「私立大学評判記(十四)慶応義塾寄宿舎」に入る前に、今回は『慶応義塾百年史中巻(前)』から、明治36年(1903年)10月刊の『慶応義塾学報』第70号に紹介された「慶応義塾の寄宿舎」を取り上げよう。
これはその年4月に大学部政治学科を卒業し、普通部教員兼寄宿舎舎監となった板倉卓造が、天耳生というペンネームで記述したものである。当時、慶応義塾の寄宿舎とはどのような意味があったのだろうか。実は、それが学校教育の本質につながるとらえ方なのである。
まず、次のように始まる。
「偏狭固陋の教育主義が横行する今の世に、若し私立学校存立の必要がありとすれば、そはこの偏狭固陋の教育主義に対して反旗を翻へすものでなくてはならぬ。是れ即ち私立学校の天職で、またその主たる存立条件である。慶応義塾が五十年来、『独立自尊』を標榜して、新教育主義を鼓吹しつつある所以のものは、即ちこの天職を全うせんが為めである。」
「偏狭固陋の教育主義」とは、官立学校のように国家に奉仕する人間を養成するための教育を意味すると思われるが、それに対し、私立学校の雄を自負する慶応には、「独立自尊」という個人の自主独立の精神を 学風として培ってきたとする心意気を感じさせる。
そして、以下のように続く。
「しかしながら、一言に慶応義塾といへば何人も三田の丘頭に聳ゆる巍たる赤煉瓦の建物を連想するであろうが、慶応義塾の本色は、蓋しこの中央の建物よりも、寧ろ丘の北隅に横臥せる長方形の寄宿舎に存するのである。」
慶応の教育の本質は、授業をする講堂にあるのではなく、生活の場である寄宿舎にあるという。古島一雄も同様な見方をしていた。
次回はさらに掘り下げられていく。
いしがみ