引き続き「(十八)慶応義塾大学部(三)」である。門野幾之進を排斥後、慶応義塾は「時代の風潮を追い」、法律部の大改革を実施した。
古島一雄は以下のように語る。
「帰朝講師中の覇権を握れる神戸寅次郎氏は青木徹次氏と共に法律部の面目を一新せんと期し、慶応義塾が最も嫌ひなりし帝国大学出身の博士、学士を請ふて其の講師たらしめ以て雄を神田の四法律大学と争はんと欲したり」(筆者注:青木徹次ではなく、青木徹二の間違いと思われる。)
帝国大学出身の新たな講師を13人も迎える一方、慶応出身者はわずかに2名のみだった。そこには神田にある法学院大学(現・中央大学)を始めとする、当時勢い盛んな四つの法律を中心とする大学への対抗意識がある。時代潮流に乗り遅れず、法律部を強化することが求められていたのであった。
このように慶応には、時流に敏感なところがあり、それは現在にも継承されている。
古島一雄は次のように続ける。
「法律部が三田風を脱して神田化せんとしつつあるやを見るべきなり。単に神田化せんとするのみならず英米一点張りの義塾は今や漸く独逸化せんとしつつあるなり」
創立者福沢諭吉からの伝統であるイギリス・アメリカの学問中心から、ドイツの学問を重視しようというのである。
次回、さらにその詳細を紹介しよう。
なお、この法律部改革について『慶応義塾百年史』では触れられていない。
いしがみ