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<羯南と古島一雄>(20) 私立大学評判記(その13)

 今回で「(四)私立大学の勃興」も最後となる。

 いつの時代にも世故に長けた人間がいる。日本法律学校(現・日本大学)は、法学院(現・中央大学)、明治法律(現・明治大学)、和仏(現・法政大学)の3法律学校の大学昇格活動を尻目に、学生募集に成功し学生数を大幅に増加させたのであった。古島一雄は、以下のように記述している。

 「当時、日本法律の役員にして、文部省の官僚たる某なるものあり、三校が倉皇として大学組織の出願を為すと見るや、私かに、日本法律の理事たる戸水氏に語るに文部省深意の存する所を以てし、且つ大学の認可と専門学校令とは自ら別あるを説き、

 従つて大学設備の必ずしも急を要せざるのみならず、寧ろ専門学校令実施期限に至る一年間は、現状を維持するの却つて生徒収容に利なるを示せしより、戸水氏も亦た之れを便とし、旧制を存せしかば、他の三大学に容れられざりし学生は、翕然として日本法律の門に入り、同校は為に意外の学生を収容したり、

 而して松岡校長、戸水理事、人に語げて曰く、我校近来学生の俄かに増加を来たせしは、我校の実力漸く世間に認識せられたるに因るならん、と。世人称して戸水氏の敏腕と云う。」

 大学となると入学資格が高度に限定され、入学できない学生が増加することになり、そういう学生を大学に昇格しない日本法律学校が吸収してしまったのである。当時は、高等教育機関への進学希望者が大幅に増加した時期であり、ここから高等教育機関の発展が始まった。

 古島は、ジャーナリストとして現実主義の目で、当時の生き生きとした動きを伝えてくれている。そういえば、現在も当時と同様に大学より学生募集のうまい専門学校が存在している。

 さて、当記事が掲載された日は、明治36(1903)年11月6日であった。当時、古島は、38歳であり、編集長としてまさにあぶらの乗った時期であった。一方、陸羯南は、45歳、その年の6月から欧米へ旅行中であり、当日はパリにいた。ちなみに、正岡子規は、前年の9月19日に死去し、35歳の短い生涯を終えていた。

 さらに付け加えると、翌年2月10日に、日露戦争が勃発。また、高木主筆が発見した日本画報は、その6月6日に第1号が発行されている。まさに「坂の上の雲」の時代であった。

 いしがみ
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by kuga-katsunan | 2009-10-31 06:46 | その他 | Comments(0)
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明治を代表する言論人・ジャーナリストである陸羯南の足跡を追う          昭和後期~平成におけるマスコミ界のご意見番・青木彰の弟子達による記録
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