明治元年に、四国・伊予(現在の愛媛県)にて生を受ける。上京して、海軍兵学校に入学。日露戦争では、連合艦隊指令長官の作戦参謀として参戦。日本海会戦において、世界屈強といわれた帝政ロシアのバルチック艦隊を壊滅せしめた。司馬遼太郎の代表作『坂の上の雲』の主人公として、今なお、その偉業を知ることができる。
秋山真之である。
こんなエピソードを掲げたのは、何も「明治・大正期には、ジャーナリズムへの寛容度が低かった」だの「軍人は唯我独尊で、批判を許さない」などといった論を展開するためではない。
理由は、ただひとつ。
秋山真之には、正岡子規や夏目漱石がどう映っていたか?
それが気になって仕方ないのである。
秋山真之、正岡子規、夏目漱石の縁(えにし)について、少々、触れよう。
秋山真之は、明治元年(1868)、四国は松山城下に生れた。
正岡子規は、慶應3年(1867)、松山の生まれ。
夏目漱石も、慶應3年に、東京で生まれている。
秋山と正岡は、同じ城下で育った幼なじみである。幼少期から知己を得、ほぼ同時期に身を立てるために、上京。ともに大学予備門で学ぶが、秋山は、陸軍士官学校に進んだ兄・秋山好古の影響もあって、予備門を退学して、海軍兵学校に進路変更する。一方の子規は、予備門をへて、東京帝国大学に進学。生涯の友人と認め合いつつ、かたや海軍参謀へ、かたや俳句・新聞へと道をたがえた。
こんどう