今日は青木先生の命日。
最近、中国関係の仕事にもどったので、昔の中国のことをよく知っている人にお会いする機会が多い。
時々話題にのぼる本が、この柴田穂氏の書いた<毛沢東の悲劇>である。
柴田氏は幼き日を中国ですごし、文化大革命の初期を中国で取材した中から生まれた傑作である。
同時代の現象の本質を見抜くことは難しいが、この作品はそれを成し遂げたものといえよう。
その第一巻の巻頭の<はじめに>に、青木先生のことが出てくる。
「<毛沢東の悲劇>第一巻の発刊にあたって、「サンケイ新聞」への連載を企画、推進された青木前編集局長、藤村現編集局長、出版の企画、作業で私の重い腰を引っ張ってくれた「サンケイ新聞プロダクション」のみなさん、資料の面でご協力を受けた社外の方々に厚く御礼を述べたい。」
この本が出版されたのが1979年6月、その時、青木先生は既に筑波にいらしていた。
文化大革命が終了して3年、中国もまた大きな変動の時代を迎えようとしていた。
中国がどうなっていくかは、隣国の小さな島国、日本にとって常に大きな影響を与える。
羯南が生きた時代も、結果的には欧米列国の植民地政策の前に、もっとも大きな<市場>であった中国が蚕食されている間に日本は近代化を果たして現代へ繋がってきている。
日清戦争の終結後のアジアの国際環境の中で、日本の生き残りをかけて<支那保全>を掲げた人々がいた。
近衛篤麿が会長、羯南が幹事長を勤めた東亜同文会である。
その発起書は羯南が書いたものといわれている。
たかぎ