今回から「(十二)慶応義塾と早稲田大学」の前半に入る。
古島一雄は、まず、「二人者の学校に於ける関係は、甚だ其趣を異にするものあり。」と述べる。前回、「(十一)三田の福沢と早稲田の大隈」で紹介したように福沢と大隈の性格が似ているにもかかわらず、自ら設立した学校との係わりが大きく違うと指摘するのである。
大隈については、以下のようにまとめている。
「大隈伯は、固より学校の創立者たるに相違なしと雖も、彼は曾て自ら学校を管理したる事なく、曾て自ら子弟を教へたる事なく、曾て学校を見舞たる事なく、其卒業式に臨みたるも実は数年以来の事にして、彼は直接に学校其物に関係したる事なく、或時に於ては寧ろ故らに其関係なきを装ひし事あり。」
まったく意外に思われるが、これも前回、解説したように、当時、「明治十四年の政変」で下野した大隈が、政府から危険視されていたという状況が大きく影響したと思われる。
一方、福沢は、次のように述べられている。
「福沢氏の慶応義塾は之に反し、自ら之を創立し、自ら之が教鞭を執り、自ら之を管理し、自ら之を経営せり。」
現在でいえば、福沢は理事長兼学長であった。
その結果、以下のような状況が生まれることになる。
「三田の学生にして福沢を知らざる者なかりしに反し、早稲田の学生中には、時として大隈伯其人の顔をだも知らざるものあり。」
大隈は、実質的な設立者であるにもかかわらず、このような状況にあった。しかし、当時、日本における最大有力者でもあった大隈抜きで、よくも慶応と肩を並べ、私立大学の両雄と称される位置に昇り詰めることができたものである。
古島は、後段でその分析をしているので、次回、紹介しよう。
いしがみ