga-katsunan | 2016-11-01 22:44 | その他 | Comments(0)

いよいよ11月1日から 司馬遼太郎記念館で羯南展

 いよいよ11月1日火曜日から、司馬遼太郎記念館で陸羯南の展示が始まります

以下、同館のHPから

http://shibazaidan.or.jp/topics/kuga_exhi.html


「次回企画展「『坂の上の雲』にみる陸羯南」11月1日から開催

 司馬遼太郎は明治のジャーナリスト、陸羯南(くがかつなん)のことを「明治後期の代表的な知識人として、もっと研究されていい人物」と評価していました。羯南は、正岡子規が「これ以上に徳のある人物はいない」と表現した終生のよき理解者でした。その描写は『坂の上の雲』『街道をゆく』などの作品にたびたび登場します。

 司馬遼太郎の新聞記者時代から親交のあった故青木彰氏(筑波大学教授)に羯南研究を呼びかけた手紙や、「街道をゆく」取材時の写真、羯南の遺品などを通して、司馬遼太郎が描いた陸羯南への思いとその人物像を浮かび上がらせます。


司馬遼太郎が「北のまほろば」の取材時にみた、陸羯南自筆の漢詩を特別に展示します。


【会 期】 2016年11月1日(火)~2017年2月26日(日)

【会 場】 記念館展示コーナー」

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# by kuga-katsunan | 2016-10-30 03:09 | ニュース | Comments(0)

司馬遼太郎記念館で陸羯南の展示

 大阪の司馬遼太郎記念館で、11月から陸羯南関連の展示会が開催される予定。

 詳細は、同館のHPにアップされる予定です

  http://www.shibazaidan.or.jp/exhibition/
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# by kuga-katsunan | 2016-10-13 11:35 | ニュース | Comments(0)

羯南の釜山(プサン)での足跡を辿る

 「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.254-256.によれば、羯南ら一行は、明治34年8月24日、仁川港を木曽川丸にて出帆。25日木浦(モッポ)。26日に午前6時半に釜山に着き、馬山(釜山の左隣、現在の昌原市)へ移動し当地泊。27日11時釜山着。龍頭山に上り、領事館入りし休息している(領事は、仁川より同行の能勢辰五郎)。当日17時には長崎に向け出帆している。

我々高木主筆以下一行4名は、現在の日本総領事館の所在地を確認した(写真参照)。

羯南が訪れた当時、領事館は龍頭山の麓にあった模様である(我々はそのすぐそばの釜山観光ホテルに宿泊)。 http://nekonote.jp/korea/park/pusanfu/index.html

なお、参考までだが、能勢領事の後任は、幣原喜重郎である。

しぶさわ

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# by kuga-katsunan | 2016-08-10 22:45 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(94) 私立大学評判記(その83)

 伊藤欽亮は慶應義塾を明治12年(1879年)に卒業後、明治29年(1896年)まで、ほとんどを時事新報社に在籍した。『慶応義塾出身名流列伝』によれば、彼の手腕を「其筆にする処の慎重なる言論は、大いに社会の信用を博したりき」と評価している。

 また、前出の都倉武之氏(慶応義塾大学准教授)によれば、伊藤の性格は「真面目一徹、職務に熱心」であり、自分の信念に忠実なぶん、頑固であった。しかし一方、人柄は穏やかで人情味があったという。

 伊藤が時事新報社のトップになれたのは、福沢諭吉の信頼が厚かったからである。彼は明治23,24年(1890、91年)ごろから、編集長を担い実質的な社長(社長は中上川彦次郎)として全盛時代をむかえ、明治26年(1893年)からは編集長に加えて、得意な会計責任者を兼務した。

 福沢は毎朝、時事新報紙面の隅々まで目を通し、編集上の誤りや気に食わない記事を見つけると、すぐに伊藤に小言を言ったという。福澤は記事を書いた者が誰かは関係なく、猛然と伊藤を叱るのであるが、伊藤はそれに口答えせずに聞き、また連日、三田へ通って福沢の相談に応じていたとのことである。

 伊藤が社長として実際にしていたことは、社説を書くことではなく、紙面の構成を決めることだったようである。社説への関与としては、ルビを振ることであり、時には、短い記事や論説を書くことがあり、穏やかな筆致ながら、時々「肺腑を突く」ような鋭い指摘を加えることがあった。

 それ以上に、何よりも取材力の貢献が大であったという。もともと長州出身であり、伊藤博文、山県有朋、桂太郎と日ごろからパイプを持っていて、取材に無理がきいた。重要な取材には自ら出向いて行って、次官でも入れないような会議にも入って行けた。

 日清戦争時に外務次官だった林薫が、ある時重要会議に遅れて参加したら、すでに伊藤が列席しているのを目にしたと語っているとのこと。
 しかし、一方で、藩閥反対の立場にはゆるぎなかったという。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2016-05-21 09:37 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(93) 私立大学評判記(その82)

 前回(2015年12月)から4か月も経ってしまい失礼しました。その前回「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」の最終回で、伊藤欽亮に触れた。われわれにとって彼は、陸羯南から新聞「日本」を譲り受け社長となったにもかかわらず、三宅雪嶺以下、ほとんどの社員を追い出し、その後、新聞「日本」を葬った張本人としか映らない。

 しかし一方で、彼は当記事に登場するように、世間では高く評価される人物であった。彼はいったいどのような人間であったのだろう。少し詳しく調べてみたい。

 明治42年(1909年)に、実業之世界社から発行された『慶応義塾出身名流列伝』(以下『名流列伝』と記載)という本があり、そこでは当時、慶應義塾を出て、実業界はじめ各界で活躍する480名が登場している。ここに伊藤は日本新聞社長として、顔写真入りで2ページにわたって紹介されているのである。この『名流列伝』と、慶応義塾大学准教授の都倉武之氏がWeb版に書かれた「伊藤欽亮の時代」(『時事新報史』)を参考に、以下、伊藤の人物をまとめてみよう。

