先述の羯南の娘たちだが、四女のともゑ(嫁して最上巴、と記述されていることが多い)の談話がいくつか残っている。
ともゑは、明治26年生まれ、長じて最上国蔵(横浜正金銀行、後の東京銀行、現三菱東京UFJ銀行、の重役)に嫁し、平成3年で98歳で亡くなるまで長寿を全うした。
昭和50年4月、講談社版の子規全集の最初の巻であった11巻の月報1に、<写生のモデルになって,最上巴>との談話が掲載されている。
<私どもが子どもの時分には、子規庵と陸の家とは狭い空地を隔てて隣同志でした>
と、子規の想い出を語っている。
<鳥籠は動物園によくあるような形の金網造りのもので、そこでエサをやっていますと訪れる人もなく退屈していた子規さんがガラス戸ごしに覗いて、「巴さん、何を持ってきたかね」などと話しかけて来たものです。>
これは晩年の子規のことであろうから明治34年の頃、語っているともゑが7-8歳の頃の記憶ということになる。
<なにしろ近いものですから、何でもちょっと珍しいものを頂くと、父が、まず半分は正岡さんのところへやれというので、私が運んだこともありましたし、昔のことで家に書生の2,3人は必ずおりましたから、その人たちに運ばせたこともありました。>
羯南の子規に対する慈愛は、よく言われていることだが、娘の話のなかにも、その美しい証左が残されている。
そしてともゑは、<仰臥漫録>に紹介されているエピソードについても語っている。
たかぎ