羯南の磁場に引き寄せられた人々の人生を知り、羯南との交流を辿ることで、羯南の存在を再認識する…という高木主筆の構想に従い、今回は東海散士こと柴四郎入門の旅を命じられました。
1852年会津藩士・柴佐多蔵四男として房総半島富津会津藩陣屋に生まれる。
弟には北京篭城で国際的名声を得、陸軍大将となった五郎がいる。
会津藩学校・日新館~白虎隊で激動の戊辰戦争を生き延び、斗南に移住の後、函館へ行き勉学の道を志すも挫折し、一時は弘前の東奥義塾に塾僕として、働きながら学んだ。このあたりの経緯は羯南と重なる部分もあり、どのようなシンパシーがあったのか。
大きな転機は1879年からのアメリカ留学だったと思われる。ここでの経験も踏まえてベストセラー政治小説「佳人之奇遇」は書かれた。列強の侵略に対する危機意識が根底にあるといわれているが、このあたり、羯南の国民主義とどう関わったのか。
みすずの追悼集に柴四郎の名はないが、精力的な印象のある羯南が先に逝き、もともと病弱だった彼が何を感じたか。結局、彼は谷干城の秘書官などを経て、政治家としても活躍し、71歳まで生きるのだが…。
以下は会津若松市内の柴家菩提寺・恵倫寺にある四郎の墓。但し、彼が生涯を閉じた熱海にも分骨され墓があるらしい。
恵倫寺には柴家の遺品も数多く残されている模様。下の写真は柴一門の墓のあるあたりから眺める会津の町。その下は鶴ヶ城近くにある「つばくろ公園」にある柴四郎・五郎生家跡。
やまだ