 まず伊藤の経歴について『名流列伝』では、次のように述べられている。

 「安政4年8月山口県阿武郡萩町に生る。郷里の小学校を卒業するや法律研究の目的を以って東上せり。是れ明治8年にして爾後其研鑚に身を委ね、其後慶応義塾に入る。」

 生年は陸羯南と同じである。上記では、小学校卒業後、明治8年(1875年)に法律研究の目的で上京と簡単にしか記述されていない。しかし、都倉氏によると、まずは海軍士官を夢見て上京し、近藤真琴の攻玉社に学んだとある。近藤は日本の航海術の基礎を築いた人物であり、彼を慕って彼が創設した中等学校である攻玉社へ入学したようである。

 しかし、理由は不明であるが、海軍の夢をあきらめ、明治10年(1877年)6月に慶応義塾へ転じたのである。ちなみに、明治10年6月といえば、西南戦争のまっただ中である。伊藤は当時19歳であった。
 
 慶応義塾では同級生に犬養毅がいた。また、伊藤は在学中、数学の成績が抜群で、毎回満点をとっていたという。もともと論理思考、科学的思考に強かったことがわかる。経営者としては適性があったようだ。

 また、犬養らと「猶興社」という団体を結成し、条約改正問題を盛んに議論し、演説会を行ったとのことである。政治問題に関心が高く、主導的にも行動していたようである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2016-04-30 10:04 | その他 | Comments(0)

羯南没後110年に向けて

 来年2017年は、羯南の没後110年の年にあたる

 2007年の没後100年には、地元弘前市で、記念の展覧会も開かれ、その業績が偲ばれた。
更に10年が経過して、日本のアジア地域、また世界の中で、おかれている状況は、ますます複雑化し、改めて、もし羯南が今も生きていたら、何を訴え、何を為したであろうかと、問い直される機運が高まっているようにも思える。

 先月、弘前で開かれた陸羯南会の総会に出席させて頂いたが、今、まさに青森から中国の天津への直行便就航の議論がなされているという。
かって、鉄道が青森まで延びるときに、その効用を羯南が説いたことがあったが、地元から中国へ直接行けるようになるかもしれない事態を見た時、彼が何を訴えるか
 
 奇しくも、1901年に羯南が、近衛篤麿の誘いで中国を訪問をした際に、最初にその一歩をしるしたのは天津であった。今や、日本のほとんどの地方空港に中国各地からフライトが実現するようになった事実は、単なる<爆買い>招聘のみならず、中国からの目線では、そこに別の企図があるものと、考えたほうが良いのではとも思えてくる。

 その背景にあるものは何なのか
そして、また多くの観光船が、日本の港に、中国の観光客を運んできている。今は、観光客であるが、それを運びながら、今後、何をしようとしているのか

 没後110年に向けて、彼が育てた人材の振り返りとともに、彼が見た国際環境と現在の国際環境を比較しつつ、彼の視点の現代における意義を改めて検討することは、深い意義を有しているものと思量される。

たかぎ

 
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# by kuga-katsunan | 2016-03-12 05:25 | トピックス | Comments(0)

「海難1890」と山田寅次郎

 2015年12月から全国の映画館で「海難1890」が上映されている。この映画は日本・トルコ合作で、日本側の主演は内野聖陽、忽那汐里である。必ず複数回にわたって涙が出ると思われるので、最近泣いていないあ~とお思いの方には是非お勧めしたい。

映画の内容は、やまださんが2009年8月18日に書いた「100年忘れぬ恩義」、2010年2月9日「トルコ軍艦調査」に詳しいのでここでは割愛する。

ウイキペディアによれば、山田寅次郎(山田宗有とも、1866-1957)は、茶人で実業家。1892年にオスマン帝国軍艦・エルトゥールル号遭難事件の義援金を届けにトルコに渡って以来、日本とトルコとの交流に深くかかわった人物として知られている。

友人だった幸田露伴が、山田寅次郎のことを短編「書生商人」としてまとめている。

1890年にエルトゥールル号の遭難事件が日本中で大きな衝撃を呼ぶと、山田寅次郎は親交のあった日本新聞社の陸羯南に働きかけ、募金運動を起こした。日本中で演説会をして回り2年間で5,000円(現在の金額で1億円)の寄付を集めたという。

山田寅次郎は当時のほぼ唯一の長期滞在者として、イスタンブールを訪問する日本人に様々な便宜を供用した。山田寅次郎に接遇を受けた主な日本人には、徳富蘇峰、深井英五、田健治郎、松永武吉、朝比奈知泉、望月小太郎、池辺吉太郎、徳川頼倫、鎌田栄吉、寺内正毅、橋本圭三郎、中村直吉、伊東忠太などがいるという。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-12-29 16:27 | トピックス | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(92) 私立大学評判記(その81)

 「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も今回で最後となる。
 古島一雄は最終に向けて、このように語る。

 「再び下りて犬養、伊藤、高島、村井時代を見よ。福澤氏は万来舎を塾中に設けて生徒と共に其長広舌を揮うて藩閥政府を攻撃し、犬養等は猶興社を塾中に建てて政治を談論し、尾崎等は幼年寮に在て新聞を発行す。内には演説会堂を設けて公然政治を論議し、外には交詢社を建てて大政党の基礎を作る。」

