井上亀六は、丸山真男の叔父にあたる。
丸山の父である幹治が、亀六の異父妹であるセイと結婚し、丸山はその次男として生まれたのだ。丸山幹治と井上亀六は、新聞日本で机を並べて記者として働いていた。
羯南が新聞日本を売却し、その後の編集方針の食い違いで主要な記者が一斉に退社したあと、政教社が出版していた雑誌<日本人>は、新聞日本の人々が合流し、明治40年1月から<日本及日本人>として再出発した。
面白いことにその再出発当時、井上亀六は、その号である藁村を使って、<露国文芸家列伝>という連載をしている。当時著名であったロシアの作家たちを毎号10名ほど、連載六回で60名近くの作家たちが肖像画入りで紹介されている。個人的には非常に興味のある名前が並んでいるが、同時代とはいえこれだけの紹介は、なにか元本があったのだろうか。
井上は、結果的に政教社の社主となって、苦労を重ねることになるのだが、その主たる原因は三宅雪嶺、むしろその夫人・花圃女史龍子にあった、とする向きがあるが、事実はどうであったか。同人たちからは<仏様のような性格>と言われたともある。雑誌の赤字を、羯南、子規、そして愚庵こと天田五郎などの全集でうめようとした、との見方もある。
資料を探したい。
たかぎ