引き続き、「谷干城遺稿二」から、谷干城の日記をみる(解説部分も、同じく有山輝雄著「陸羯南」によっている)。
明治22年7月7日
「朝 井上毅氏を訪ふ談改正条約のことに及ぶ 井上氏曰く大隈氏の改正案は或部分は反対なり或部分は同意なり・・・晩に杉浦、高橋、福富、陸、弘田、佐々、小野氏等来る新条約に対する意見を定むる為なり確乎反対と定む」
谷干城を中心に乾坤社メンバー、羯南らが集まり、断固反対方針を決定した。それまで態度を保留していたが、条約改正反対論を明確に打ち出すこととなった。重要問題に関する「日本」の言論が、谷干城を中心とする合意で定められていた。
明治22年10月18日
「・・・大隈氏狙撃せらるるの聞へあり・・・與論は即ち天意なり、・・・頑冥者少しく戒むる所あらん哉」
大隈重信外相暗殺未遂事件について、「日本」は毎日新聞を長く引用、暗に狙撃を肯定するかのごとき感想を記している。
この後、政局は一気に流動化し、反対運動は目標を失ってしまった。谷干城・浅野長勲・三浦悟楼らの意見も合わず、谷干城の新党計画も頓挫した。しかし、谷は、「国民主義者」の結束を維持しようとした。
明治22年12月25日
「・・・夜三浦、浅野氏等を始め杉浦、高橋健三、中村弥六、柴、古荘、国友、国府寺、千頭、宮崎、福富、陸氏等来会各地の国民主権者の為目標を建つるのことに評議す篤と評議の上明年一月十日頃迄に決することと為す」
この段階の羯南は、党派結成には消極的で、「日本」は、與論の役割を「批判」に限定する主張を掲げている。新聞は、政策を掲げて政権を争う政党とは異なり、〈理〉にたった「批評」こそが、独自の機能であると考えていた。
しぶさわ