 犬養とは解説するまでもなく、犬養毅のことであり、ジャーナリストから政治家となり、総理大臣にまで上り詰めるも、五・一五事件で凶弾に倒れた。伊藤は伊藤欽亮のことであり、陸羯南研究にとっては因縁ともいえる人物である。彼は時事新報編集長を経て、日本銀行へ行き、その後、周知のように羯南を継いで、新聞「日本」の社長となった。しかし三宅雪嶺等の有力者が離反し、倒産に至らしめることになる。

 高島は高島小金治のこと。大倉喜八郎のもとで、実業家として活躍した。村井は村井保固のことであり、福澤諭吉の推薦で森村組へ入社した。後に森村市左衛門らと日本陶器(現在ノリタケカンパニーリミテド)の創設にかかわるなど、実業家として活躍、社会事業にも尽くした。

 その当時、慶応義塾では政治活動が最高潮に達していたのである。また、ここから万来舎、猶興社、演説会堂、交詢社の由来がわかる。
そして最後に、古島は次のようにまとめている。

 「慶應義塾は此に至りて全く薩長藩閥に対する政治学校の面目を備え、福澤も亦た一面在野の後藤伯と結び、一面私かに大隈、伊藤、井上に謀り以って其大野心を試みんと欲せしなり。此時に方て彼の教育主義豈に独り常識のみならんや。況んや町人主義をや。況んや又た拝金の思想をや。彼は富に覇気満々たる政治上の大山師たりしなり。」

 後藤は後藤象二郎のことであり、大隈、伊藤、井上はそれぞれ大隈重信、伊藤博文、井上馨であり、説明の必要はないであろう。

 慶応義塾はこの時期、実質的に政治学校であり、福澤も政治への思い入れが強かった。古島はこの事実を見れば、慶応義塾が世間の言っているような常識主義、町人主義、拝金主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-12-26 10:15 | その他 | Comments(0)

弘前市立博物館「陸羯南とその時代」展 開幕

 羯南の故郷、弘前市立博物館で、

「陸羯南とその時代」展が開幕した。

 以下、同博物館のHPから

「「名山(めいざん)名士(めいし)を出(い)だす」の名山詩で知られる郷土の先人 陸羯南 の展覧会を、おとなだけでなく、小中学生にぜひ見てほしい、と思います。

 この展覧会は、東奥日報夕刊に昨年の元日号から1年3カ月にわたって掲載された「道理と真情の人 陸羯南」に基づくもので、平成27年の6月から8月にかけて、横浜市の日本新聞博物館で開催された「孤高の新聞『日本』―羯南、子規らの格闘」に展示された資料の一部を借用し、弘前の資料を加えて展示するものです。

 陸羯南は明治22年に新聞「日本」を創刊し、特定の勢力の宣伝機関紙ではない「独立新聞」の理念を掲げ、頻繁な発行停止処分にも屈することなく、ときの政府を厳しく批判し、日本の針路を示し続けた、明治を代表する言論人であります。

 当館独自の展示となる「明治の弘前」を紹介する部分は、たとえば、明治26年の弘前の街の様子がイラスト入りで描かれた絵図があります。商店などの紹介が多いのですが、120枚の図で店や各施設を拡大して展示します。

なお、展覧会全体の内容としましては、小学校高学年以上が対象となるかと思います。弘前市中学校文化連盟のご協力のもと、中学校の壁新聞の展示もありますよ。自分たちで作った壁新聞やほかの学校の壁新聞をチェックしに来てね!」

会期 12月19日(土曜日)~平成28年2月28日(日曜日)

◇休館日 各月の第3月曜日……12月21日(月曜日)、平成28年1月18日(月曜日)、2月15日(月曜日)
◇観覧料 一般 280(210)円、高校・大学生 140(100)円、小・中学生 80(40)円
◇開館時間 午前9時30分~午後4時30分

http://www.city.hirosaki.aomori.jp/hakubutsukan/

 外地にいて、すぐに見に行けないのが残念ですが、読者の皆さん、年末年始のお忙しいところでしょうが、是非ご覧頂ければ、と思います。

 記念講演会は、以下となります。

・日時  平成28年2月13日(土)13時30分~15時30分
・会場  弘前市立博物館ホール
・聴講料 無料 ※ただし観覧料が必要です。
・講師  舘田勝弘氏(陸羯南会会長)、
・    松田修一氏(「道理と真情の新聞人陸羯南」著者、東奥日報社編集委員室室長)

 
 
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# by kuga-katsunan | 2015-12-21 06:48 | ニュース | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(91) 私立大学評判記(その80)

 今回で「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」も3回目となる。
 前回から時代が下り、町人主義批判への反論を、古島一雄は次のように加える。

 「更に下って牛場時代となり、鎌田、谷井時代となり、豊川時代となり、柏田時代となるや。塾規は漸く整頓し、福澤氏亦矢野等の官途に就くを許すに至り。人生官吏となるの必ずしも罪悪にあらざるを知りと雖も、民間政論の勃興と共に藩閥の官吏たるは隆参の意味に於いて解せられ。」

 牛場とは牛場卓蔵のことであり、時事新報の記者、山陽鉄道総支配人となり、実業家、政治家として活躍した。また、鎌田は鎌田栄吉であり、第4代の塾長である。後に政治家となって文部大臣に就任したこともあった。谷井は谷井保のことだと思われる。紀州藩出身で、鎌田と共に慶応義塾に入学したという記述が見られたが、それ以上のことはよくわからなかった。

 豊川とは、豊川良平のことであり、第百十九銀行(現在の三菱東京UFJ銀行の前身)の頭取、三菱合資会社の支配人を歴任し、実業家、後に政治家として大いに活躍した。柏田は柏田盛文であり、東洋自由新聞の創刊にかかわり、後、政治家、さらに第四高等学校校長となった。
 
