さて篤麿の動向を綴った<近衛篤麿日記>(以下、日記)に、初めて羯南が登場するのは、明治30年2月24日の項である。この日、篤麿は、松方首相を訪問し、貴族院議長として予算の件につき打ち合わせを行ったり、足尾銅山鉱毒事件有志者と面会して陳情を聞いたりした後、学習院に出向き、学校経営についての相談ののちに評議会を開催し夕刻帰宅した。
自宅ではすでに数名の来客がまっており、松方首相との会談の内容をめぐって議論の後かなり疲れていたものとは思われるが、夕食後更に来訪者があった。
高橋健三(内閣官報局時代の羯南の上司、この時点では官を辞し、大阪朝日新聞の客員として健筆を振るった後、体調をくずし、翌明治三十一年肺結核のため病死。)、神鞭知常(法制局長、初期のアメリカ留学生)らとともに、羯南も篤麿に面会している。用件は、<民法第2条修正案の事>と書かれている。
資料4 日記 明治30年2月24日
二十四日 水曜日 晴
一 食後、民法第二条修正案の事に付当邸に来会するもの、高橋健三、神鞭知常、陸実、大竹貫一、富田鉄之助、元田肇、山田喜之助等なり寺師宗徳は差支の旨にて晩刻自ら来りて断りを云ひ去る。種々協議の末、第二会を来月一日と定めて分る。時に十一時なり。
羯南と篤麿がこの時初対面であったかどうかは今となってはしるよしもないが、少なくとも手紙の往信も5年来あり、初対面であったとしても相手の人となりは意識した間柄であったものと推量される。高橋健三と羯南の仲は、内閣官報時代以来のものであり、羯南はそのグループの一員として行動している。
たかぎ