明治45年発行、昭和51年に覆刻された、「谷干城遺稿 二」(東京大学出版会発行)から日記部分をみる。解説部分は、有山輝雄著「陸羯南」によっている。
・明治21年12月13日「福富氏来る 新聞の事」
福富氏とは、福富孝季(たかすえ;乾坤社の一員、杉浦重剛の盟友)であり、同氏が「現政府の位置に反動し、強固広潤なる政治的主義をとり、信頼できる剛毅の性を備えた人物を主筆に据える。」といったプランを谷に説き、谷の意向とも合致、新聞発行計画は急速に進んだ。
・同25日「早朝福富氏来る 先日来苦心の事 某義侠の力により基礎確立の吉報を得たり 辻氏来り 弥生町の方(浅野長勲邸)も異議なき由の談あり 午後弥生町に行き基礎確立の見込あるを述べ猶将来の事を計る (浅野長勲は)無論賛成に付助力するを諾せり」
・同28日「・・・六時頃よ弥生町に行く 来合するもの杉浦、福富、古荘、千頭、陸、高橋諸氏及宮崎某、野村文夫氏等なり 十一時頃帰る 新聞の名称単に日本と冠する議あり」
これにより、新聞発刊計画はほぼまとまり、題名も『日本』とほぼ定まった。この計画は、谷・杉浦・福富の乾坤社が主導、羯南は最後の段階まで協議に参加しておらず、谷や杉浦からは格下の地位にあったのであろう。...とあった。
しぶさわ