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羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る(最終)

「近衛篤麿日記」(第4巻)pp.245.によれば、羯南ら一行は、8月21日は京城学堂に行き、漢城新報館落成式に出席している。

京城学堂は、漢城病院の向かい側にあった模様で(1903年5月30日京釜鉄道㈱作成の「韓国京城全図」で確認できる。)、今の明洞の繁華街にあったことになる。

 平和政策研究所の2014.6.13付レポート「日韓歴史認識の構造」によれば、

「京城学堂は1896年に日本組合教会(キリスト教)系の大日本海外教育会が朝鮮に創設したものである。この団体は朝鮮半島のみならず中国大陸にも近代教育振興のために学校を建設している。

その資金は、日本政府の補助金に加えて、当時の政財界(伊藤博文、大隈重信、渋沢栄一など)からの寄付によって賄われた。

 特に、渋沢栄一は熱心な支援者であったようで、彼に提出されたと思われる京城学堂の報告書が『渋沢栄一伝記資料集』に残されている。

その資料によれば、入学者の中には、没落した両班家系の子弟が多く含まれていたと報告されている。つまり当時の朝鮮の支配層から疎外され不満を抱いていた人々の子弟である。

このような疎外感や不満が、彼らをして日本を背景に官界への進出を後押ししたであろうし、また日本も親日派の育成にそれを利用したものと思われまる。

 京城学堂の卒業生は200名ほどだったが、そのうち履歴書で確認される範囲だけでも40名が親日派官僚として朝鮮総督府に入っている。

そして、この学校は民間で設立されたが、日本にとっても重要な位置づけの学校であったことから、1906年には官立第二日語学校に格上げされた。

 このようなことから、日本の支配層もこの京城学堂を大きな関心を持って見ていたようである。まず、先ほども触れた渋沢栄一は次のように述べている。

「商業上より観察して、京城学堂の拡張をはかるの今日の急務なるを認むる者なり」(『太陽』5巻5号)。

渋沢は単に資金援助を行うだけでなく、直接、韓国に訪問した際、京城学堂に立ち寄り、学生に奨学金を手渡して未来を語りつつ励ましたという。

 また、大隈重信は「京城学堂出身者の者にして京城、或は仁川に於ける日本商估の店頭に、或は朝鮮人に接し、或は日本人を迎へて商業を営める者を見るは、現に利益の点よりも得る所頗る大なるのみならず、政治上の関係に於て、亦た極めて利益あるを疑はざるなり」(『渋沢栄一伝記資料集27』)と述べている。

 伊藤博文に至っては「日本人の事業にして真に奏効したのは京城学堂のみ」(岡田哲蔵『本多庸一伝』)と語り、その意義を高く評価している。・・・」

ということで、この学校に対するわが国の期待の大きさが伺えるとともに、統治にはやはり現地の優秀な人材が必要であったことが確認できた。

漢城新報本社の場所は特定できなかった。漢城新報は、1906年に大同新報と合併し、京城日報(1930年の地図「京城附近」によれば、京城日報本社は現ソウル新聞社辺りにあった模様。)となったが、1945年に廃刊。

廃刊時の社員がソウル新聞となって、事業を引き継いでいる。

翌22日16:40京城を後にし、18時過ぎに仁川到着、23日は仁川市内で教育衛生大会参加、歓迎会等で過ごし、24日の13時仁川を出帆し、木浦に向かっている。

しぶさわ

写真:京城学堂があった明洞地区の現況(小澤教授と)
羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る(最終)_e0106376_1655435.jpg

by kuga-katsunan | 2015-02-05 22:50 | 紀行
<< 京城の幻影 羯南の京城(ソウル)での足跡を辿る⑤ >>




明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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