羯南と篤麿の一行は、中国の旅の後に朝鮮半島に上陸している。
今回の私の旅では、北京からソウルに飛びその足跡をめぐったが、奇しくも中国文明の伝播の道と同じように歩いたともいえる。
民芸運動で有名な柳宗悦は、朝鮮美術の核心をいちはやく見出だし、その文化の象徴ともいえる光化門の日本人による破壊に反対した。
「光化門よ、光化門よ、お前の命がもう旦夕(たんせき)に迫ろうとしている。
お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。
どうしたらいいのであるか。
光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終ろうとしている。
お前は苦しくさぞ淋しいであろう。
私はお前がまだ健全である間、もう一度海を渡ってお前に逢(あ)いに行こう。」
(失われんとする一朝鮮建築のために、1922年)
この20年前に羯南たちは、この門をくぐり、その110年後に私たちはその美と風格に圧倒された。
けだし宮殿は、中国文明の同根の観はぬぐえないが、一方この門は不思議なことに朝鮮独特の風合を持ったものであった。
この巨大な文明の灯台の光が我が国をどのように照らしたか、もう一度、京都御所等を歩き考えてみたいと思う。
たかぎ