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閔妃暗殺の人々  国友重章

 閔妃という李氏朝鮮の皇后がいた。

 19世紀の後半を生きた女性(1851年 - 1895年)だが、李氏朝鮮第26代王・高宗の妃であった。日本であれば、皇后にあたる存在だが、日本の策謀によって暗殺された、と言われている。韓国では、忠臣蔵のように有名な話だが、日本でも角田房子の<閔妃暗殺>という作品によって広く知られるようになった。(1988年1月、新潮社)

 当時の李氏朝鮮も半島という微妙な位置にあって大国の間で揺れていた。

閔妃は王朝の政治に深く関与していた。1873年舅である大院君を追放、一族を取り立てた。日本から軍事顧問を呼び、軍隊の近代化をはかったが、不満を持つ大院君等の勢力と旧軍が1882年閔妃暗殺を計画した(壬午軍乱)が未遂に終わった。 その際、多くの日本人も殺され、日本大使館も焼き討ちにあった。これ以降、閔妃は開化政策から親清政策へと方向転換した。
その後ロシアの南下政策を警戒したイギリスを牽制するためにロシアに近づいた。
 1894年には、日清戦争の戦場の一つになった。戦後、日本側の押す大院君派の勢力が強くなり、閔妃は勢力を失っていったが、95年7月ロシアの力を借りて権力を奪回。この動きは、日本などの諸外国に警戒され、10月8日、日本軍を中心に反閔妃の勢力により景福宮にて暗殺された。(乙未事変)

 朝鮮が親露に傾斜することを警戒した当時の日本の公使が、あの不平将軍の一人、三浦梧楼であった。暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。三浦を含む容疑者は召還され、広島で裁判が行われた。結果は、証拠不十分で免訴、釈放された。

 容疑者48人の中には、三浦以外にも、<新聞日本の人々>がいた。

 その一人が、国友重章であった。

国会図書館の憲政資料には、著名人の関係文書が納められているが、国友重章の文書もある。それによれば

< 文久元(1861).11熊本生まれ。1877西南戦争に佐々友房の下、熊本隊で活躍。>

三山、素川と同郷人である。

<1883上京、宮内省に出仕、のち法制局に転じる、1887後藤象二郎が提唱した大同団結に賛同、官を辞して『東京電報』(1889『日本』に改題)の記者となり、大隈重信の条約改正交渉には対外硬の立場から批判>

東京電報時代からの生え抜き記者であって、その後も

<1892~94.『東北日報』主筆、1893.朝鮮『漢城新報』に入り、1895.10閔妃殺害事件にかかわり広島で投獄される>

この裁判では、皆放免されたわけだが、

<1898.東亜同文会幹事。のち国民同盟会、対露同志会にも参加し、アジア主義を唱える、1909.7.16死去。>

その後も、ほぼ羯南と同じ道を歩んだことになる。

収蔵されている文書は

< 書類1綴(大陸・朝鮮問題に関する視察報告や、条約改正・満洲問題などの意見書など13点)
書簡の巻子本2巻(陸羯南、後藤象二郎、佐々友房、藤村紫朗など12名からの来簡13通)。>

とされている。

  この憲政資料の中には、安藤正純、古島一雄、谷干城(立教大学所蔵)、そして三浦梧楼の文書も収められている。

たかぎ



 
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by kuga-katsunan | 2007-04-18 22:47 | トピックス | Comments(0)
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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