今回は、「(二)緒言(中)」を取り上げる。古島一雄は、ここで、まず加藤弘之と福沢諭吉の政論を紹介し、次に、民権論が高揚するなか政府の言論統制に触れる。
そして、「学者の専有たりし政治論は、今や民間志士の手に移され、評論新聞となり、草莽新誌となり、慷慨激越、或は政府の転覆を説き、或は大臣の暗殺を論じ」と述べ、さらに、それらの雑誌について、以下のように批判する。
「過激なる雑誌の議論は、其意気の太(はなは)だ壮烈なりしに拘らず、其主張は甚だ単純にして、政論として一定の原則を有するものなし。」※( )内は筆者補足。
しかし、新聞については、次のように高い評価を下している。
「政論の体裁を具えて現れ来たりしものは、(郵便)報知新聞一派の議論と、之に反対して起きたる(東京)日日新聞の漸進主義なり。」※( )内は筆者補足。
さらに、新聞と大学との関係を次のように述べる。
「而して日日新聞の議論は、多く福地(桜痴)、末松(謙澄)二氏の手になりと雖(いえど)も、其議論を供給せしものは、今の所謂帝国大学中の一派にして、報知新聞の記者は、実に慶応義塾の出身者たりしなり。」※( )内は筆者補足。
明治35年当時、大学出身者の職業として新聞記者の道があったことがうかがえる。陸羯南は、現在でいえば東大法学部中退であり、正岡子規は、東大教養課程での中退となるが、彼らも大学教育を受けたので大学出身の仲間に入れてもよいだろう。
しかし、古島は、大学には行かなかった。
ちなみに当時、帝国大学を卒業後は官吏へ、私立大学の場合は、民間企業を含めて多方面へと展開を広げていた。大学卒業後のルートが確立しつつある時代であった。
いしがみ