 この頃には、福澤諭吉も塾生が官吏の道へ進むことを許していた。しかし、自由民権論が活発になるにしたがって、やはり官吏への就職は、「降参」といわれるほど慶応義塾内では嫌われた。
そして、古島は以下のようにつなげる。

 「ミル、スペンサー、ベンザム、ボックル、ギゾーの著書に養われたる彼等は、講堂に出ては民権の大義を説き、稲葉山の老木に攀じては自由の真理を論じ、慶応義塾は純然たる政治学校として其面目を発揮したるにあらずや。」

 もちろんミル、スペンサー、ベンザムは現在でも哲学者としてよく知られている。また、ボックルは『イギリス文明史』の歴史学者、ギゾーは歴史学者、政治家として当時活躍していた。こうした西欧理論を学んだ学生は、それを活かして大いに政論を戦わせていた。さながら慶応義塾は政治学校であったという

 一方、次のような福澤のエピソードもあった。

 「当時美澤某なるものあり入塾して始めて福澤氏に見るや、氏突如として其族籍を問う。某答ふるに農家の産なるを以ってす。氏手を激して曰く休めよ休めよ帰ってドブロクを造るに如かずと。顧みて傍人に言って曰く『百姓の子は学問しても役に立たぬ理』と。当時福澤は米人某氏の遺伝論を信ぜしなり。此時に当たって彼の塾中果たして一人の町人主義ありし乎。」

 この逸話のように福澤には、この当時、遺伝子論の影響で、農民に対して偏見があった。
 したがって、以上のようなことを鑑みると、古島は慶応義塾が町人主義にはあたらないというのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-11-21 09:01 | その他 | Comments(0)

日本鉄道史

老川慶喜著(2014)「日本鉄道史 幕末・明治編」中公新書のpp.176-178に、「青森県人 陸羯南の予言」という項があるので、ポイントを紹介したい。

・1891年9月に日本鉄道が全通するまで、青森-東京間の移動は
陸路・徒歩:20日
馬車:12日(運賃は22~23円)
海路(函館経由):4~5日(1日1便で輸送力に限度あり)

・日本鉄道(青森-東京間)では
26時間40分
運賃:下等=4円55銭、中等=9円10銭、上等=13円65銭

以下p.177をそのまま引用する。

「・・・陸羯南は『東奥日報』(1890年7月13日)に「鉄道敷設後の陸奥国(承前)」を寄稿している。そのなかで、日本鉄道の全通によって東北地方は「利益を享受」するが、「利益の傍らには必ず弊害」があると警鐘を

鳴らしていた。陸によれば、その弊害とは「生産と消費の不釣合」に他ならなかった。すなわち、鉄道が開通し交通の便がよくなると人々の需要が増加する。しかし東北地方は「農産水産」の地なので、需要を他の地方

に仰がねばならない。試みに「農産水産」の年額を150万円、他の地方に仰ぐ「需要品の総額」も150万円とし、前者は増加しないが、後者は2割ほど増加すると仮定する。すると「需要品の総額」は180万円となり、青

森県は30万円を失うことになる。・・・」

と予言したという。

しぶさわ
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# by kuga-katsunan | 2015-11-12 23:41 | その他 | Comments(0)

合肥  李鴻章故居

 北京の李鴻章の邸宅が特定出来ないでいる。
彼の故郷、合肥に行く機会があったので、その家を訪ねた。
 合肥は、安徽省の省都、北京からは、高速鉄道で4時間、北京を出て、天津、済南を通って、次の停車駅が合肥だった。
 以前、上海に駐在していた頃、仕事で二回ほど行ったことがあったが、そのころ、2000年前後には、省都といえども、本当の田舎街で、外国経営のホテルもノボテルが出来て画期的、と騒がれていたレベルであった。それから12年、今回、高速鉄道の駅からタクシーでホテルに向かって驚いた。
 今や、高層ビルが立ち並び、高架道路も完備された近代都市となっていた。
 李大人の故居は、旧市街の中心地、観光客向けの歩行者天国の一角にあった。
 故居に行ってくれと頼んだタクシーの運転手は、歴史が好きなのかと聞いてくる。
下関の講和条約の時に、李大人を狙撃した男は、日本では英雄になっているのか、と厳しい質問をしてくる。講和交渉の使者を狙撃するのは、日本の感覚では英雄とはいえない、と答えると、日本の攻撃は奇襲が多いからな、と切り返してくる。
 一理あるので、つまっていると、目的地についた。
「ここで、よく歴史を勉強してくれ」
 と送り出してくれた。
 歩行者天国を歩いてゆくと、雨の朝とは思えない位、名所の前は人だかり。やはり合肥といえばここなのだろうか。
 どんな場所かは、昨年6月に行かれた方が、写真入りの詳細な旅行記を書いていらっしゃる。

http://4travel.jp/travelogue/10902052

 中国語のわかる方はこちらもご覧下さい

http://www.anhuitravel.com.tw/Anhui_Scenery/Anhui_Attractions/Attractions.aspx?cid=54&id=2967&t=1


 改めて、彼の生涯を振り返ると、清末の苦しい時期に、渾身の力を振り絞った政治家だったことがよくわかる。
 羯南たちが、北京で会った時も、義和団の乱、北清事変の後始末で苦悶している時期で、会談の内容が残っているわけではないが、実質的に明治天皇の名代でもある近衛篤麿一行をむかえ、日清戦争、北清事変と負けが連続している老大国を背負いながら苦渋の面談ではなかったかと思えてくる。
 羯南たちに会ったのが8月、9月に北京議定書を締結し、10月30日には大喀血、11月7日に亡くなった。78歳という長命、民族に尽くした生涯といえる。
 彼の伝記を書かれた岡本隆司先生が、彼の絶唱を引用している。
    「秋風の宝剣
     孤臣涙す
     落日の旌旗
     大将の壇
     海外の塵氛
     なお未だやまず
     諸君作す莫かれ
     等閑に看るを」   (岡本隆司 「李鴻章」 岩波新書 2011年11月)

