生前、父が入院していた病院の近くに、野村胡堂が住んでいた家があった。
車椅子で父と散歩しているときによく前を通ったが、はるか前の作家の家が戦災を逃れて眼前にあるのが不思議な感じであった。
回想集である「胡堂百話」の中に<俳人子規の死>と題する一文がある。
「正岡子規の死んだ時は本当に泣きたい気持ちで、駆け付けたものである。(中略)根岸庵に駆けつけると、世話人の手が少なかったのか、私のような学生までが、受付係りを仰せつかった。」
子規の葬式は羯南が仕切ったというから、学生時代の胡堂は羯南の指図で受付に立ったのだろう。
「柩を埋めて、その上に置いた銅版に「子規居士」と鋳抜いた素朴な墓碑銘が、今もありありと眼の底に浮かぶ。」
この墓碑銘も羯南の筆になる。
胡堂は岩手時代、石川啄木と同人誌を作ったりしていたが、上京して一高に入学、子規の葬儀はその在学中のこと。
東大を中退して報知新聞の記者になり、銭形平次を生み出したのは昭和6年のころである。
新聞記者時代、時事川柳の連載を始めたが、それが新聞日本の影響だったのかどうか今や知る術もない。
たかぎ