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千頭清臣の谷干城回顧

 千頭清臣は土佐出身の政治家で、松井氏の新聞日本の人々のリストにも、相談役の扱いとして、杉浦重剛、古荘嘉門、高橋健三、宮崎道正らと一緒に名前を連ねている。

< 明治維新の混乱状態も治まり、社会も平成にも戻った明治18年の頃になると、江戸時代の鎖国政策の間に遅れてしまった文明を取戻す為に、だんだん教育の必要性が重要視されるようになってきた。

その要求に基づいて、明治18年6月、千頭清臣、谷田部梅吉、松下丈吉の三名が官立学校に入学する者のための予備門を設立しようとして、杉浦重剛(夫人は千頭清臣の令妹)、増島六一郎、宮崎道正などに呼びかけて、神田錦町二丁目二番地に、本学園の前身、東京英語学校を創立した。初代校長に、増島六一郎(中央大学の前身英吉利法律学校の初代校長)が就任した。杉浦重剛はすでに東京大学予備門の校長をしていたからである。

東京英語学校は東京大学予備門(現在の東京大学教養学部)の入学志望者を標準にし、そこに十分入学できるだけの能力を養成するための教育を行っていたのである。>

(日本学園中学校・高等学校 HP 日本学園の歴史)

 ここには、所謂<連判状の人々>が名前を連ねているが、千頭と杉浦が義理の兄弟であることがわかる。

 谷干城遺稿には、最後に各方面の人々の谷に対する回顧談が載せられている。
そこには、不平将軍仲間の三浦梧郎、曽我祐準、日銀総裁富田鉄之助、東海散人こと柴四朗、そして千頭清臣らが名前を連ねている。

 千頭の回顧は

<元来、谷将軍は、私の先輩であって、余程年齢が違う。一体、谷将軍は、文武館で私の父と同役であった。
 即ち谷将軍と故佐々木侯爵、馬場源馬、私の父の千頭馬喜之進とでありました。
この四人の内では、谷将軍が一番若くて、馬場は即ち故馬場辰猪の祖父である。
私は、将軍の養子乙猪や福富孝季や北村長兵衛の弟などと親友であった。>

(谷干城遺稿  明治45年4月)

  この部分を読んで、かねて気になっていたことが、腑に落ちた気がした。
羯南は、福富を新聞日本の恩人として、ずっと感謝の念を忘れなかった、という。それは、福富が羯南を谷干城に紹介したから、と言われている。
  では、福富がなぜ谷に近しかったのか、が元来不明であった。
同じ、土佐出身だったから、というのはベースでわかる。ただその距離感がよくわからなかった。
  この千頭の回想からは、谷の息子、北村長兵衛、そして福富、千頭が親友であったことがわかる。福富は谷乙猪との交友からその父、干城との関係をきづいていったのではなかろうか。

たかぎ
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by kuga-katsunan | 2007-11-15 06:52 | トピックス | Comments(0)
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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