 上海時代に、李大人の愛姫、丁香の邸宅だったレストランに何回か行ったことがある。
当時はその広壮さに、李大人を羨んだものだが、改めてその生涯を見る時、此の位はかるいものだと想い直してしまった。

たかぎ 

  

   
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# by kuga-katsunan | 2015-11-07 23:05 | 紀行 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(90) 私立大学評判記(その79)

 今回も「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」である。
 古島一雄は世間の慶応義塾に対する素町人主義批判への反論に続き、拝金主義批判への疑問を以下のように呈する。 

 「下って矢野文雄時代となり、更に三田に移って藤田茂吉、箕浦勝人、波多野承五郎等がギゾーの文明史を読み得て始めて卒業者となりし時代を見よ。其先輩たる九鬼、渡邊、肥田の諸輩が官途に就くや、意気地なしの骨頂と罵り、留まって義塾の講師となり、其清貧に安んじたる門野等が、如何に名誉あるものとして尊敬せられたるぞ。」

 明治時代中期、慶應義塾では、卒業し官吏となって金と地位を得るより、母校の講師として収入は少なくも、清く正しくあることが理想とされた。

 ちなみに、矢野文雄は慶應義塾の大阪分校の校長、評議員を務め、後に郵便報知新聞社社長、政治家となった。また、藤田茂吉は郵便報知新聞社主筆となり、その後、立憲改正党の政治家として活躍し、箕浦勝人は郵便報知新聞社社長となり、後に政治家へ転向した。波多野承五郎は時事新報主筆を経て、朝野新聞社長に就任し、その後政治家となっている。

 一方、九鬼隆一、肥田昭作は前回にも紹介したように、当時、官吏として活躍していた。ただ渡邊治は官吏となった様子は確認できなかった。
 そして、古島は次のように続けている。

 「当時慶応義塾を卒業したるものは少なくも百円の月給には有付きしなり。然るに塾中の者皆曰く、願わくば学成って三田の講師たらん已むを得ずんば民間の政治家乎。若し夫の官吏たるは一生の恥辱なりと。此時に方て彼等の塾中果たして一人の拝金主義ありし乎。」

 古島は慶応義塾の卒業生にとって、金に目がくらんで官吏になることは、「一生の恥辱なり」というほどであったという理由で、拝金主義を否定する。

 当時、慶応義塾を卒業したら100円の月給が得られたという。当時の1円は現在でいうと2万円に相当する(ただし、さまざまな換算方法がある。)。ということは月収200万円、相当な高給であるが、さらに官吏となれば、それ以上の高額給与が約束されていた。例えば、奉任官6等で150円(現在の300万円)、5等ともなれば200円(400万円)あった。

 一方、慶應義塾の講師の月給は10円(20万円)から50円(100万円)であった。慶応卒業生の多く者は講師を目指したという。そうでなければ政治家へ、決して官吏になろうとはしなかった。したがって、拝金主義ではないと古島はいうのである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-10-28 09:41 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(89) 私立大学評判記(その78)

 今回から「私立大学評判記(二十六)慶応義塾の学風(二)」に入る。
 古島一雄は、まず素町人主義への反論を次のように述べる。

 「試みに新銭座時代に見よ。障子は破れて之を繕ふ松下禅尼もなく、品川帰へりの王郎は時々剣を抜き畳を斫て莫哀を歌ふ。朱鞘の大刀は斜めに壁間に掛けられ、焼藷の皮は貧乏徳利と伍して机上に堆し、トコトンヤレ節でザツトのイツトを読む毛脛の偉男子もあれば、夏になれば屁子一貫の赤裸々にてウエーランドの経済書を輪読する連中あり。」

 慶應義塾大学がまだ新銭座にあったとき、塾生は士族出身であり、帯刀していたようである。身なりにかまうことなく、ひたすら勉学に励んでいた様子がうかがえる。勇ましくも可笑しくもある。

 「砲撃一発東台の天に轟くや塾に在るものは只だ小泉信吉のみ。アトハ面白半分の戦場見物、帰へり道でのおでん燗酒に余勇を鼓して兵児の謡を歌ふもあれば、附焼団子の弾丸に黒砂糖の硝薬、是は近頃の脇差と自ら酬ゆる下戸もあり。夜は横丁の黒犬を斬りて腕前を試めし、朝は夜着を被つて天下の前途を諭す。」

 戊辰戦争で上野が戦場となったとき、塾生はみな面白半分で見物に行ったのだが、小泉信吉一人だけが学校に残って勉強していたという。しかし、天下国家を論じあったとあるように、政治への関心が高かったことがわかる。    

 「之を前にして小幡篤二郎あり、松山棟庵あり、之を後にして荘田あり、吉川あり、朝吹、永田、肥田、門野、岡本、草郷、九鬼、渡邊、濱野、中上川、小泉等あり、先生は三百年の当弊を打破せんと意気込み。生徒は時代の暁鐘たらんとす。群豪雲の如く意気天を衝く。此時に当て彼等の塾中、果たして一個素町人的根性を有せしものありし乎」

