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<羯南と古島一雄>(4) 明治中期の新聞の力

 前回、新聞「日本」創刊当日の“椿事”ということで、森有礼文部大臣の暗殺事件に触れた。今回は、その背景としての当時の新聞の影響力について取り上げよう。
                     
西野文太郎が暗殺を企てた理由は、森が伊勢神宮において、ステッキで神前の御簾を上げる不敬の行為を働いたことに対してであった。しかし、そのことを言いふらしたのは伊勢の神官であったという。実は、伊勢神宮には、森を恨む動機があった。彼らは「伊勢の暦」を発行しており、その収益は大きく、それにより生計を立てていた。しかし、森は、「伊勢の暦」を廃止して、大学教授たちの専門知識を集め、科学的に暦を作り直そうとしていた。そこで伊勢の神官たちは、森を失脚させようと意図し、風聞を流したのであったというのである。
確かに、彼らは大廟を守る者として、森に事前に注意を与えるくらいの配慮は必要であり、ましてや不敬の行為が洩れることは、むしろ彼らに落ち度があったということになるだろう。

そのうわさが流布されるのに当時の新聞が大きくかかわった。明治19年ごろから、新聞は部数を拡大し、情報の流量を増やしていった。新聞も部数の増大・維持のため、刺激的・商品的な情報、今の社会面や週刊誌のような記事を、流すようになっていった。いわゆる「大新聞」の「中新聞」化である。そして、それにより批判や行動を新聞に規定される人々が登場した。

この時、森の人間像は、新聞により実際とは違ったかたちで形成された。森は、伝統を破壊する欧化主義者であり、神道を軽んずるクリスチャンというマイナスのイメージに結びつけられた。具体的には、現在でも奇異な、友人の立会いのもと契約書を交わして結婚式をあげたという「婚姻契約」を紹介する記事が東京日日新聞に掲載され、また、前回、古島の回想に出てくるように東京電報新聞では、森の伊勢での不敬行為が報道された。
しかし、森の実像は、違ったようだ。彼の周辺人物から彼に対する評価を聞くと、正義感が強く、「人を恵みで使うことは易いが、徳によって人を使うのはむつかしいですね」と妻にそれとなく反省を促すように、いたってヒューマニストであったようである。
森は、新聞により悪の虚像として煽られ、暗殺という結果を引き起こすことになったのである。まさに新聞が森を殺したのである。

当時、新聞は黎明期であった。明治15年(1882年)に全国での普及率は、100戸あたり2戸にすぎず、新聞が浸透している東京でも、明治16年(1883年)では10戸に3戸しか購読していなかった。それでも新聞の影響力は大きかった。明治21~23年(1888~1890年)には、各新聞が大隈重信の条約改正交渉に対する反対運動の論陣を張り、また、憲法発布・議会開設といった政治・外交の大事件があり、新聞の普及を促進した。
古島は、当時の新聞「日本」の影響力について、政論新聞として、特に陸の社説が「非常に書生の間に愛読されたもので、神田の下宿屋で『日本』の這入らぬ家は肩身が狭いくらいだった」と語っている。
新聞は、明治中期には、すでにひとつの権力となっていたといえるであろう。

(参考文献)古島一雄『一老政治家の回想』中央公論社、島本久恵『明治の女性たち』みすず書房、佐々木隆『日本の近代<14>メディアと権力』中央公論新社

いしがみ
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by kuga-katsunan | 2008-06-29 19:59 | その他 | Comments(0)
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