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<羯南と古島一雄>(46) 私立大学評判記(その35)

 今回は、「(十三)慶応義塾の沿革(上)」である。
 古島一雄はこれを取り上げるのであれば、幕末・明治維新の歴史や福沢諭吉の生涯を詳しく紹介するべきであるが、限りある紙面なので簡潔に述べることにするとし、次のようにまとめている。

 「安政五年福澤氏が帷を鉄砲州の奥平藩邸に下して蘭書を講じ、慶応の末年芝新銭座に移りて塾舎を新築し初めて慶応義塾と名づけしと云うの一事を以て其上古史の大綱を終らざる可らず。」

 ここではもう少しその詳細を『慶応義塾百年史』から紹介しよう。
安政5年は、1858年である。奥平藩とは中津藩(現在の大分県中津市)のことであり、福沢は藩命によって、江戸の築地鉄砲州にあった藩の屋敷内で蘭学の家塾を開設した。当時、世間からは福沢塾と呼ばれ、これが慶応義塾の起源である。

 ちなみに、「家塾」とは、藩幕に仕えている学者が、藩幕の意をうけて、自宅に設けた塾のことである。当時の「私塾」は、現在の私立学校に、「藩校」は、公立学校に当たる。

 なお、当時、福沢は数え年25歳。鉄砲州は、現在の住所であれば、東京都中央区明石町の聖路加病院のあたりである。

 当初、福沢塾はしばらく転々とする。文久元年(1860年)に鉄砲州から芝新銭座にうつり、再び同3年(1863年)に鉄砲州にもどる。そしてこの年、芝新銭座の有馬家の屋敷を入手、翌4年(1864年)再び移転する。この年に校舎が完成すると、時の年号をとって塾名を「慶応義塾」とした。

 また、組織も西洋の共立学校の制度にしたがい、志を同じくするものが共同で協力して経営するしくみを導入し、藩の庇護による家塾から脱して近代私学として独立し、発足することになった。
 さらに、教育内容も蘭学から英学が中心になっていた。

 当時、学生数は、記録に残っているものから引用すると以下の通りであった。
文久3年(1863年)9名、元治元年(1864年)44名、慶応元年(1865年)101名、慶応2年(1866年)169名、慶応3年(1867年)255名。

 塾の移転を繰り返し、学校としては、不十分な体制や施設であったが、学生数が年々増加しており、評価が高まって行ったことがよくわかる。

 さらに古島は以下のような有名な出来事を紹介する。

 「福沢先生が砲煙弾雨の間に立ちてウェーランドの経済書を講せし」

 戊辰戦争の真最中でも福沢は講義を怠らなかった。彼は上野と新銭座は二里も離れているから鉄砲玉は飛んで来るわけはないといい、学生も面白がって梯子に昇って屋根の上から見物していたという。

 福沢は官軍、幕軍のどちらが勝とうが、次の時代に何が来るかをしっかり見据え、その準備を抜かりなく行っていた、ということだろう。彼は当時すでに、アメリカとヨーロッパに計三度もの訪問経験があり、欧米の書物だけでなく、現地で直接、体得したことから、必ずや日本は西洋化されると確信したのだろう。

 古島は福澤を認め、慶応義塾に大いに期待を寄せていたのであった。
 ちなみに、彼は後に犬養毅の片腕として活躍するのであるが、犬養は慶応の卒業生であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2011-09-28 08:57 | その他 | Comments(0)
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