 学生には逸材がそろい、彼らは時代の政治変革を目指していた。したがって、慶應義塾大学は素町人主義とは言えないと、古島は結論づける。

 ちなみに、ここに登場した人物を紹介しておこう。小泉信吉は塾長を務めた人物で、実業家(横浜銀行支配人)でもあった。小幡篤二郎は塾長となり、福沢諭吉の片腕であった。松山棟庵は慶應義塾医学所校長となり、東京慈恵会医科大学の創立者でもある。荘田は荘田平五郎のことであり、三菱財閥の重鎮であった。

 吉川は吉川泰次郎であり、実業家として日本郵船二代目社長となった。朝吹は朝吹英二のことであり、三井財閥の「四天王」と呼ばれた。永田は永田一二であり、ジャナリストとして数社の新聞社の主筆を務めた。肥田は肥田昭作のこと、文部官僚となり、東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長となった人物である。

 門野は門野幾之進のことであり、慶応義塾で教頭を務め、後に千代田生命保険初代社長となった。岡本は岡本周吉であり、本名を古川節蔵といい、慶応義塾初代塾長となった。草郷は草郷清四郎のことであり、実業家である。九鬼は九鬼隆一のこと、文部官僚として重要な役割を担った。

 渡辺は渡邊治のことであり、大阪毎日新聞社長となった。濱野は濱野定四郎であり、塾長を務めた。中上川は中上川彦次郎のことであり、三井財閥で「三井中興の祖」と言われた人物である。

 政官財各方面へ、時代を動かしていた人物たちである。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-09-26 11:17 | その他 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(88) 私立大学評判記(その77)

 今回も引き続き「私立大学評判記(二十四)慶応義塾の学風(一)」である。
 前回、慶応義塾大学についての一般的な世間での評価として、(1)「拝金宗」を説明したが、今回は、(2)「素町人主義」、(3)「常識教育」を取り上げる。
 古島一雄は、素町人主義について以下のように述べる。

 「世人は福沢氏を以て素町人主義なりと云う、非乎。世人は慶應義塾を以て町人養成所なりと云う、非乎。ぞろりとしたる着流しに雪駄ちゃらちゃらの帽子なし。是れ福沢氏の風采たるを知らば彼は如何にも町人らしからずや、非乎。」

 福沢諭吉自身の身なりが町人のようだという。さらに、福沢には次のような言説が見られるという。

 「袴は廃せよ屁子帯は締めるな」「一人前の家に住み一人前の衣食が出来てから始めて一人前の口をきけ」「月給取りは士族の後家が公債証書の利子に衣食するが如し、新知識のハイカラで旧思想の前垂連を打破せよ」

 これらは商人としての生き方を示すものであり、いかにも町人らしい教訓であると、古島は指摘する。
そして、以下のようにまとめている。

 「彼の門下実業界に在るもの千百を以て数ふ。彼を素町人主義の本尊なりとすれば、彼は又よく此の主義の目的を達したるものと云うべし。素町人主義果たして彼の志なりし乎。」

 確かに慶応義塾大学の卒業生は実業界に就職した者が多い。しかし、古島は素町人主義が本当に福沢の思いだったのかと疑問を呈する。
さらに、彼は常識教育について、次のように続ける。

 「世人は福沢氏を以て常識教育の祖師なりと云う、非乎。世人は慶應義塾を以て常識の教育所なりと云う、非乎。其宇宙を観しては単に天然の微妙に帰し天を怨むな天に謝するなと説けるが如き。其人世を観しては善悪は絶対的の標準なし。只人の好悪に依て定まる。小むづかしき理屈や高尚なる手段は無益なりと説けるが如き。其外諸生を諭しては理論を去て実際に着けと云うが如き。学問に齷齪たらんよりは早く虚世の道を脱せよと勧むるが如き。彼は如何にも常識本位論者にあらずや。」

 引き続き常識教育の成果を簡単にまとめれば次のようになると述べる。

 「其門下生が一寸学問もあり、一寸小知恵もあり、一寸文章も書ければ、一寸話も出来、一寸小金の才覚も出来れば、一寸端唄の一つも唸なれ、何をさしても一寸間に合ひ、応接振りもシトやかに人の機微を損なはず、万事に抜目がなくて融通が利き、お世辞上手の世渡り上手、所謂常世の才子風、所謂常世の紳士気質なるを見るべし。」

 そして、以下のように問う。

 「之をして若し常識教育なりと言うを得れば彼は又た其祖師たるに恥じざるなり。嗚呼嗚呼是れ果して彼の志なりし乎。」

 果たして、慶応義塾大学は世間の評価のように、「拝金宗」「素町人主義」「常識教育」なのであろうか。次回、古島はそれを確かめて行く。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-08-27 09:25 | その他 | Comments(0)

弘前 陸羯南企画展実行委が発足

弘前市立博物館で12月から予定されている陸羯南企画展の実行委が発足しました

東奥日報で以下のように報じられています

「明治時代の日本を代表するジャーナリスト、陸羯南(くがかつなん)(弘前市出身)の生涯をたどる「陸羯南とその時代」が12月19日から2016年2月28日まで、同博物館で開かれる。21日、市、東奥日報社、陸羯南会、養生会、弘前観光コンベンション協会の5者が「陸羯南展実行委員会」を設立した。」
(2015年8月21日)

 横浜の展覧会とは違った地元ならではの企画展が期待される。
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# by kuga-katsunan | 2015-08-25 22:35 | ニュース | Comments(0)

