今日は、羯南の命日である。
百年前の今日、羯南は、欧州旅行の疲れ、帰国後の経営困難が重なり、病勢が進み、明治40年9月2日、静養中の鎌倉の別荘で帰らぬ人となった。家族のこと、新聞のこと、心残りが多くその心中、察するに余りある。
池辺三山が、亡くなってすぐ出版された<日本及日本人>第467号(明治40年9月15日)の中で<羯南君と余>と題する追悼文を寄せている。
三山はその中で、
<僕を新聞記者にしたのは陸君である>
と書き始め、羯南の助言によって記者になったという。
そしてその後の種々の羯南の心遣いを挙げ、<僕に対する此一例で陸君がいかに人に同情をする方法を執っていたかが知られるでは無かろうか。>としている。
三山が、根岸に羯南を見舞った時、
<陸君は新聞を売って仕舞って安心した話をし>
と回想している。
たしかに羯南が経営のために奔走しているときに、誰か、経営と編集を分離して、羯南に編集、論説の作成に専念できるように、助言をするものはなかったのか。
歴史にIFはないが、<記者>に専念できた羯南が、その後の日本の変転に対しどのように評したか、聞いてみたかったが、それも今は虚しい。
今、せめて我々にできるのは、20世紀の泥沼から抜け出したにも拘わらず、再び各国のナショナリズムが勃興し始めている現代にあって、国と民族と個人の存続を賭けて悩み、議論した羯南たちの考え方を、如何に現代に活かすか、ということなのであろうか。
没後百年、今、甦る羯南の声に耳を傾けたい。
たかぎ