羯南には、七人の娘があったが、四女の最上巴さんの談話がいくつか残っている。
昭和50年4月、講談社版の子規全集の最初の巻であった11巻の月報1に、<写生のモデルになって,最上巴>との談話が掲載されている。
また、松山の子規博物館の月報にも<陸羯南の娘として>という題のロングインタビューもある。
先般、最上巴さんのお孫さんにあたる方から、細川謙三氏の短歌同人雑誌<楡>に、別のインタビュー記事が掲載されていることをお教え頂いた。(最上巴さん93歳)
ここにはそれまでの発言にはない貴重なエピソ-ドも含まれていることから、この雑誌を発行されている皆様のご承諾を頂戴して、このブログに転載させて頂く。
「子規が亡くなるころは私は八つ九つでした、いちばん悪戯ざかりでした。女ばかりの姉妹の中でもいたずらで悪かったようです。
子規の家へは隣りですから、よく遊びに行きましたが、お医者さんからご注意があって、子規さんの病気が病気ですから両親も心配してあまりあがるんじゃないと言ってました。
もう八十年もむかしのことですが、父のところへ珍しいものが送られて来ますと
父が正岡のところへ持っていけと、そのころ二、三人の書生が家におりましたから昼間学校へ行くものと夜学に行くものとあって、その書生がおりませんときには私が持って行くことになっていて、母が包をあけているときからもってゆくといってきかなかったのです。」
(昭和61年9月)