「孤高の新聞『日本』」公開講座

連続する猛暑日の最中、8月1日の公開講座は大盛況のうちに終了。
当日は満席の上、時間も大幅に延長するなど充実した内容の講座となった。
お忙しい中、駆けつけていただいた加藤祐三先生のブログに、講座の内容がわかりやくすく丁寧に記述されている。参加できなかった方は是非ご参照あれ。

http://katoyuzo.blog.fc2.com/

加藤先生は、都留文科大学元学長、横浜市立大学名誉教授・元学長、ご専門は近代アジア史、文明史。この研究会(高木主筆)の大きな成果である「東亜時論」復刻に際して、『戦前の中国時論誌研究』に所収される先生の論文を転載・収録させていただいた経緯がある。
ブログのタイトル「月一古典」は、先生が学長時代に学生に贈るエールとされた「三訓」のひとつ。

やまだ
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# by kuga-katsunan | 2015-08-06 20:35 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(87) 私立大学評判記(その76)

 今回から「私立大学評判記(二十四)慶応義塾の学風(一)」に入る。
 古島一雄は、慶応義塾の大学・高校・中学校・小学校それら全体に漂う学風をテーマに、15回にわたって分析を続けて行く。学風こそ学校・大学の本質である。古島はそのことを理解していた。15回というこれまでにない回数を重ね慶応義塾の学風が掘り下げられて行くのである。

 古島は当回でまず慶応義塾についての一般的な世間での評価、それもむしろ悪評を取り上げ、その3つの疑問として投げかける。すなわち、慶応義塾が、(1)「拝金宗」、(2)「素町人主義」、(3)「常識教育」であるという疑いである。
 最初に(1)「拝金宗」から古島が述べるところを聞いてみよう。

 「世人は福沢氏を拝金宗の開山上人なりと云う、非乎。世人は慶応義塾を拝金宗の伝道場なりと云う、非乎。三田の市民は彼を見て日本一のシミッツタレと為し、芝の区役所は彼を以って多少インゴウなる親爺と為す。」

 学校経営が困難な点も多く、資金繰りに苦労していたことを考慮しても、痛烈な批判である。福沢諭吉と慶応義塾自体に世間では当時こうした見方があった。
次に、古島は以下のように続ける。

 「若し郷党の言う所、以って多少の信を置くものありとせば彼は確かに拝金宗の本尊なり。高橋義雄は拝金宗なる一書を著し、中上川彦次郎は井上伯の為に令嬢の靴の紐を結ぶ、若し其門下の為す所を見れば彼は確かに拝金宗の伝道者なり。彼の慶応義塾の評議員たる阿部泰造を見よ。ジユウ的人間とし恥ずかしからぬ見本にあらずや。夫の福沢氏が愛重したりし井の角を見よ。又た更に立派なる標本にあらずや。」

 福沢の教えを受けた門下生は“拝金宗”の実践者であり、上記の高橋義雄、中上川彦次郎、阿部泰造、井の角こと井上角五郎は代表的なお手本であるという。ちなみに、高橋義雄は三越の経営者であり、後に茶人として知られた。中上川彦次郎は周知のように三井財閥の中心人物であり、阿部泰造は政府で司法官僚として活躍、井上角五郎は政治家としても事業家としても多才であった。

 古島は最後に次のような疑問を呈する。

 「而して更に其門下の多数が如何に拝金主義を奉じて社会に立ちつつある乎を見れば、彼は確かに其宗旨の伝播に成功したりと云うべきなり。拝金宗の開山上人、是れ果たして彼の志なりし乎。」

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-07-27 07:31 | その他 | Comments(0)

中江有里の直球&曲球(産経新聞)

 研究会のメンバーの一人、いぬい君から今日の産経新聞に展覧会の記事がのりました!と連絡を頂きました
 以下、同紙のネットに掲載されましたので、採録させて頂きます。

「独立新聞〟を守り続けたジャーナリスト・羯南に感銘
 
  現在、日本新聞博物館(横浜市)で開催中の企画展『孤高の新聞「日本」-羯南、子規らの格闘』を見てきた。明治中期に新聞「日本」を創刊した陸羯南(くが・かつなん)と、正岡子規の関わりを中心に構成されている。子規の『墨汁一滴』に続き、死の2日前まで書き続けた『病牀(びょうしょう)六尺』が連載されたのが新聞「日本」だと知っていた。今回の展示では連載媒体であった新聞「日本」および陸羯南について初めて知ることが多かった。

 「日本」は大日本帝国憲法の発布式と同じ日に創刊した。そして、政党機関誌や営利新聞を否定し「独立新聞」であることを紙面で宣言している。政府に対する批判を展開したため、計30回、230日にわたる発行禁止処分を受けた。

 しかし、処分にひるまない羯南のもとには多く俊英が集まった。その一人が子規だった。故郷松山からひとり上京した子規は、叔父から羯南を訪ねるように言われた。弱冠16歳の子規の才気を感じた羯南は子規を新聞社社員として誘い、「日本」のみならず、続いて創刊した「小日本」の編集主任をまかせた。

 子規が病に倒れて出社できなくなってからも、給料を払い続けて生活を支え続けた。 つまり、羯南がいたから、現在子規の作品が残っていると言っても過言ではない。それは金銭的なことだけでなく、羯南が新聞「日本」を守り続けたことが大きい。子規がいくら作品を書いても、読み手がいなければ意味がないのだから。
 
 自らの信念を貫いた新聞が発行禁止になれば当然読まれることはない。しかし政府や読者に迎合すれば、独立新聞ではなくなる。羯南はずいぶん苦しんだだろうと思う。
 
 現在新聞は発行部数が徐々に減っている。人口の減少もあるが、私の周囲では「ニュースはネットで事足りる」という声もある。情報のスピードやリアルタイムの状況を知るのにネットは便利だ。だがネット情報は真偽のほどが分からないし、ニュースのその後や検証は新聞が力を発揮するところだろう。
 
 羯南のジャーナリストとしての姿勢に深く感銘を受けた展示だった。」
(2015年7月16日 産経新聞)

http://www.sankei.com/column/news/150716/clm1507160009-n1.html

 筆者は、往年のポッキー四人娘の一人、女優の中江有里さんです。

 その後、舞台の台本もかかれたり、テレビの書評番組の司会をされたり、と有り余る才能をあちこちに開花されていらっしゃる。

 簡潔かつ暖かい御紹介で、改めて、天は二物も三物も与えているという印象を深くした次第です。

 独立新聞、の一語が改めて光って読めました。

たかぎ 

    
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# by kuga-katsunan | 2015-07-16 21:36 | ニュース | Comments(0)

加藤さんのブログ

 友人の紹介で、北京で親しくして頂いている加藤さんが、ブログを始めた。

 <記者の途中下車>

 というブログですが、横浜の展覧会を見て頂き、率直なご意見を書いて頂いている。

http://blog.goo.ne.jp/kato-takanori2015 

 個人的には、以前からこの羯南の研究は、実際に新聞の現場にいらした方が取り組まれると更に深まると思っていたが、中国報道の最前線にいらっしゃる加藤さんの文章を拝読して更にその観を深くした。

 本日、発売の文芸春秋には、その加藤さんの渾身の文章が発表されるという。

 同じ中国に身をおくものとして、期待している。

 このブログの読者の皆様にも、乞う御高覧。

たかぎ 
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# by kuga-katsunan | 2015-07-10 00:19 | トピックス | Comments(0)

孤高の新聞「日本」企画展

開催一週間後の土曜午後、学生と思しき6~7名の男女混合チームなど、会場内は意外と若い年齢層が目立ちました。
展示も「自らの理念にのみ立脚した言論報道機関たる『独立新聞』をつくる」という羯南たちの若いエネルギーを感じる構成でした。
なにより当時の新聞をベンチャー産業という視点で捉えたことで、「日本」の数々の試みや、そこに集まってきた若者たちの姿が、前の時代への反骨精神と未知への挑戦という、今も変わらぬ青春劇として、妙に納得できた次第です。
司馬遼太郎から青木彰への手紙も、実物が初めて公開されています。写真は図録の一部です。本物は是非現地でご覧ください。
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やまだ
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# by kuga-katsunan | 2015-06-30 00:30 | Comments(0)

<羯南と古島一雄>(86) 私立大学評判記(その75)

 今回も「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」が続く。
 古島一雄は寄宿舎の様子を次のように述べる。

 「掲示場に於いて最も人の目を惹くものは其掲示の文なり。仮令ば『静粛にすべし』と言はずして『静粛を保ち処』と云ふが如く凡て命令的文字を用いずして一に其公共心に訴えんと欲するが如き其用意の太だ周到なるを見る」

 このように古島は上から一方的、強制的にやらせるのではなく、「公共心」を引き出そうとするところを評価する。
 次に、大食堂が自治制度の下で運営されていることを寄宿舎の特色だと述べ、そして消費組合の存在を以下のように関心を寄せる。

 「甚だしきは其筆墨紙、シャツ、靴下の類を売る西洋小物屋的の一小店が消費組合と号せられて寄宿舎の一部に在り。而して此組合が一株五十銭廿五銭の払込より成り、株は其売買を許さるるが如き、稍々滑稽の観あれども同舎の生徒は却て之を以って多大の成功と誇れるが如き偶ま以って三田風の飽くまで三田風なるやを見るに足るべし。」

 上述のように、当時、既に学校生活に必要な物品を販売する売店が寄宿舎内に設置され、消費組合として存在していたことがわかる。これは他の学校にはなかったようで、「三田風」と言うように慶応の特色であった。 
 古島は最後に結論として、次のようにまとめている。

 「之を要するに慶応義塾の寄宿舎は私立学校中多く其此を見ざるるものにして其設備は最も完全なものと云うべく其制度は最も発達したりと云うを得べく、義塾夫れ自身に於いても『慶応義塾より奇食者を取去れば慶応義塾は全然ゼロにして独立自尊の光輝を発揚すべき唯一の武器を失えるものなりと』云えるが如く其自任の大なるを見るべし」

 このように学校における寄宿舎の存在意味の重要性が指摘されている。すでに「慶応義塾の寄宿舎は慶応義塾其物である」との記述も紹介したように、寄宿舎こそが学風の醸成につながり、しいては学校存在のポイントとなる。実はこれは現代でも言えることである。
 古島は寄宿舎の存在という学校の本質を見抜いていた。

 いしがみ
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# by kuga-katsunan | 2015-06-26 09:26 | その他 | Comments(0)

孤高の新聞日本  展覧会始まる

 6月20日から横浜の日本新聞博物館で始まった。

産経新聞に紹介の記事が掲載されましたので、以下、再録させていただきます。

「明治の新聞「日本」企画展 横浜の博物館で開催

 明治のジャーナリスト陸羯南が創刊し俳人正岡子規らが参加した新聞「日本」を紹介する企画展「孤高の新聞『日本』-羯南、子規らの格闘」が20日、横浜市中区の日本新聞博物館で始まる。東奥日報社、愛媛新聞社との共催で、8月9日まで。

 政府や政党などから独立した新聞を目指して明治22(1889)年に創刊され、度重なる発行停止処分にも屈せずに政府を批判し続けた軌跡を紹介。記者の理念を説いた同紙社説のパネルや発行停止になった際の読者通知はがきなど200点以上の資料を展示する。

 博物館の赤木孝次学芸員は「独立という理念を掲げ、明治期の新聞界に大きな足跡を残した新聞を広く知ってほしい」と話している。」
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# by kuga-katsunan | 2015-06-22 19:38 | ニュース | Comments(0)




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
by kuga-katsunan
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